【第1話】懐かしき筐体
最後に覚えているのは――
風だった。
強い風が頬を叩いていた。眼下に広がる街並み。小さく見える車、豆粒のような人々。そして、足元に広がる虚無。
その虚無を、俺はじっと見つめていた。
ずいぶん、長い時間そうしていた気がする。
いや、それすらも曖昧だった。
気がつくと、俺は薄暗い空間に立っていた。
最初に気になったのは、音だった。
どこか遠くから、規則的な音が聞こえてくる。
ピ、ピ、ピ……。
心臓の鼓動のような、機械的な律動。でも、それが何の音なのか、なぜか考えたくなかった。考えると、何か大切なことを思い出してしまう気がして。
埃っぽい空気が鼻をくすぐる。かすかに聞こえる電子音。古いゲーム機の起動音のような、懐かしい響き。
地方都市の片隅。かつて通い詰めた古びたゲームセンターに、俺はなぜか立っていた。
「ゲームコーナー・ミライ」
入口の看板を見上げて、俺は呆然と立ち尽くした。
この店は、三年前に閉店したはずだ。再開発で取り壊されて、今はコンビニになっている。それなのに、なぜ俺はここにいる?
外の喧騒は聞こえず、空気は静まり返っている。窓の向こうは真っ白で、何も見えない。まるで世界に俺一人だけ取り残されたような感覚だった。
「夢……なのか?」
頬をつねってみる。痛い。夢にしてはリアルすぎる。
だけど、何かがおかしかった。
世界の色合いがやけに無機質で、霞がかかっている。
空気に、かすかな匂いが混じっていた。
懐かしい埃の匂いの奥に、もう一つ別の匂い。清潔で、無機質で、どこか冷たい。
(消毒液……?)
ゲームセンターに、消毒液の匂いなんてするはずがない。
「……なんだ、ここは」
違和感を振り払うように、俺は店の中を歩いた。
あの頃、俺には夢があった。
ゲームを作りたかった。世界中の人を夢中にさせるような、誰もが熱狂するような、そんなゲームを作ることが夢だった。だからこの店に通い詰めて、あらゆるゲームをプレイした。格闘ゲーム、シューティング、パズル。筐体に向かっている時だけは、何もかも忘れられた。
「……残ってたのか」
店の奥に、それはあった。
直径二メートルほどのドーム型筐体。球体を半分に割ったような形で、下半分が土台として床に固定されている。表面は焦げ茶色に変色した金属パネルで覆われていて、継ぎ目や留め具がむき出しになっている。年季が入っている。でも、それが逆に存在感を放っていた。
他のゲーム機は電源が落ちているのに、そのドーム筐体だけが、淡い青白い光を内側から滲ませていた。割れ目のような扉の隙間から、光が漏れている。まるで俺を待っていたかのように。
ドームの正面、胸の高さに操作パネルがある。そこに、タイトルロゴが浮かんでいた。
【MEMORY RECONSTRUCTOR】
通称。
その名前を見た瞬間、全身に鳥肌が立った。
十年前、俺はこのゲームにのめり込んでいた。NPCの「心の傷」を修復するというテーマでゲームセンターの一時代を築いた名作。プレイヤーはNPCの記憶の中に入り込み、彼らの後悔や未練を解消していく。当時は社会現象にまでなった。
ドーム型コックピット筐体。内部に乗り込むと、全方位を囲む球面スクリーンが展開される仕組みだった。頭上も、足元も、左右も、すべてが映像で覆われる。外の世界は完全に遮断される。あの頃の技術としては破格の没入感で、「本当にNPCの記憶の中にいるみたいだ」と言われていた。
だけど、そんなゲームもとっくにサービス終了したはずだ。
「なんで、ここに……」
恐る恐る近づいて、ドームの外壁に手を触れる。冷たい金属の感触。確かにここにある。幻じゃない。
パネルの横には、コイン投入口があった。「1PLAY 500円」の表示。
その隣に、小さな鏡面パネルがある。メンテナンス用の点検パネルだろうか。金属を磨いたような、歪んだ鏡。
俺は、そこに映る自分の顔を見た。
(……老けたな)
思わず、そう呟いていた。
映る自分は、疲れ切った顔をしていた。目の下には濃い隈、頬はこけ、髪は乱れている。いつからこんな顔になったのだろう。
十年前のあの頃、まだ夢も希望もあった。ゲームクリエイターになるんだと、本気で信じていた。
それなのに、今の俺は何だ。
専門学校は中退した。プログラミングは挫折した。夢は諦めた。
今の俺は、中途半端な営業職。毎日決められた資料を作り、言われた通りのプレゼンをこなし、反応の薄い顧客の前で作り笑いを貼り付ける。そんな日々を三年も続けている。
家族との関係は壊れかけていた。父とはもう何年もまともに話していない。あの人は俺の夢を鼻で笑った。「ゲームなんかで食っていけるか」と。そう言い切った背中を見てから、俺は少しずつ実家に帰らなくなった。
友人とも疎遠になった。学生時代の親友・ケンタとは、あの喧嘩以来一度も会っていない。ケンタが想いを寄せていたユキに、俺が先に告白してしまったことが原因だった。ユキとの関係も、結局は俺の身勝手さで終わった。二重の後悔が、今も胸の奥に刺さっている。
そして、ハルカのことがある。幼馴染の女の子。小学5年の時、クラスで孤立した彼女を、俺は助けなかった。逃げた。その罪悪感は、今でも消えていない。
後悔の残骸だけを抱えて、日々を消化しているだけ。
それが、今の俺だった。
(このゲームみたいに、やり直せたら)
あの時、ケンタに本当のことを言っていれば。
あの時、ユキを傷つけなければ。
あの時、夢を諦めなければ。
あの時、父ともっと話していれば。
あの時、ハルカを助けていれば。
そして――
あの時、あのフェンスの前で、別の選択をしていれば。
「……やり直せたら、な」
独り言のように呟いた瞬間、ポケットの中で何かが当たる感触があった。
手を入れてみると、五百円玉が一枚。
「……え?」
俺は財布を持っていなかった。いや、そもそもここに来るまでの記憶がない。なのに、なぜポケットに小銭が?
五百円玉は古びていて、表面には細かい傷がついていた。長い間、誰かのポケットの中で揉まれ続けたような、くたびれた手触り。
(まさか……動くのか?)
馬鹿げている。こんなの、夢か幻覚に決まっている。
だけど。
俺は何の躊躇いもなく、五百円玉を投入口に滑り込ませた。
カチリ。
コインが吸い込まれると、ドーム筐体が低く唸りをあげた。内側から光が強くなり、扉の隙間から青白い輝きが溢れ出す。足元から伝わってくる微かな振動。
扉が、ゆっくりと開いた。
中を覗き込む。球面スクリーンに囲まれたコックピット。操縦席のような一人掛けのシート。アームレストに埋め込まれたタッチパネル。
そしてシートの背もたれに、こう書かれていた。
『乗り込め。記憶が、お前を待っている』
俺は、コックピットに乗り込んだ。
シートに座った瞬間、扉が静かに閉まる。外の世界が、完全に遮断される。
暗闇。
そして――
『認証中……』
球面スクリーン全体に、文字が浮かび上がった。
昔のメモリコには、こんな画面はなかったはずだ。
『生体情報スキャン完了』
『記憶データベースへのアクセスを開始します』
『対象者:■■』
俺の名前が伏せ字になっている。自分の名前を思い出そうとして、なぜか思い出せないことに気づいた。
いや、思い出したくないのかもしれない。本当の自分として、また傷つくのが怖いのかもしれない。その感覚だけが、鮮明にあった。
『認証完了。記憶修復プログラムを起動します』
え? NPCじゃなくて、俺の記憶を?
「ちょっと待て、これは――」
言葉を遮るように、球面スクリーンが一斉に白く染まった。
頭上も、足元も、左右も、前後も。すべてが白。
まるでドームの内側に閉じ込められたまま、宇宙に放り出されたような感覚。重力が消えたような、それでいて深い水の底に沈んでいくような、矛盾した感覚。
意識が急速に遠のいていく。
(な……にが……起こって……)
思考が霧のように薄れていく中、かすかに誰かの声が聞こえた。
――記憶を修復せよ。
――お前の魂は、まだ"やり直せる"。
その声は、どこか自分自身のようでもあった。懐かしくて、切なくて、それでいてどこか温かい声。
――まだ間に合う。
――戻れる場所が、ある。
意識が完全に途切れる直前、俺は確かにその声を聞いた。
気がつけば、俺は知らない街に立っていた。
最初に感じたのは、空気の違いだった。息を吸い込むと、胸の奥まで清浄な空気が染み渡っていくようだった。
「ここは……」
ゆっくりと周囲を見渡す。
高層ビルが整然と並んでいた。壁面がガラスのように透き通っていて、中に光の粒子が流れているのが見える。空には巨大な時計塔が浮かんでいた。文字盤は数字の代わりに不思議な記号が刻まれている。
近未来的な街並み。パステルカラーの衣服、光るアクセサリー、透明なデバイスを操作する姿。誰もが穏やかな表情で歩いている。
だが、妙だった。
建物の壁の角が、丸く処理されている。どこにも鋭利な部分がない。
空気に、かすかな消毒液の匂いが混じっている。
歩く人々の影が、どこか薄い。顔はあるのに、表情がない。まるで書き割りのような、奥行きのない顔。視線を向けると、彼らはほんの少し遅れて微笑む。まるで「笑うべき」と判断してから笑うような、不自然な間があった。
空を見上げると、青空のように見えて、よく見ると継ぎ目がある。巨大な幕のような何かが、頭上に広がっている。
(おかしい。これはおかしい)
そして遠くで、あの規則的な音がまだ聞こえる。
ピ、ピ、ピ……。
この音だけが、どこか現実の手触りを持っていた。
目の前にホログラムが浮かび上がった。
《メモリーシティへようこそ》
メモリーシティ。記憶の街。
その名前を見た瞬間、これがゲームの中だと理解した。《メモリコ》の舞台となる仮想空間。
だけど、何かがおかしい。昔プレイした時のメモリーシティは、もっとカラフルで、賑やかで、夢のような場所だった。今、目の前に広がる街は、それとは違う。もっと静かで、もっと……整いすぎている。
ホログラムの表示が切り替わる。
《記憶修復プロセスを開始します》
《修復完了度:0%》
《目標:修復率100%達成》
「……帰還条件?」
その言葉が、妙に重く響いた。
「これ、ゲームなのか……?」
五感がすべて機能している。風を感じ、匂いを嗅ぎ、地面の硬さを足の裏で感じる。ドーム筐体の全方位スクリーンとは、明らかに違う。あの頃は映像に囲まれているだけだった。今は――本当にここにいる。
《ログインボーナス:RP300を支給しました》
《はじめに、修復ステージを選択してください》
ホログラムのパネルが開き、【記憶修復ステージ】の一覧が表示される。
RPというポイントについての説明は、まだなかった。システムの詳細も、何も。ただ、後悔の一覧だけが、静かに浮かんでいた。
【ステージ一覧】
■駄菓子屋さんでお釣りを多くもらったこと(難易度★)
■ゲームがやりたくて辞めた中学の部活(難易度★)
■文化祭での告白(難易度★★)
■親友ケンタとの喧嘩(難易度★★)
■クラスでイジメられていたハルカを助けられなかったこと(難易度★★★)
■父との確執(難易度★★★)【解放条件:修復率70%以上】
■?????(難易度???)【解放条件未達成】
俺は、息を呑んだ。
並ぶのは、まさに俺の過去。
「……なんだよ、これ」
声が震えていた。
ただのゲームじゃない。これは俺の後悔そのものだ。
でも、胸の奥底がざわついている。
本当に、やり直せるかもしれない。あの時できなかったことを、今度こそできるかもしれない。
(やるしか……ない)
俺は、もっとも簡単そうなステージを選択した。
【駄菓子屋さんでお釣りを多くもらったこと】(難易度★)
指先でパネルに触れると、光が俺を包み込んだ。
温かい光。懐かしい光。
視界が白に染まっていく中、俺は不思議と恐怖を感じなかった。
むしろ、どこか安心していた。
そして遠くで、あの音だけがまだ聞こえていた。
ピ、ピ、ピ……。
――ここから、俺の"記憶修復"が始まった。




