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博之が出勤することで現状把握。まずは一本指名とろう。

北新地のエンペラー。店の前に立った瞬間、空気が一段、張り詰める。

博之――いや、博子は深呼吸をひとつして、裏口から中へ入った。

「おはようございます」自然に口をついて出た挨拶に、少しだけ驚く。

博子だった頃は、いつも喉が詰まっていたはずなのに、今日は声が安定していた。

「今日はとりあえずフリー入ってもらうからね」黒服が淡々と告げる。

「まずは一本、本指名取れるように頑張ろうか」

一本。たった一本だが、今のヒロコにとっては高い壁だ。

ロッカー室でドレスに着替えていると、別のスタッフが声をかけてきた。

「博子ちゃんさ、私のお客さんの前で、黙り込むのだけはやめてね」

冗談めかした口調だが、目は笑っていない。

「なんか面白い話とか、小話とか、ちゃんと用意しといてよ」

さらに畳みかけるように、もう一言。

「あと、変にドリンク頼むのもやめてね。空気見て」

――なるほど。博之は、頭の中で静かにうなずいた。

課題点が、はっきりしてきた。ヒロコは“悪い子”ではない。

ただ、引き出しが圧倒的に足りない。商業高校を出て、すぐにこの世界に入った二十歳。

社会経験も、会話の蓄積も少ない。気の利いた話ができなくて当たり前だ。

しかも、ここは北新地。客層は社長、役員、医師、士業。

金を払っているのは酒や時間じゃない。会話だ。女の子に触りたいだけなら、

別の店はいくらでもある。この街に来る客は、話を楽しみに来ている。

「……そら、きついわな」博之は、博子の立場を冷静に理解した。

話せない。引き出しがない。結果、席で置物になる。それが続けば、自信も削られ、

倒れる。だが――今のヒロコの中には、四十二歳のおじさんの頭がある。

三十を過ぎてから、博之はキャバクラに通ってきた。客として、だ。

どういう入り方をされると嬉しいか。どういう質問が自然か。

どういう女の子が記憶に残るか。それなりに、体感として分かっている。

フリーで席についたら、まずは探る。「今日はお仕事帰りですか?」

「この辺、よく来られるんですか?」

「いつもお気に入りの子、いらっしゃるんですか?」

最初から自分を売らない。相手の“立ち位置”を確認する。

会社経営なら、最近の景気の話。役職者なら、組織の話。

ニュースを振るなら、硬すぎない方がいい。

「最近、こんなニュースありましたよね」そこから、相手の反応を見る。

Twitter、TikTok。世代が違っても、意外と見ている人は多い。

「これ、流行ってるらしいですね」そこから雑談に落とす。

重要なのは、知識をひけらかさないこと。

“知ってる”より、“一緒に話す”が大事だ。

相手が何に興味を示すか。その瞬間を逃さず、そこを広げる。

「……やることは、分かってるな」

広之は、ドレスの裾を整えながら、そう思った。

ヒロコには、引き出しがなかった。

でも今は、借り物とはいえ、引き出しの“作り方”を知っている。

完璧な会話はいらない。一本、本指名。今日はそれだけを目標にする。

スタッフに呼ばれ、フロアへ向かう。煌びやかな照明、グラスの音、笑い声。

この場所で、もう一度、勝負をする。

博子は、席に向かいながら、心の中で整理した。

――相手を見る。――相手の話を拾う。――次につながる一言を残す。

感覚じゃない。これは、作業だ。

そう割り切った瞬間、博子の背筋は、少しだけ伸びていた。

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