半セットで、関係をつなぐ
正直なところ、博子はもう十分だった。
今日、ここまで来てくれただけで、胸の奥はいっぱいになっている。
(来てもらえただけで、十分すごい)
同伴で店に入り、ワンセットを一緒に過ごし、ここまで穏やかに話せた。
それだけで、数日前の自分とは景色が違う。
博子は、少しだけ姿勢を正し、先生の方を見た。
「先生」声は、さっきまでよりも少しだけ柔らかい。
「今日は、来ていただいただけで、本当に嬉しいです」
「それに、先生とたくさんお話しできて、すごく楽しかったです」
先生は、少し驚いたようにこちらを見る。
「だから……これからも、コツコツ来ていただけたら嬉しいなって思ってます」
一拍、間を置く。「北新地って、シャンパンをパンパン開けるイメージ、ありますよね」
「でも、私、そんなこと言いません」
先生の表情が、わずかに緩む。
「それは、先生とお話しするのが楽しいからです」
「お酒の量とか、金額とかよりも、こうやって話せる時間の方が大事やなって」
ここで、欲張らない。売らない。煽らない。「正直に言うとですね」
ヒロコは、少しだけ声を落とす。「今日の先生のお気持ちからしたら、
“一セットいてください”って言うのは、ちょっと重たいかなって思ってます」
先生は、黙って聞いている。
「でも……」「半セットだけ、いていただけたら」
視線を外さず、続ける。「30分だけ、延長していただけたら」
「それだけで、私の成績的には、少しついて」
「仕組み上、正直、すごく助かります」
ここで、すべてを出す。
「今日のところは、それ以上、私は何も贅沢言いません」
「ドリンクもいらないですし、シャンパンも言いません」
先生の眉が、わずかに動いた。
「それでですね」ヒロコは、話を未来にずらす。
「また先生とやり取りしながら、次、ゆっくりお食事できるように」
「お店探しも、ちゃんとします」「なんなら……」
少しだけ、笑う。「お昼でもいいです」
「大阪駅でもいいですし、百貨店の中とか、グランフロントにも、私おすすめのお店あるんです」
「夜より、昼の方が、意外と落ち着いて話せる店、多いんですよ」
「もし時間合えば、今度そこ行きませんか?」
一拍。「ちゃんと、埋め合わせはしますんで」
“埋め合わせ”。この言葉には、重さがある。
でも、それを“軽く”出すのが、博子の今の立場だ。
先生は、しばらく考えていた。
グラスを持ち、氷を転がしながら、ふっと笑う。
「……なかなかやな」「博子ちゃん、商売上手やね」
その言葉に、博子は心の中で静かに息を吐いた。
「そう言われるとさ」先生は、少し照れたように続ける。
「おじさんも、ちょっと頑張っちゃおうかな、って気になるわ」
「30分、延長しよか」――取れた。
「ありがとうございます」ヒロコは、すぐに頭を下げた。
正直、ここで「じゃあ、もう一時間どうですか?」
と言えば、いけたかもしれない。
でも、それはしなかった。一時間延長は、嬉しい。
売上も立つ。黒服の評価も上がる。
けれど――関係が切れる可能性も、一気に高くなる。
今、博子が必要としているのは、“今日の勝ち”じゃない。
・出勤日数を確保すること
・シフトを減らされないこと
・定期で来てくれる老客さんを作ること
そのためには、無理をさせない。頑張らせすぎない。
30分でいい。半セットでいい。コツコツ、積む。
(42のおっさんやったら、こんなん絶対してくれへんやろな)
ヒロユキは、心の中でそう思った。
自分が客側だったら、ここまで配慮されると、むしろ逃げ場がなくなる。
でも、今の自分は、20歳の博子だ。
ヒロコは、満面の笑みで先生を見る。
少しだけ身を乗り出し、胸元が自然に視界に入る角度で動く。
計算じゃない。でも、無意識でもない。
「ほんまに、ありがとうございます」
先生は、苦笑いしながらグラスを持ち上げた。
こうして、ヒロコは“勝ちすぎない勝ち”を選んだ。
派手じゃない。でも、続く。
北新地で生き残るには、それが一番、強いやり方やと、
博子――中身は42歳の博之は、はっきり分かっていた。




