東京のおじさんが六本木の半額で森伊蔵を入れる。新地の飲みかた、博子の飲み方に感心する
高級茶を一口、二口と味わいながら、場の空気はすっかり落ち着いていた。
騒がしくもなく、気を張る必要もなく、ただ「夜を使っている」という
感覚だけが、静かに流れている。そんな中で、東京のおじさんがふとメニュー表を手に取った。
「……あ」声を出して笑う。「これ、森伊蔵いくらや?」
黒服が答える。「5万円です」その瞬間、完全にツボに入った。
「安っ。六本木の、半額やん」本気で驚いている顔だった。
作り物でも、社交辞令でもない。「六本木やったら、
“はい、10万です”って顔で出てくるで」博子は、そこで一拍だけ置いた。
すぐに「じゃあ入れましょう」とは言わない。この人が、
どう飲みたいかを、ちゃんと見てから。「今日、入れなくても全然大丈夫ですよ」
そう言った上で、続ける。「でも、もし“今日は締めに一本入れとこか”
って気分やったら、次回来店約束の森伊蔵、いかがですか?」
“約束”という言葉に、東京のおじさんが反応する。
「なるほどな」少し考えてから、うなずいた。「ほな、最後にそれ入れて帰ろか」
黒服に合図が飛ぶ。森伊蔵が、静かに運ばれてくる。
派手な演出はない。コールもない。ただ、ボトルが置かれただけ。
「こういうのがええねん」おじさんは、グラスを眺めながら言う。
「東京やと、“せっかく来たならもっと!”“次これ行きましょ!”
ってなるやろ」博子は、少し笑って首を振る。
「今日は、“ちゃんと帰るための一本”ですから」
その言い方が、また気に入ったらしい。
「ほんまやな。帰り道まで考えてくれる子、珍しいわ」
森伊蔵を一口含みながら、おじさんはふと思いついたように言った。
「こう考えたらさ、地方回るのもアリやな」博子は、自然に乗る。
「いいと思います。博多とか、札幌とか、最近すごい人気みたいですし」
「やろ?」目を細めて笑う。「博多は飯うまいし、札幌は空気がええ。
その上で、こういう落ち着いた飲み方できたら最高や」
少し間を置いて、付け足す。「それに、博子が“新地、新地”ってゴリ押しせんのが、またええ」
その言葉に、博子は一瞬だけ驚いた顔をする。
「普通やったら“大阪来たら毎回来てください!新地が一番です!”って言うやろ?」
「言いませんよ」博子は、はっきり言う。
「合う場所で、合う飲み方した方が、長く続きますから」
東京のおじさんは、しばらく黙ってから、ぽつりと笑った。
「……それやな」そして、さらっと言う。「宣伝しとくわ。博子“ごと”」
「え?」「店の名前とかやなくて」グラスを軽く掲げる。
「“こういう飲み方できる子がおる”って」その一言が、ひろ子の胸にすっと入った。
派手な自慢でも、大きな約束でもない。でも、それが一番、効く。
「ありがとうございます」そう答えながら、ひろ子は思った。――今日は、
無理に引き伸ばさなかった。煽らなかった。売り込まなかった。
でも、ちゃんと“次”を残せた。森伊蔵を飲み終え、東京のおじさんは席を立つ。
「また来るわ。次は京都も絡めてな」「ぜひ」終電の時間でもない。
でも、“今日はここまで”という区切りが、きれいだった。
ひろ子は、空になったお茶ボトルと半分残る森伊蔵を見なながら、小さく息を吐く。
――こういう夜を、積み重ねていけばいい。静かだけど、確かな手応えを残して、
その夜は、きちんと終わった。




