第16話:ループの果ての完成と、最初の読者
画面に輝く【第1章・了】の文字を見つめながら余韻に浸っている僕に、結衣先輩が温かいお茶を差し出しながら言った。
「これで第一章は完璧だね。ここからは『フェーズ2のモード2(マイクロプロット作成)』に戻って、章ごとにループさせるだけだよ」
「ループ……」
「そう。全体設計はもう出来てるんだから、あとは『分割して、書いて、また分割して……』を繰り返せば、どんな長編でも絶対に破綻せずに完結まで辿り着けるの」
その言葉は、僕の脳天に心地よい電流を走らせた。
なんだそれ。最強のチートアイテムを手に入れた勇者みたいな気分じゃないか。僕の胸の奥で、猛烈な執筆欲がガソリンを被ったように燃え上がった。
***
――それから、三日後。
カタカタカタカタ……ッ、ターン!
朝の静寂に包まれた研究室で、僕はこれまでで一番力強くエンターキーを弾いた。
淹れたてのコーヒーの香りが漂ういつもの空間。けれど、僕の目の前の景色は三日前とは劇的に変わっていた。
画面の末尾に打たれた【了】という一文字。
なんと僕は、講義の空きコマや通学電車のスキマ時間をやりくりして、たったの三日で全五章の物語を完結させてしまったのだ。
信じられない。ただ消費するだけの活字中毒だった僕が、一つの世界を、最初から最後まで創り上げてしまった。
胸の奥から湧き上がる圧倒的な達成感で、指先が微かに震えている。
(……読んで、ほしい)
猛烈な衝動が突き上げた。僕が紡いだ、この最高で不格好なエルムの物語を、今すぐ誰かの目に触れさせたい。
でも、自分から「読んでください」なんて言い出すのは、あまりにも気恥ずかしい。僕は素人の限界オタクだぞ。いざ面と向かって感想を言われるのを想像すると、自意識が邪魔をして喉の奥がキュッと締まる。
僕はチラチラと隣の席へ視線を彷徨わせた後、無意識のうちに自分のモニターを、結衣先輩の方へほんの数度だけ傾ける。
さらに、キャスター付きの椅子をギシッと鳴らして、少しだけ後ろに引いた。先輩から画面がバッチリ見えるように。これでもかというほどの「読んでほしいオーラ」のダダ漏れである。
「……ふふっ」
隣で、小さな笑い声が聞こえた。
結衣先輩が、面白くてたまらないといった様子でニコニコと僕を見つめている。完全にバレている。顔から火が出そうだった。
「もしかして、最初の読者に立候補していいのかな?」
先輩の優しい声に、僕の心臓がドックンと大きく跳ねた。
「っ……初めての作品なんで、絶対に、絶対に期待しないでくださいよ! ハードルは地底に埋めてから読んでくださいね!」
僕は必死に予防線を張りながら、手汗で滑るマウスを操作し、完成したばかりの原稿の先頭にカーソルを合わせた。
結衣先輩は画面に顔を近づけ、静かにスクロールを始めた。
カチ、カチッと、マウスのホイールを回す音だけが研究室に響く。
さっきまで「読んでほしい」と念じていたくせに、いざ読まれるとなると、全裸を見られているような強烈な羞恥心に襲われて今すぐ逃げ出したくなる。
僕は生きた心地がしないまま、横目でこっそりと先輩の横顔を窺った。
最初は面白がるようにニコニコしていた結衣先輩の口元から、次第に笑みが消えていく。
瞬きの回数が減り、真剣な瞳がダークモードの画面に浮かぶ文字列を滑るように追っている。ディスプレイの僅かな光に照らされたその横顔は、完全に「物語の世界」に入り込んでしまった読者のそれだった。
(……どうしよう。つまらなくて真顔になってるんじゃ……)
ドクン、ドクンと耳の奥で心拍数が跳ね上がる。
やがて、最後の一行までスクロールしきった結衣先輩が、ふう、と小さく息を吐いた。
「……先輩、あの、やっぱり素人の――」
「すごいよ、颯太くん」
僕の言い訳を遮るように、結衣先輩がパッと顔を上げた。
その瞳は、微かな熱を帯びて少しだけ潤んでいるようにも見えた。
「このエルムの葛藤、すごく刺さった。魔法で祖父を繋ぎ止めていたのが、他でもない自分自身だったって気づくところ……痛くて、でも優しくて、息をするのも忘れて読んじゃった」
「えっ……本当、ですか?」
「うん。最高のエピソードだった」
先輩の真っ直ぐな言葉が、じんわりと鼓膜から胸の奥へと染み込んでいく。
なんだろう、この感覚。
顔がカッと熱い。胸の奥がひどくくすぐったくて、炭酸水みたいにシュワシュワと甘い痺れが弾けている。
僕の頭の中にしかなかった「エルム」という少年の痛みが、今、確かに他の誰かの心に届いて、その感情を揺さぶったのだ。
これが、誰かに読まれるということ。
これが、「作者」になるということなのか。
「ふふっ、すっごく嬉しそうな顔してる」
結衣先輩が、いつものいたずらっぽい微笑みに戻って僕の顔を覗き込んだ。
「ねえ、颯太くん。この作品、颯太くんと私の二人だけのものにしておくのは、ちょっともったいないと思わない?」
「……え?」
「小説投稿サイトに出してみようよ。君の物語を、世界に放つんだよ」




