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手帳の中身は、ゼロだらけだった

なぜこうなったのかは分からない。

けれど、分からないままでも、腹は減るし、家賃は発生する。博之――いや、

今は博子の体に入ってしまった自分は、とりあえず「博子として生きる」以外の

選択肢がないことだけは理解していた。

目が覚めた部屋は、新地の近くのワンルームだった。

生活感はある。高級でもないが、みすぼらしくもない。

二十歳が背伸びして、この街に寄せた部屋。そんな匂いがした。

まずは現状確認。広行の癖は、もう染みついている。

混乱した時ほど、数字と事実を並べる。

机の上に置かれた手帳に目が行く。

若い女の子の手帳を勝手に開くのは、正直、気が引けた。

覗き見みたいで、胸の奥がざらつく。だが、もう「他人の人生」じゃない。

これからは自分が博子として生きる。知らずに動くのは、事故るだけだ。

手帳を開く。出勤――月・水・金。週二〜三回。二十時から一時。

そこまでは普通だ。問題は、その横に小さく書かれたメモだった。

同伴、ゼロ。本指名、ほぼゼロ。フリー/ヘルプ。「……なるほどな」

博之は、ベッドに腰を下ろし、息を吐いた。北新地でこれは厳しい、

というより“よくここまで持ったな”が正しい。結果が全ての世界で、

結果が出ない人間は空気みたいに扱われる。ヘルプにもなれず、

フリーに付いても本指名に変えられない。典型的に「売れない子」の配置だ。

そして博之は、そういう子を何人も見てきた。

自分が客として、だ。三十歳を過ぎたあたりから、博之はキャバクラに通い始めた。

最初は付き合い、次は気晴らし、そのうち習慣になった。十数年。

梅田界隈に関しては、ほぼ一通りの店に行っている。知らない店名の方が少ない。

売れる女の子、売れない女の子。店が伸びる瞬間、落ちる瞬間。

黒服の動き、席の流れ。フリーの温度、本指名の温度。遊んできた分だけ、現状が分かる。

もちろん、偉そうに言うつもりはない。客としての「分かった気」なんて、

現場の苦労に比べたら薄い。だが、それでも博之には確信があった。

――博子は、戦い方を間違えている。売れない子は、見た目が悪いから

売れないわけじゃない。もちろん見た目が武器になる世界だが、

同じくらい「段取り」と「型」がものを言う。どこで笑うか。どこで線を引くか。

どこで距離を詰め、どこで引くか。次回につながる一言を残せるか。

連絡先交換のタイミングを逃していないか。そういう小さな積み重ねが、数字になる。

手帳のページをめくっても、営業の記録がほとんどない。誰がどんな話をしたか、

何を喜んで、何に反応しなかったか。残っていない。つまり、毎回が

“その場勝負”。検証も改善もない。そりゃ、負け続ける。負け続ければ、

心が折れる。折れた心は、体から崩れる。博之は、ふと別のことを思い出した。

自分はYouTubeをやっていて、配信もしていた。時期によっては、視聴者を連れて

店に行ったこともある。自慢じゃないが、そういう繋がりで「人」を見る

機会が増えた。黒服のクセ、女の子のタイプ、店の色。

外から見える範囲でも、だいぶ情報が入る。

難波方面は?あそこは昼キャバくらいしか行っていない。夜の街の解像度は

梅田ほど高くない。だから今の自分が取れる選択肢は、実は限られている。

北新地で戦うなら、北新地のルールで戦わないといけない。

でも今のヒロコは、それができていない。じゃあどうする?

「……まずは、店に行って空気を掴むしかないな」

広行は立ち上がり、鏡の前に立った。

そこに映るのは、二十歳の博子。可愛い系で、受けも悪くないはずの顔。

けれど目の奥には、四十二歳の男の疲れが宿っている。

――こんな顔、武器にできるのに。客だった頃の自分なら、

思わずそう言っただろう。ただ、武器は持っているだけでは意味がない。

使い方を知らなければ、すぐ折れる。博之は、脳内で整理を始めた。

第一に、現状確認。博子が店で何を求められているのか。ヘルプの立ち回り、

席の流れ、黒服との距離感。フリーに付く時の型。第二に、博子が倒れた理由。

睡眠は取れていたのか。食べていたのか。誰かに詰められていたのか。

自分で自分を追い込んでいたのか。

第三に、これからの生存戦略。

北新地に残るなら、最低限の“型”を作る。すぐに売れる必要はない。

まずは生き残るライン。そして、もし北新地が合わないなら――梅田方面に寄せる。

広行が一番解像度を持っているのはそこだ。客層も店の色も分かる。

勝てる確率が、上がる。もちろん、簡単じゃない。今の博子は同伴がゼロで、

本指名もほぼゼロ。つまり「外に客がいない」。そこが最大の弱点だ。

だが逆に言えば、余計な縛りもない。過去の太客に振り回されることもない。

ゼロから作るしかないが、ゼロなら型を作りやすい。

博之は、静かに息を吐いた。終わったはずの人生が、

別の体で続いている。奇跡でも救いでもない。むしろ罰に近い。

けれど、罰なら罰なりに、やり方がある。

「感覚じゃなくて、段取り。……それしかない」

そう呟いて、博之は博子としての初出勤の準備を始めた。

今夜、店に行けば分かる。自分が何を引き継いでしまったのか。

博子が何に負け続けたのか。そして――この人生を、どこまで立て直せるのか。

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