水曜日の夕方、おじいちゃんからの同伴の誘い。現役時代のなじみの割烹で同伴
水曜日の夕方。支度を始めようかどうか迷っていた、その時やった。
スマホが鳴る。画面に表示された名前を見て、博子は一瞬だけ姿勢を正した。
――おじいちゃん「はい、どうしました?」
受話口から聞こえてきた声は、昨日と同じ、少し掠れているけれど元気な声やった。
「昨日はありがとうな。楽しかったわ」
「こちらこそ、ありがとうございました」
それだけで、胸の奥が少しあたたかくなる。
「今日な、夜八時から仕事あってんけど……正直、暇やねん」
おじいちゃんは、少し笑いながらそう言った。
「昨日が楽しかったからな。あんた、今日同伴入ってへんやろ?」
図星やった。「……はい。今日は特に予定なくて」
「やろ。あんた、そのへん下手くそやからな」
冗談なのか、本気なのか分からない口調で、そう言われる。
「せやからな、もしよかったらや。一緒に飯でも食ってから、店行かへんか」
一瞬、言葉に詰まる。同伴の誘い。しかも向こうから。
「どうせあんた、支度する時間もあるやろ。早めに新地来なさい」
電話越しに、もう決定事項のような口調や。
「えっと……ありがとうございます。じゃあ、支度して向かいます」
「おう。店はな、わしの行きつけがある。今日はそこでええやろ」
そう言って、電話は切れた。スマホを置いて、ヒロコは一度深呼吸した。
――同伴、入った。朝、不動産会社の社長から断られて、
少し気持ちが沈んでいた水曜日。それが、夕方になって、思いがけずひっくり返った。
指定された時間より、少し早めに店の前で待つ。
おじいちゃんは、少し遅れて現れた。落ち着いた色のジャケットに、磨かれた革靴。
「待ったか?」「いえ、今来たところです」そう言って笑うと、
「相変わらず、ええ子やな」と、ぽつりと言われた。
連れて行ってもらったのは、北新地の路地裏にある、小さな割烹料理屋。
看板は控えめで、知らない人なら通り過ぎてしまいそうな店や。
暖簾をくぐると、板場の向こうから、店主がすぐに声をかけてきた。
「あ、お久しぶりです。今日はお連れ様と?」「そうそう。最近、
よう世話になっとる子や」その一言で、ヒロコの立場はすぐに分かった。
席に通されると、店主が自然に料理の説明を始める。
「こちらのお客様、昔はほんまによく来てくださってましてね。
社用族やった頃は、会合で頻繁に」社用族――
懐かしい言葉や。「メンツで来てはって、金払いもよかったんですよ。
ええもん、よう頼まはった」そう言って、店主は笑う。
「いやいや、あれは全部経費やから」おじいちゃんは、少し照れたように手を振った。
「今はもう引退したしな。あんな派手な飲みはせんけど」
グラスに注がれた日本酒を、一口含みながら続ける。
「でもな、やっぱ時々、懐かしゅうなって来てしまうんや」
料理が運ばれてくる。季節の八寸、薄く味の染みた煮物、
丁寧に焼かれた魚。どれも派手さはないけれど、静かに沁みる味やった。
「昔の北新地はな……」箸を置いて、おじいちゃんは話し始める。
「今より、もっと荒っぽかった。派手な飲み方する奴も多かったし、
女の子も、よう来てくれた」笑いながらも、どこか遠くを見る目。
「仕事は正直、しんどかったで。責任もあったしな」
一拍置いて、続ける。「でもな、新地で飲んだ時間は、楽しい思い出も多い」
「引退してからは、飲みに誘われることも減ったし、家帰っても、
仕事ばっかりやった分、居場所がなくてな」ヒロコは、黙って頷く。
無理に相槌を打たない。この人は、話したいだけや。
「こうやって、若い子と飯食って、昔の話して、また新地歩く」
小さく笑って、言う。「それをなぞるのが、わしの若さの秘訣かもしれんな」
その言葉が、妙に胸に残った。派手な自慢でも、説教でもない。
ただ、人生の続きとして、新地がある。「……素敵ですね」そう言うと、
「そうか?」と少し照れたように笑った。食事を終えて、店を出る。
夜の新地は、少しずつ灯りが増えていた。「じゃあ、行こか」
そう言って、並んで歩く。今日は、同伴。でも、売り上げより、
この時間そのものが、大事やと感じていた。――こういう夜があるから、続けられる。
ヒロコは、そう思いながら、おじいちゃんと並んで、新地の通りを歩いた。




