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哲学の道の端の紅茶屋で幸せな時間をかみしめる清掃会社社長

哲学の道を歩いていると、花はちょうど満開やった。

咲ききって、散る直前の、いちばんええ時期。風が吹くたび、花びらが音もなく落ちていく。

「めちゃめちゃええ時に来ましたね」そう言うと、社長はゆっくりうなずいた。

「ほんまやな。こういうタイミングって、もうあと何回あるかわからへんからな」

足を止めて、しばらく桜を見上げる。写真を撮るでもなく、急ぐでもなく、ただ眺める。

「こういうのはな、ちゃんと味わわなあかん」

博子は、少しだけ間を置いてから、冗談めかして言った。

「まあ、私と味わうのもええですけど、奥さんとか、お子さんとかとも、

こういう時間、作らはってもええんちゃいます?」

社長は一瞬、言葉に詰まってから、苦笑いした。

「……それ、今言わんでええやろ」「ですよね」

二人で笑う。変に重くならない。この距離感が、ちょうどいい。

哲学の道を少し外れたところに、博子が前から目をつけていた紅茶の店があった。

派手な看板はない。観光客向けでもない。知らんと通り過ぎてしまうような場所。

「ここです」扉を開けると、空気が変わった。外の春の明るさとは違う、

少し陰のある、静かな空間。深く腰を沈められるソファー。壁際には古い家具。

奥には真空管アンプが置かれていて、控えめな音でジャズが流れている。

「……こんなん、よう見つけるな」社長が感心したように言う。

「スコーンもありますけど、今日は紅茶だけにしときましょか」

「せやな。ここは、紅茶やな」アッサムティーが運ばれてくる。

カップから立ちのぼる、深い香り。一口飲んだ社長が、ゆっくり息を吐く。

「うまいなあ……」「ですよね」店内には、外国の人が一組いるだけ。

会話も控えめで、時計の音すら聞こえてきそうな静けさ。

「なんか、雑誌で見たことある気するわ」社長が言う。「京都って、

昔のもんを直して使うの、結構流行ってるんですよ」ひろ子は、少し説明する。

「新しいものを足すより、古いものを活かす感じ。だから、和食も好きなんです」

「なるほどなあ」社長は、アンプや家具を眺めながら言う。「新しいもんばっかり

増えすぎてな。最近は、こういう“落ち着く場所”を求めてる人、増えてるんやろな」

紅茶を飲みながら、とりとめのない話を続ける。仕事の話でもなく、店の話でもなく、

将来の話でもない。ただ、今ここにいる、その時間の話。「博子と来て、

ほんま楽しかったわ」社長がぽつりと言う。

「こうやって気持ちが落ち着くと、他の人にも、もうちょっと優しくできそうな気する」

その言葉を聞いて、博子は、心の中でそっと息をついた。

――それでええ。誰かを独占するでもなく、縛るでもなく、ただ“余白”をつくる。

「人って、こういう時間、定期的に取らなあきませんよね」

「せやな。思いつかんと、すぐ百貨店とか、人多いとこ行ってまうけど」

社長は笑う。「人が集まらん場所でも、こんなええとこ、あるんやな」

カップの底が見える頃、外の光が少し傾いていた。「今日は、来てよかったわ」

その一言で、十分やった。派手な出来事はない。

特別な約束もない。ただ、哲学の道と、静かな紅茶と、少し軽くなった心。

ええ時間は、こんなふうに流れていくんやな、と。

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