淑女の体力作り
ヒロイン視点に戻ります。
身体がやけに重い。まるで自分のものではないようだ。
差し込む光に目を細める。天蓋付きの豪華なベッド、見慣れない調度品……ここは……どこだろう。
控えめなノックとともに声がした。
「クラリス様、お目覚めでしょうか……?」
――この声。そう、侍女のメリンダだ。
「メリンダ、今起きたわ」
いつも通り答えたはずなのに、自分の口から出たのは、ひどくかすれた小さな声だった。
扉が開き、メリンダがそっと入ってくる。
「クラリス様、いえ……奥様。おはようございます。お水をお持ちしました」
その言葉で、昨夜アランの妻となったことを思い出す。
顔が赤くなっていくのがわかるが、何でもない振りをして杯を受け取る。
水をひと口含むと、乾いた喉がようやく潤った。
「ありがとう。私、どれぐらい眠ってしまったのかしら」
「今は昼過ぎでございます。旦那様は朝早くからお仕事に向かわれ、しばらくは戻られないと」
「……お見送りできなかったわ。妻失格ね」
落ち込むように呟く。
「そんなことはありませんわ!」
メリンダは首を振り、声を強めた。
「むしろ、奥様はしっかり妻としてのお勤めを果たされました。その証にこうしてお疲れなのです。恥じることなどございません」
「そうだといいのだけれど……」
沈黙を破るようにメリンダが問う。
「お食事になさいますか?」
その言葉でようやく、自分が空腹なことを思い出した。
「えぇ、お願い――」
立ち上がろうとしたが、足に力が入らず崩れ落ちてしまう。
「奥様!」
慌てて駆け寄ったメリンダが支える。
「無理はなさらないでくださいませ。お食事はこちらにお持ちいたします」
力なく頷き、ベッドに身を預ける。
やがて外に控える使用人へ指示を飛ばした後、メリンダが戻ってきた。
「ねぇ、メリンダ聞いてくれる?」
唐突な問いかけになってしまったが、メリンダは静かに頷いてくれた。
「私に”淑女の何たるか”を教えてくれたスーザン先生が言うにはね、“淑女に体力は不要”だそうよ」
眼鏡をかけ、髪をきっちり結い上げているスーザン先生の姿を思い浮かべながらぽつりぽつりと話し出す。
「でもね……今この有様よ?淑女に体力は必要だわ、絶対に!」
話しているうちに熱が入り、次第に私の声は大きくなっていった。
「走り込みをして体力を付けようと思うのだけれど、いかがかしら?」
メリンダは目を瞬かせ、苦笑まじりに答える。
「……奥様。伯爵夫人になられた奥様が走り込みをなさるというのは、少々外聞がよろしくありませんわ」
「そう、よね……」
唇を噛む。けれど諦めるつもりはなかった。
「メリンダ、あのね――」
ひとつ妙案を思いつき、耳打ちすると、メリンダは少し驚いた顔をしたあと、笑みをこぼした。
「……なるほど。それなら問題ございません。すぐに手配をいたしますので、二、三日お待ちくださいませ」
「ええ、よろしく頼んだわ」
頷きながら、私は胸の奥で小さく拳を握った。
――三日後。
身体はすっかり元通りになり、心まで晴れやかだった。
窓辺で伸びをしていると、メリンダの声が響く。
「奥様、例の物が届きました」
「よくやったわ、メリンダ!」
勢いよく扉を開けると、彼女の横にがっしりとした使用人が立ち、荷を抱えていた。
「こちらに置いていただけるかしら」
部屋の床に荷が下ろされる。
「奥様、決して怪我などされませんよう……」
メリンダは心配そうに眉を寄せた。
「大丈夫よ。分かってるわ。心配しないで」
一人きりになると、胸の奥がわくわくと高鳴った。箱を開け、まずは一番軽いものを取り出す。
脚に巻く用のバンド型の重りだ。
慎重に装着し、ドレスを下ろして隠す。
「ふふっ、完璧ね!誰がどう見ても立派な淑女だわ!」
鏡の前で軽くターンし、にっこりと微笑んだ。
「庭を散歩してもよろしいかしら?」
扉越しにメリンダへ声をかける。
「私もご一緒いたします。ですが、その前に……」
メリンダが差し出したのは大ぶりのブローチだった。
「こちらは代々伯爵夫人が身につけてきたものです。大奥様よりお預かりしました。まだ奥様のお顔を知らぬ方もおられますので、しばらくは屋敷の中でも着けていただきますように」
「そんな大層なもの……なんだか緊張しちゃうわ」
掌にのせ、しばし見つめる。だが、すぐに顔を上げた。
「……っと、時間は有限よ!さあ、出かけましょう」
外の空気は、部屋にこもっていた身に沁みるほど心地よかった。
「基本的に屋敷の中はご自由に。ただし東側の離れには近づかぬよう、旦那様よりお達しがございます」
思わず足を止める。
「離れ?まさか、愛人がいらっしゃるの……? 仕方なく娶った妻には本邸で仕事をさせ、夫は離れで愛人と真実の愛を育む、ちょうど昨日まで読んでいた小説に書いてありましたわ……」
嫌な想像ほどまたたくまに膨らんでいく。小説で見た挿絵が、私とアランに置き換わって――
しかしそれは、メリンダによってすぐさま否定された。
「いえ、弟君のルシアン様がお住まいです。多感なお年頃ゆえ、しばらくは離れにいらっしゃるのです」
「……まぁ、弟がいるのね!私にもマティっていう弟がいて、とってもかわいいのよ。会えなくて寂しいわ……ルシアン様に会ってはいけないのかしら?」
「申し訳ございません。旦那様のお考えでございます」
「そう……残念だけれど、仕方ないわね」
気を取り直し、庭を歩く。体を動かすと、思った以上に気持ちがいい。
だが――
「あの、奥様……もう少し歩調を落としていただけますと……」
後ろからメリンダの息の上がった声がした。
「あら?先生のおっしゃった通り、水がこぼれない姿勢を保って歩いているつもりよ?」
「奥様のお姿は完璧です。ただ……わたくしの方が……」
メリンダの頬は赤く、肩で息をしていた。
「ごめんなさい、気づいてあげられなくて!ここからは一人で散歩するわ」
「ですが……」
「大丈夫よ。だいたいの地図は頭に入ったから、迷子にならないわ!」
「……承知いたしました。それでは私は先に戻っております」
メリンダを見送り、一人歩き出す。
だが――
「迷子にならない」なんて、どうして言い切ってしまったのだろう。
できるだけ速く、されど優雅な脚運びをすることに夢中になり、気づけばどこにいるか分からなくなっていた。
歩けば歩くほど、見覚えのない景色ばかり。
「ここ……どこなの……?」
思わず漏れた小さな問いかけに、答えてくれる人は誰一人としていない。
華やかに彩られた広い庭園に一人きり。
この状況がまさに今の自分を表しているようで、私は不安と寂しさで胸を押さえた。