荒い社長を怒らせないための慎重な言葉選び。おじいちゃん帰宅後
荒い社長の前に戻ると、空気はまだ少しだけ張っていた。
さっきまでの苛立ちが完全に消えたわけではない。でも、怒鳴るでもなく、
黙り込むでもなく、グラスを持ったままこちらを見るその表情に、博子はふと気づく。
(……待ってくれてる)それが、なんだか妙に胸に残った。
「でも、社長」博子は、少しだけ間を置いてから口を開いた。
「私が席外してる間、ちゃんと笑顔で待っててくれたじゃないですか」
社長は一瞬きょとんとした顔をする。「正直、私がお客さんの立場やったら、
“なんやねん”ってムッとしてると思います」そう言って、軽く肩をすくめる。
「でも社長は、ちゃんと待ってくれてた。それって、すごい器やなって思いました」
言葉を選びながら、叱るでもなく、持ち上げすぎるでもなく、“気づいてるよ”と伝えるように。
「そういうとこちゃいます?社長として、長くやってはる理由って」
新井社長は、しばらく何も言わずに博子を見たあと、ふっと力を抜いたように笑った。
「……そう言われると、悪い気はせえへんな」グラスを軽く揺らす。
「自分じゃ、そんなつもりなかったけどな」「でも、確かに昔よりは、
怒鳴るより黙って待つ方が増えたかもしれん」博子は、内心でほっとする。
(よかった、刺さりすぎてない)「私はですね」博子は、話題を少しだけ自分側に引き寄せる。
「どんちゃん騒ぎより、ゆっくり穏やかに飲む時間の方が、割と好きで」
「今日みたいにボトル入れてもらえるのは、もちろんめっちゃ嬉しいですけど」
「ずーっと派手に飲まなくても、続きで、ゆらゆら飲める時間がある方が、
私はええなって思うんです」社長の反応を見ながら、言葉を選ぶ。
「だから、なんか“今日は飲むぞ!”って日じゃなくても、ふらっと来てくれたら、
それはそれで嬉しいですよ」派手な人が苦手、とは言わない。でも、輪郭だけは伝える。
社長は腕を組み、少し考えるような顔をした。「……なるほどな」
「そういうスタンスの嬢は、あんまおらんわ」「大体は、今日は何本?今日は何入れる?
って感じやからな」「せやから、ちょっと拍子抜けするけど、
それが逆に新鮮なんかもしれん」博子は笑う。「多分、私は売れへんから、
そうなっただけなんですけどね」「売れない時期が長かった分、
どうしたら“続く”かばっかり考えてました」
社長は、じっと博子を見たあと、小さくうなずいた。「……それ、強みやで」
「無理して派手にやらんでええって、自分で分かってるのは」
博子は、少しだけ目を伏せる。(……でも、ちゃんと伝わってるんかな)
派手に飲む人はあまり得意じゃない、距離を詰めすぎるのも怖い。でも、
はっきり言い切る勇気はない。(濁してるの、バレてるやろな)
それでも、今はこれが限界。おじいちゃんの言葉が、頭の奥でよみがえる。
――ほどほどに。――余裕を残せ。グラスを口に運びながら、
博子はその“ほどほど”を探している。近づきすぎない。離れすぎない。
好かれすぎない。嫌われない。そのさじ加減が、今夜はやけに難しく感じた。
社長は、先ほどより少し落ち着いた表情で、静かに酒を飲んでいる。
博子も、それに合わせてペースを落とす。(今日は、これでええ)
派手な正解はない。でも、壊れない距離は作れる。そう自分に言い聞かせながら、
博子は、ゆっくりとグラスを傾け続けた。ネオンの光が、氷の中で揺れていた。




