歌集・句集「影返し」
『情景と雲』
狩猟月その猟銃に奪われた 紅葉の風と我が双眸
→見えぬれど火薬の匂いを手繰り寄せ 狩るものの尾を握り引き寄せ
炎天を忘るるように流しては マイナス十度の週明けの朝
→曇り空水平線の先の先 そこにはきっとアフリカの獅子
我が夢は朝日窓辺の青嵐 虹彩に消える泡沫の夢
→ぼんやりとまだある夢の欠片たち 集めて脆し夢日記かな
秋月に言葉、声すら尽きるまで 語るも足りず死に仏
→美しく輝く月を語るには 我が命でも炭が足りない
サラサラと流れ消えゆく風は波 くじらの泳ぐ大海の空
→大海に得体の知れぬ白い影 好奇心で死ぬ私はイシュメール
朝の雲昼に蝉の音夕雷雨 夜の露草夏虫の声
→日が昇り落ちるその日は夏ばかり 季節は自分の名を語らない
蝉の音が降りし日の朝涼しくて 伸びて撫でしは青き草風
→早起きをしてももらえぬ三文銭 ラジオ体操最後はいつだ
花を見てあといくつかと数えれば 遠くに見える枯葉落ちる日
→死ぬまでにあと何回見られるか この美しき風の流れは
麗らかな布団に潜りし縁側で 一笑に付す過ぎし時かな
→春眠で暁見られぬだけでなく 二度寝の温度忘れられない
『春雷』
転々と笑面つけて桜舞い
→能面は隠せ悲しき鈴蘭に
アスファルト踏んで温もり春うらら
→散歩道蒲公英これで何本目
白山社満ちる桜の燃ゆる傍
→近づくな暗き常緑樹の奥の道
多摩川に白詰咲いた夜の風
→丸子橋見下げて耽る下り風
花の舞目に入るのは散り桜
→散り際はかくもと付けて美しき
咲く雨の涼しき春夜の酒の香よ
→アルコオル瓶に落ち鳴る春雨か
晩春に行き絶え絶えと窓の網
→倒れれば先に網あり女郎蜘蛛
『夏影』
蝉時雨音立て燃える緑火炎
→灰と煤集めて流す山清水
夏草の青を想えば祖父の家
→水仙と線香立てて横引き戸
晴天に雷火と轟音響かせて
→窓ガラス張り付き集め紫電かな
夏風や大丈夫だと細らむ手
→涼香すら過ぎれば記憶炭絵画
我弱し愛鳥週間唱えては
→あの朝の雀の名前も知らぬまま
風吹けば金の花と飛ぶ東尋坊
→踏み込んで命奪えや泡沫や
蝉の雨いと涼しきは通学路
→日の槍が降り焼く肌の通勤路
雨晴るる夕立の匂いアスファルト
→雨晴るる嫌に張り付く栗の花
人の世の愚かさ流す緑雨かな
→罪すらも赦免も見れば水面鏡
夏を背に万年筆の音がする
→書き重ね積んだ言葉は花の影
水流れ岩の境界街の中
→砂落ちて渇き見渡し町の外
ガラス絵の変わり代わりや夏畑
→あの家の下には南瓜の記憶だけ
向日葵が頭を垂れる夜紛い
→向日葵の罪を問うのは鈴虫か
『秋草』
風吹いて水面の紅顔
→黄の風は頬撫でる彼の手
秋風に逆らい走る子勇ましや
→秋風の方角図る浅知恵や
星を見て鼻いっぱいの金木犀
→金木犀ハンドクリームの中にだけ
『冬晴』
日溜りの音が広がり冬流れ
→雪解けにどうか行くなと二度寝する
黒板と灯油の匂いに白の音
→灯油ってホームセンターで買えるのね
口から流れるように吐く白煙
→毛糸の隙間から漏れる紫煙
朝の日に雪花が咲きし香に溺れ
→木箱から溢れる冬の海の水
閉じたるは舞う雪華の氾濫か
→棺桶に種子を詰め込みお片付け
現文の授業は机の浮寝鳥
→数学で飛ぶ鳥落とせ鴈の群れ
『季節忘れ』
月の下ただ鳴いている平凡な草
→月の下泣いても一人平凡の草
つけられた値札で生きる
→値札は月一通帳の中
泣いていた鳴いて歌うは夜の月
→肌寒き泣き上戸の夢の跡
やや先は君の瞳の月光か
→君の目に写る私を見ていたの
夕暮れ時さよなら一つ石二つ
→三つ目をふと思い出し蹴とばした
鉄道。遠くの学生は群青
→鉄道。横線の前にて心障
平安時代、返歌を含めた過去作や他人の歌のオマージュは一般的かつ、知性のある遊びであり、教養の一つだったそうです。
有名な漢詩や偉い貴族の作った名作をオマージュして歌うのは、まるで今の二次創作やネットミームに繋がるものがあります。
それは、文化での対話であり、そんな暗号を皆で言合せて遊ぶような、無邪気な子供の言葉遊び。それが少し複雑化しただけのように、時々感じられるのです。
今回は、それを過去の自分に合わせてやってみました。
約三年前。新社会人でただ一人上京した私は、高校卒業やその先の不安をぬぐうように、足を動かしながら短歌や俳句をいくつか生み出しました。
それは、高校時代に夏休みの課題で書いた一遍の俳句が賞を取ったのがきっかけでした。
成功体験に身を任せるように、私は歌を書きなぐったのを覚えています。
そんな心の叫びのような歌たちに、私からは、ある程度落ち着いて、エネルギーは枯れ、つまらなくなってしまった私から。
過去の、そんな泣いていた自分に敬意を払うように、どこかで対話するように歌を返しました。
あの日の私が見たら、これを喜んでもらえるのでしょうか。
「サラサラと流れ消えゆく風は波 くじらの泳ぐ大海の空」に返した「大海に得体の知れぬ白い影 好奇心で死ぬ私はイシュメール」という返歌があります。
これはまさに、クジラという単語から、ハーマン・メルヴィルによる「白鯨」のオマージュで、日常に泳ぐそのクジラを見出し、
それを見た過去の自分を追う私はまさに、エイハブ船長を描くイシュメールといえるのではないでしょうか。
あの日からほんの少しだけ「大人」を演じるのが上手くなった私は、
あの日よりも少しきれいで、少しつまらない、そんな歌を描くようになりました。
貴方は、そんな私の人生に、どんな歌を返すのでしょうか。
それが怖くて、怖くて、仕方ないのです。
日記から歌う私は徒桜 紅茶のシミは安いパックの