弁護士先生は2セットで帰る。フリーの時間。前は怖かったが今は色々考える時間に使える
二セット目が終わる頃、弁護士先生はグラスを置いて、時計をちらっと見た。
「今日は、二セットで帰るわ。」
博子は一瞬だけ「え、もう?」と思ったけど、口には出さない。先生は先生で、
ちゃんと“明日”に体力を残してくれてる。そういう人や。
「ありがとうございます。明日、昼楽しみにしてますね。」
「うん。明日が本番やからな。…集合時間、また連絡ちょうだい。」
「了解です。明日は刺さないで、整えるだけにしときます。」
「刺してもええけど、僕が明後日仕事できんくなるからやめて。」
二人で笑って、先生はジャケットを羽織る。
いつものように黒服に軽く会釈して、出口に向かう背中を見送りながら、
博子は胸の奥で小さく息を吐いた。
先生に甘えてるな、って最近ちょいちょい思う。雑に振っても怒らへんし、変に詰めてもこない。
“しゃべる時間”を目的にしてくれてるから、こっちが演出で無理をせんでいい。
ありがたい。だからこそ、明日くらい、ちょっとした恩返しのつもりでちゃんと整える時間を
作ろうと思う。
先生が帰ったあと、博子はフリーのタクに戻った。
椅子に腰を下ろした瞬間、体の奥に溜まってた疲れが、どっと顔を出す。
「……マジで土日、疲れた。」
思った以上やった。体が疲れたというより、頭が疲れた。
段取り、調整、空気読み、次の球、次の球。笑ってるのに、脳内はずっと走ってた。
あれ、たぶん“気づかれ”の疲れや。相手の顔色、温度、刺さり具合。全部拾いに行くと、
知らんうちに自分の呼吸が浅くなる。
それを整えるためのフリー。ここに戻ると、ようやく「ただ座る」ことができる。
店の音は鳴ってる。グラスの音、笑い声、黒服の足音。
でも、自分が舞台の真ん中に立ってない時間は、ちょっとだけ世界が静かになる。
博子は氷の入ったグラスを手元に置いて、ぼんやり天井を見た。
フリーって、ほんまに不思議や。暇やのに、休みじゃない。
落ち着くのに、気は抜けない。呼ばれたらすぐ立てる姿勢のまま、頭だけを緩める場所。
今の課題は、はっきりしてる。
まず一つ目。同伴が、もう“毎日入る”流れになってきてること。
それ自体はありがたい。でも、同伴が増えるほど、同伴の後ろの時間が雑になる危険も増える。
同伴で流れ作って、二セット回して、帰して終わり。それだけやったら、ただの消費で終わる。
次につながる設計を入れてる今の自分からしたら、それは一番もったいない。
二つ目。
フリーの時間の使い方。“待機”って、ただ座ってるだけやと、脳が腐る。
かといって、仕事の段取りを詰めすぎると、休まれへん。
ちょうどいいラインが必要や。
メモ整理、次の品書きの更新、返事すべきLINE、明日の段取り。
それを全部やると、フリーが仕事になってまう。だから、半分だけやる。半分だけ残す。
ここもまた、余白の設計。
三つ目が一番でかい。
東京の社長陣を、どう裁くか。
数が増えてきたら、単価を上げるか、頻度を落とすか、どっちかしかない。
でも頻度を落とすと、“熱”が冷める。単価を上げすぎると、“値段”だけが先に立つ。
博子がやりたいのは札束の世界やない。あくまで、価値と余白と気づき。
そこを崩さずに、相手の熱量も維持して、こっちの体力も守る。言うたら、難しい綱渡りや。
「……まあ、でも。」
博子は小さく笑う。ここまで来たら、もう戻られへん。戻りたいとも思わへん。
昔の自分は、フリーで座ってる時間が怖かった。“選ばれてない”って空気が、椅子に染みてた。
でも今は違う。呼ばれる。動かせる。組める。
その分、疲れる。でも、その疲れはちゃんと意味がある。
グラスの氷が溶けて、音が小さくなった。博子はスマホを手に取って、明日の予定を
もう一回だけ確認する。弁護士先生との昼。集合時間の連絡。そこだけはミスれへん。
「よし。今日は、フリーで整える。」
誰に言うでもなく、心の中でそう決めた。待機待ち。でも、ただの待機やない。
次の波を受けるための、静かな準備の時間や。




