弁護士先生とのやりとり。ノリに乗らなくてもゆっくり飲めばいいんです。
水曜日の夜。指名卓が一段落して、博子はフリー待ちの位置に戻っていた。
店内は相変わらず賑やかで、ソウメイのボトルが何本も立っている卓、
若い男たちの笑い声、シャンパンコール。
その中で、少し浮いた空気の一角が目に入る。
四人掛けの卓に、スーツ姿の男性が一人。
周りは盛り上がっているのに、その人だけが
一歩引いた位置でグラスを傾けている。
無理に笑わない。けれど、つまらなそうでもない。
「ノリに乗れないけど、帰りたいわけでもない」
そんな居場所を探している顔だった。
黒服に声をかける。「フリー、あの卓行ってもいいですか?」
少し意外そうな顔をされたが、すぐに頷かれる。
席に着くと、男性は丁寧に会釈をした。弁護士だという。
北浜で事務所を構えているらしい。「こういう店、
嫌いじゃないんですけどね」そう前置きして、少し困ったように笑う。
「どうしても、ノリがうまく合わない時があって」
博子は急がなかった。無理に盛り上げようともしない。
ただ、グラスを軽く持ち上げる。
「わかります」「先生、今日たぶん…野球の気分やったんちゃいます?」
先生が一瞬、きょとんとする。「野球?」
「はい。野球観るつもりで球場行ったら、サッカー始まった、みたいな感じです」
先生は一拍置いて、ふっと笑った。「……それは、確かに戸惑うな」
博子は続ける。「盛り上がってるし、悪いわけじゃないんですけど、
ルールもテンポも違うから、どこで声出してええかわからんやつです」
先生はグラスを見つめながら、ゆっくり頷いた。
「せやな。ワシ、応援歌も知らんしな」その一言で、空気が変わった。
“理解された”という安心が、卓に静かに広がる。
「先生、たぶん一人の時は話せる人やと思います」
博子はそう言って、少しだけ距離を縮める。
「でも集団になると、周りがサッカー始めたのに、
自分だけバット持って立ってる気分になるんちゃいます?」
先生は苦笑いを浮かべた。「よう言うわ。ほんまそれや」
少し間を置いて、ぽつりと続ける。「一対一やったら、話すのは嫌いやないんや。
ただ、ウケる話をせなあかんと思うと、黙ってしまう」
博子は首を横に振る。「ウケなくていいと思います」
「空間でゆっくり飲むのも、立派な楽しみ方ですよ」
先生が顔を上げる。「……それ、言われたことなかったな」
「だいたい皆、“もっと騒ぎましょう”とか、“楽しまな損ですよ”
って言いますから」博子は静かに言う。「でも先生、
野球観に来てる人に、サッカー楽しいですよって言っても、
ズレてるだけです」先生は小さく笑い、深く息を吐いた。
「確かに。その子ら、コンセプト間違えてたんやな」
博子は少しだけ目を細める。「女の子が先生を見てなかっただけです」
「先生が悪いわけでも、ノリが悪いわけでもない」
その言葉に、先生の肩の力が抜けた。「今日は、落ち着いて飲みたかったんや」
「なんか、久しぶりに思い出したわ」グラスが空になる。
先生は黒服を呼び、軽く手を上げた。
「この子、場内で」博子は静かに会釈する。
派手なコールはない。でも、確かな手応えがあった。
野球のつもりで来た夜に、ちゃんとキャッチボールができた。
それだけで、今日は十分やった。




