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初フリー、税理士さんと会話する

博之――いや、博子は、フロアで名前を呼ばれた。

「博子、フリーお願い」胸の奥が、わずかに跳ねる。

博子としては十八から二十まで、何度もフリーに付いてきた。

だが“中身がひろ博之”としては、これが初めてだった。

席に着くと、相手は五十代半ばほどの男性だった。

落ち着いたスーツ、姿勢がいい。連れの男性が一人。「はじめまして、博子です」

声のトーンを少し落として挨拶する。ここまでは、体が覚えている。

「どちらからいらっしゃったんですか?」

「豊中やね。今日は仕事関係で来ててな」

来た。博之の頭が、静かに起動する。

「お仕事、何されてるんですか?」

「税理士や。開業してて、今日はお客さんと」

税理士。瞬時に、話のルートが見えた。

「え、税理士さんなんですか。すごい……」

ヒロコは少し目を丸くする。「私、商業高校出身で、簿記はちょっと

かじってたんですけど、税理士さんって雲の上の存在で。

経営者の方と渡り合ってるの、ほんと尊敬します」

相手の口角が、わずかに上がる。

「そやろ。まあ大変やけどな」

「やっぱり、こういうお仕事やと、お客さんと一緒に飲みに来ることも

多いんですか?」「多いなあ。特にこの時期はな」

「確定申告、終わったところですもんね」

一拍置いてから、続ける。

「三月十五日過ぎたら、少し落ち着かれる感じですか?」

「……よう分かっとるやんけ」

きた。博之は内心で、軽く拳を握った。

「せや。そこ越えたらな、ちょっと一息ついて、羽伸ばせるんや」

「ですよね。ずっと気張ってたら、体も持たないですもん」

「博子ちゃん、よく分かってるな」相手は、満更でもなさそうに笑った。

だが、次の瞬間、空気が少し変わる。

「まあ、やから。この辺に飲みに来ての女の子と、ディープな関係つくりにきてるのもある」

言葉と一緒に、距離を詰めるような視線。

――ああ、これか。博之は冷静だった。

博子のままだったら、きっと内心で「面倒くさいおじさん」と思っていたかもしれない。

だが、四十二歳のおじさんにとって、この手の空気は慣れたものだった。

「そんなことないですよ」声のトーンを少しだけ柔らかくする。

「私、なかなかお客さんもできなくて。正直、こうやって成果を出してこられた方の

お話を聞けるの、すごく勉強になります」

相手の表情が、少し緩む。

「そういう方って、やっぱり魅力あるなって思いますし」

胸元に視線が落ちる。――きついな。博之は一瞬そう思うが、すぐに切り替えた。

(借り物の体や。気にしたら負けや)

「もしよかったら」軽く間を取って、続ける。

「今日はご挨拶だけでもいいので、次に来られる時、指名いただけたら嬉しいです。

ドリンクも、無理な時は全然いらないですし」

相手は少し考える素振りを見せた。「時間あればな」

「もちろんです。店前同伴とか、私はしないので」

「それはええな」

「もしよければ、今度ゆっくりお食事でも。深いお話もできたら嬉しいです」

一拍、間を置く。「高いところじゃなくていいですし」

――ここで、博之の悪い癖が出た。「新地の外れに、

立ち飲み屋とかあるんですよ。ああいうとこ、どうですか?」

しまった。完全に、おじさんの感覚が出た。

相手は一瞬、戸惑ったような顔をする。

博之は、内心で舌打ちした。(やってもうた……)

「え、あ、でも」すぐにフォローに入る。

「無理にじゃないですし。お忙しいと思いますし。今日はほんと、ご挨拶だけでも」

相手は苦笑いを浮かべた。「まあ、機会あったらな」完璧ではない。

だが、ゼロでもない。席を立つ時、博之は静かに整理していた。

――入りは良かった。――話は噛み合った。――最後の一言が、少しズレた。

それでも、手応えはあった。感覚ではなく、段取りで話せば、通じる。

フロアに戻りながら、博之は思った。今日は負けていない。

次は、もう少し上手くやれる。この体でも、この頭でも。

一本目は、ちゃんと見えてきていた。

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