まぼろし、だったのかなあ?
しまった、失敗した。
誰もいない回廊でアストリッドは独りごちる。
夜には吹雪になるから早く帰りなさい。そう、レムに言われたばかりだった。
アストリッドはレムが苦手だ。薬品だらけの医務室はただでさえ苦手だし、レムは医者である。おまけにあの性格。養父のイヴァンとレムは同年代なのに、ちっともそう見えない。まあ、父さんはまだ二十代なのに、落ち着きすぎているのだけれど。
苦手なレムとはいえ、忠告には従ったつもりだ。でも、それはちょっと遅かったのかもしれない。
輝ける月の宮殿はとても広い。医務室でゆっくりし過ぎたのが悪かったと、アストリッドは反省する。外はもうひどい吹雪だ。
吹雪の日にはけっして外に出てはいけない。
一度だけ、その約束をアストリッドは破ってしまった。もちろん養父のイヴァンにはあとでこっぴどく叱られたし、レムにだって呆れられた。
それでも、と。アストリッドは思う。
あの吹雪の日に外へと出なかったら、アストリッドはロキに出会わなかった。雪に埋もれた少年を見つけなかった。運命なんて言葉は信じていないけれど、ちょっとくらい運命というものを感じてもいいじゃないかと思ったくらいだ。
十四歳のアストリッドは、一年前のアストリッドほど無鉄砲ではなかった。
外はびゅうびゅう風が吹いている。雪だって止む気配はなく、それにじきに夜が来る。夜の吹雪のなかに飛び出すなんて自殺行為はさすがにごめんだ。
じゃあ、どうする?
アストリッドは来た道を引き返そうかと迷う。医者のレムと弟子のロキは輝ける月の宮殿に常駐している。帰れなくなったと泣きついたらきっと部屋に泊めてくれるだろう。
でも、それってすごくはしたないよね。
アストリッドにもそのくらいの恥じらいはある。なにしろ年頃の乙女だからだ。それに帰らないと養父のイヴァンが心配する。
そうだ、父さんを探そう。どうしてすぐ思いつかなかったのだろう。イヴァンは番人の仕事で輝ける月の宮殿にいるはずで、遅くとも夜までには帰ると言っていた。
けれど、この雪だ。イヴァンだってここで足止めを食らっているかもしれない。
アストリッドは回廊を進んでいく。とはいえ、この広い輝ける月の宮殿のどこを捜せばいいのやら。
早くも途方に暮れはじめたアストリッドは、そこで誰かに呼ばれた気がした。
「えっと、誰……?」
今夜は吹雪だ。他に誰の姿も見当たらないのは、ちゃんと部屋に籠もっているから。でもアストリッドはたしかにきいたのだ。それを声と呼ぶべきかわからなかったけれど。
回廊の向こうから、一匹の獣が現れる。アストリッドは悲鳴を呑み込んだ。
「もしかして、ユハ……さま?」
恐る恐るアストリッドはその名を声にした。銀色の狼がゆっくりとこちらに近付いてくる。
「ユハさま、なのね?」
いま一度、アストリッドは問うた。銀の狼は声を発しなかったけれど、そうだと応えてくれたような気がした。
とっくに日が暮れて夜になっていたのだ。だから、ユハはこの姿でいる。
祈りの塔で月の巫女が月へと祈りを捧げているあいだ、嵐の獣は彼女を傍で守る。そのとき、月の巫女の眷属は人の姿ではなく、獣の姿になるという。
そうだ。ユハは夜のあいだ、人間ではなくて銀色の狼の姿でいるのだ。これが、嵐の獣の本来の姿。
「あ、まって……っ!」
銀の狼は行ってしまった。付いてこいと言っている。アストリッドは慌ててユハを追い掛ける。
「あれっ? どこ、行ったんだろう……?」
ところが、曲がり角を過ぎた途端に見失ってしまった。幻だったのだろうか。それとも夢を見ているのだろうか。
「アストリッド?」
今度は本当の声で呼びかけられた。養父のイヴァンだ。アストリッドはやっと肩の力を抜いた。
*
「まぼろし、だったのかなあ?」
ベッドのなかで毛布に包まって、アストリッドはひとりつぶやく。
「どうして、そう思うんだい?」
隣のベッドから声がきこえた。イヴァンだ。養父はちょっと笑いを堪えたような声で問う。
「だって、ユハ様はシグ・ルーナの傍を離れない。そう言ったのは、父さんでしょ?」
いまは夜で月の巫女の祈りの時間だ。嵐の獣であるユハが彼女の傍を離れるのは考えられないし、そもそもユハは祈りの塔から滅多に姿を現さない。
「迷子のアストリッドを導いてくれたのかもしれないよ?」
「そう、かなあ?」
急に恥ずかしくなってアストリッドは頭から毛布を被る。こんな風に養父の隣で眠るには子どものとき以来だった。
「ここ、父さんの部屋だったんだよね? ずっと使っていないって言ってたけど、綺麗に片付いてる」
「ときどき、ここでさぼっているからね」
「ほんとう? 父さんが?」
びっくりしてアストリッドは毛布を剥いだ。隣でイヴァンがくすくす笑っている。
「ヘーニルのお仕事、たいへんなの?」
「まあ、そうだね」
「父さん、むかしは戦士だったんでしょう? 戦うよりも、たいへん?」
「どうかなあ。ただ、父さんはあんまり頭が良い方じゃないんだ。なにも考えずに番人や隊長の言うことをきいている方が、楽だったといえばそうだな」
「なんだか、父さんらしくないね」
アストリッドもくすくす笑う。
「ねえ、父さん。その隊長って人が、わたしのほんとうの父さん……だったんだよね? ずっと前にこの国で争いが起きたときに死んでしまって、だから父さんがわたしを引き取ってくれて」
十年も前の話だ。本当のことをいえば、三歳だったアストリッドは本当の父さんをよく覚えていない。
「父さんも戦士として戦って、でもそのときの傷が元で戦えなくなったんでしょう? 傷は、いまも痛むんだよね……?」
アストリッドは知っている。レムがイヴァンの元を訪れるのはふたりが恋仲だからじゃない。イヴァンは昔の傷が完全に治っていないから戦士を止めたし、まだ身体が痛むのだ。
「大丈夫だよ。ちゃんとレムに看てもらってる。薬だって飲んでいるからね」
「うん。それは……知ってる、けど」
イヴァンは苦い薬が苦手で、いつもレムに叱られながら渋々飲んでいる。
「アストリッド。きいてくれるか? 父さんな、ときどき自分を不甲斐なく思うよ。この国で戦える男子はいなくなってしまった。そのせいでワルキューレを作らざるを得なくなってしまった」
「父さん、やめてよ。どうしてそんなこと、言うの? わたし、自分でちゃんと選んだんだよ?」
イヴァンはこっちに背中を向けているから、表情が見えない。でも、養父が泣いているんじゃないかと、アストリッドは思った。
「初仕事が決まったよ、アストリッド」
静かにイヴァンはそう落とした。養父のイヴァンはいつだってアストリッドを応援してくれたし、アストリッドの一番の味方だ。戦乙女となってはじめての仕事。誇れるべき第一歩だ。
「もうじき冬至の祭りがはじまる。本土から使者が来るはずの使者が輝ける月の宮殿に着いていない。調べてみたら、山麓の村にまだいるらしい。どうも足を怪我したみたいでね」
「使者を迎えに行くのが、わたしの仕事……?」
「そうだよ、アストリッド。医者としてレムが行く。同行するのはお前とロキだ」
「え……?」
アストリッドはまじろいだ。思いがけない名前が出てきたからだ。
「私は反対したんだけどね。ロキは助手とはいえ医者の卵だ。ふたりも医者がいなくなったら困る」
「でも、父さん。このところの医務室は空いているよ? ベッドだって誰も寝ていないし、だからわたしロキくんとゆっくり話せるし」
余計なことを言ってしまった。アストリッドは口を塞いだものの、イヴァンから声は返って来なかった。
もしかして、父さんったら拗ねているのかな?
アストリッドは養父の顔をのぞき込もうとして、やっぱりやめておいた。
「大丈夫だよ、父さん。わたし、ちゃんとふたりを守るからね」
戦乙女としての初仕事は、ふたりの護衛だ。寝たふりを決め込んだらしく、やっぱりイヴァンは声を返してはくれなかった。




