博子と清掃会社社長との同伴。トンカツ屋にて
トンカツ屋まで来ていただけた。それだけで、今日は一歩前に進んだと思っていい。
待ち合わせは、店の少し手前。北新地の路地は、夜になると暗がりが多い。
ここで大事なのは、歩き方と距離感。近すぎない、遠すぎない。
もし変に触られそうになったら、さっと手を繋ぐ。
拒否じゃない、誘導。まだ関係はできていない。
だから、線は自分で引く。「ここです」そう言って店の暖簾を指さすと、
中から、いい脂の匂いが流れてきた。(うん、正解)この匂いがある限り、
今日の会話は“ご飯の話”で成立する。店に入ると、カウンターだけの空間。
余計な装飾はない。フライヤーの前で、黙々とトンカツを揚げている。
「ええ匂いするな」清掃会社の社長が、そう言って少し笑う。「ですよね」
私はそれに、軽く頷くだけにした。高い店を選んで、
「美味しいですね」を言わせるのは簡単だ。でもそれは、誰でもできる。
私がやりたいのは、手頃で、ちゃんと美味しい店を一緒に見つけること。
「正直」と、私は切り出す。「高くて美味しいは、当然やと思うんです」
「だから、こういう手頃で、ちゃんと美味しい店を探してて」言い切らない。
価値観の押し付けはしない。「よかったら」「一緒に探してもらえたら嬉しいなって」
先生は、少し意外そうな顔をした。「北新地の女の子って」
「もっと、ええ店ばっかり知ってるんかと思ってた」(来た)
ここで、否定もしない。持ち上げもしない。「テンプレみたいなの、私も疲れるんです」
そう言って、少しだけ笑った。トンカツが出てくる。衣は軽く、音がいい。
キャベツは山盛り。岩塩とソースが並ぶ。「まずは塩でどうぞ」
店主の一言。こういう一言がある店は、大体、外さない。
一口食べて、社長が頷く。「うまいな」それだけ。その“それだけ”が、いい。
私は、トンカツの話に寄せる。銘柄だとか、産地だとか、言わない。
揚げ方、音、匂い、食べやすさ。誰でも共有できる話題。
「疲れてると、こういうの沁みますよね」そう言うと、社長は静かに笑った。
「分かるわ」仕事の話も、少しだけ。重くしない。
深掘りしすぎない。私は聞く。相槌は短く。評価しない。
途中、店内が少し混み始める。距離が詰まる。腕が触れそうになる。
ここで一度、私は自分から手を差し出した。「人多いですね」
そう言って、自然に。手を繋ぐのは、境界線を作るため。
曖昧な距離より、明確な線。先生は、驚かず、嫌がらず、
ただ繋いだ。(よし)まだ、関係はできていない。だからこそ、今はこれでいい。
食べ終わる頃、社長が言った。「こういう店、落ち着くな」
その一言で、今日は十分だ。高い酒もない。煽りもない。媚びもない。
その代わり、ちゃんとした時間が流れた。私は思う。多分、この人は、
テンプレ通りのキャバ嬢に飽きている。だからこそ、
今日は“花を持たせる”より、“安心を残す”。会計を終え、店を出る。
夜風が、少し冷たい。「また、ええ店あったら教えてや」社長が言う。「はい」
「一緒に探しましょう」それでいい。今日は、それで十分。
北新地で、トンカツの匂いが残る夜。
博子は、次に繋がる手応えを、確かに感じていた。




