水曜日。不動産会社社長との同伴豚しゃぶ→お店のお話
水曜日。約束していた不動産会社の社長との食事の日だった。
選んだのは、北新地の豚しゃぶの店。扉を開けた瞬間、
ふわっと鼻に入ってくるのは、出汁と豚の脂の匂い、それに敷き野菜の青い香りだった。
あ、これは今回も当たりやな、と博子は内心で思う。
派手さはないが、店内は落ち着いていて、声も反響しすぎない。
仕事終わりの大人が、無理せず腰を落ち着けられる空気だ。
乾杯をして、鍋に火が入る。豚がしゃぶしゃぶと湯の中で色を変えるのを
見ながら、社長が笑って言った。
「いやあ、博子ちゃんの店選びはやっぱりすごいわ。
変に気取ってへんのに、ちゃんと美味い」
その言葉に、博子は素直に「ありがとうございます」と返した。
内心では、そらそうやろ、と思う。酒も料理も、無理に渋さを演出していない。
それでいて、外していない。一番難しいところをちゃんと押さえている自信はあった。
会話は自然に流れる。仕事の話が半分、雑談が半分。
「社長って、仕事以外の時間は何されてるんですか?」
そう聞くと、社長は少し考えてから答えた。
「不動産屋はなあ、結局ゴルフやな。水曜休みの社長連中と回ること多いで」
なるほど、と博子はうなずく。水曜休み。平日ゴルフ。
それは確かに、この業界ならではだ。
「すごいですね。半分仕事で、半分遊びみたいな感じなんですね」
そう言うと、社長は笑った。
「まあな。完全に遊びでもないし、完全に仕事でもない。
その境目で人脈が増えるんや」
その言葉を聞きながら、博子は思う。この人は、無理に虚勢を張らないタイプだ。
だからこそ、こういう“ちょうどいい店”が効く。
鍋は静かに進み、日本酒も控えめに。最初に決めた「一万円前後」の枠を、
お互いが自然に意識しているのがわかる。
誰も値段の話を口に出さないが、空気で共有されている。
食事が終わり、店を出る頃には、会話もすっかり温まっていた。
「今日はええ時間やったわ。この流れやったら、夜も一回行っとこか」
そう言って、社長はそのまま同伴で店に来てくれた。
店に入ると、黒服が一瞬目を見開く。
最近の博子の動きに、まだ完全には飲み込めていない様子だ。
ワンセット。ドリンクを一杯いただき、落ち着いた時間を過ごす。
煽らない。無理をしない。「また次来た時も、こんな感じやったらええな。
そしたら、今度はボトル入れてもええし」
その言葉を聞いて、博子は笑顔でうなずいた。焦らなくていい。
“次がある”という感触が、何より大事だ。
社長を見送った後、黒服が声をかけてきた。
「最近の博子、ちょっと変わったな。
正直、まだ全部は見えてへんけど……」
そう言いながらも、続けてこう言った。
「来週な、週三やけど、もう一日入ってみるか。土曜日や」
土曜日。正直、少し緊張するが、チャンスでもある。
「ありがとうございます。助かります」そう答えると、黒服は少し考えてから続けた。
「これがな、八日くらい続くんやったら、時給3,000円をいきなり4,000円は早いけど、
3,500円に上げる話と、出勤日数増やす話も考えてええ」
その言葉を聞いて、博子は深くうなずいた。
派手な売上じゃない。でも、確実に評価は動いている。
帰り道、博子は一人、静かに息を吐く。今日は勝ちすぎていない。
でも、負けてもいない。一番いい日だ。




