おじいちゃんとのゆるい時間の中、荒い社長から連絡くる。指名被り。どうしよう。
そんな話をしているときだった。テーブルの端に置いてあったスマホが、震えた。
画面に表示された名前を見て、博子は一瞬、瞬きをする。
――荒い社長。一度、深呼吸してから出る。「もしもし」
『今から行くわ』短く、それだけ言われる。
博子は、反射的に周りを見た。目の前には、まだおじいちゃんがいる。
グラスの中の響は、まだ半分以上残っている。「ありがとうございます。
ただ今ですね、指名のお客様がいらっしゃいまして」『ああ、そうなんか』
「30分ほどしたら区切りがつくと思いますので、少し遅めに来ていただけたら助かります」
一瞬の間。『ほな、そのくらいで行くわ』
電話はそれだけで切れた。博子は、スマホを伏せて、ぽつりと言った。
「……どうしよう。本当に来ました」おじいちゃんは、驚くでもなく、静かに笑った。
「せやろ」「え……」「多分な」グラスをくるりと回しながら続ける。
「一件、どっか別の店行って、面白くなかったんやと思うで」
「それで、博子ちゃんのとこに来て、“面白くなかった”って言いに来る」
博子は、思わず目を見開いた。「そこまで……分かるんですか?」
「分かる分かる」おじいちゃんは、あっさり言う。
「嫌われるような飲み方するやつはな、どんどん友達減っていく」
「飲みたいって言うてくれる人も減る」「せやから夜の店に行きがちになる」
少し間を置いて、言葉を選ぶように続ける。「でもな」
「夜の店の若い姉ちゃんが、そのおじさんを“会話で”満足させられるか言うたら、難しい」
「かわいいで売ってる子は、基本、男側にトーク任せがちや」
「構造的に、満足できへんようになってる」博子は、昨日のフロアを思い出す。
「……確かに」「立ち飲み屋とかで、同年代と飲める人はな」
「自分にも語れる趣味があって、相手の話も聞ける」「その素養がある」
「それができたら、わざわざキャバクラに来いへん」「来るってことは、
そのどっちも足りてへん可能性が高い」博子は、思わず苦笑した。
「……すごいですね」「いや、長いこと見てきただけや」そう言って、
おじいちゃんはグラスを置いた。そのとき、フロアの方が少しざわついた。
黒服が、遠くから目配せをする。――来た。「来たな」おじいちゃんが、ぽつりと言う。
荒い社長は、少し肩で風を切るような歩き方で入ってきた。
「おう、来たぞ」その声を聞いた瞬間、博子の胸がきゅっと締まる。
――指名かぶり。初めてだった。博子は、反射的におじいちゃんを見る。
「……すみません」小さく頭を下げる。「ヘルプ、ゆっくり飲める子を
つけてもらいますね」おじいちゃんは、首を横に振った。「ええよ」
「今日はもう十分話した」「行ってこい」「ただし」
ヒロコを見る目が、少しだけ真剣になる。「あんまり振り回されるなよ」
「ほどほどの距離でな」その言葉に、博子ははっきりとうなずいた。
「はい」もう一度、軽く頭を下げる。「ありがとうございます」
博子は立ち上がり、荒い社長の席へ向かう。背中に、おじいちゃんの視線を感じながら。
――大丈夫。――焦らなくていい。――私は、私のペースで。
荒い社長は、博子を見ると、少しだけ表情を和らげた。「おう、来てくれたか」
「お待たせしてすみません」博子は、いつもより少しだけ距離を取って座る。
おじいちゃんの言葉が、頭の中で静かに響いていた。“ほどほどに”
その意味を、今夜はちゃんと守ろうと思いながら。




