鬼ごっこに付き合ってやるよ
嵐が来る。
灰色に染まった重たい空を見つめながら、ヘルガはひとつ息を吐いた。
我らが隊長はひどく頑固者で、けっきょく冬至の祭りがはじまっても謝りに来なかった。たぶんタイミングを見失っていたのだろう。
もっとも頑固なのはヘルガもおなじだ。
カッとなって頬をたたいてしまったことは後悔しているものの、あのときのあの態度はいま思いだしても腹が立つ。
だいたい、職務を放棄するなんてらしくないんじゃないの?
ヘルガの知るアストリッドという女の子は、馬鹿みたいに真面目でしっかり者だ。
いつだったか、レムに君たちは案外似てるんだよと言われたが、ちがうところはいくつもある。
ヘルガは甘いお菓子がそこまで好きではないし、人前で歌ったり踊ったりも恥ずかしい。童話や大衆小説を読むよりも、美しい詩を綴った本を読む方が好きだ。
育った環境だって異なる。良家に生まれた娘は花や蝶と育てられたわけではなかったし、番人の父には厳しく躾けられてきた。
八歳までは勉学と花嫁修業のあれこれ、それ以降は体術や剣術をいきなり慣わされて困惑したのを覚えている。
エルムトに戦乙女という集団が生まれたからだ。かつてエルムトを守っていた男たちの軍神は壊滅、代わりに娘たちが戦わなくてはならなくなった。
父親の言いなりだったというのは、間違いだろう。
もともと生真面目だったヘルガは学ぶ時間が嫌いではなかったし、巫女を守る戦乙女にも憧れていた。ふつうの女の子にはなれないし、ならない。
だから、自分を負かせた相手がふつうの女の子だったと知って、ヘルガは少なからずショックを受けたのだった。
こんなことを思い出すなんて、どうかしてる。
ヘルガはもう一度、ため息を吐いた。
別にアストリッドとは友達でもなければ仲良しというわけでもなかった。
隊長と副隊長、それだけの関係だ。必要なのは互いの信頼、それだけ。以前のヘルガならばそう言い切っただろうか。
三年間、彼女の努力を見てきたからヘルガはアストリッドという人間をよく知っている。たぶん、彼女の養父や先生の次に。
だからこそ、納得がいかないのだ。
戦乙女は望んですぐになれるものではない。
ヘルガもリリヤ、他の子たちだって何度も挑戦してようやく認められた。途中で挫折しなかったのは、皆が月の巫女を愛しているから。エルムトの人間は月を愛し、月の女神を愛し、月の巫女を敬愛する。
戦乙女は誉れある職業だ。それをどうして手放すことなんて、できようか。
番人の議会で決まったことはけっして覆らない。
あの父親に育てられたヘルガが一番よく知っているはずだった。
でも、納得はできない。ヘルガはあのとき、自分が裏切られたような気持ちになった。真面目なアストリッドが断れないことを知っていても、彼女らしくないと、そう思ったのだ。
嵐がはじまった。
隊員の呼び声で、物思いにふけていたヘルガは我に返った。
「隊列を乱さずに、皆はここに留まって」
戦乙女たちはどの子も皆ヘルガよりも年下だ。
でも、この三年間でアストリッドとヘルガが育てた戦乙女は男たちにはけっして負けない。ケルムトの兵隊たちにも劣らないくらいに強い集団になった。
祈りの塔にはアストリッドがいる。
月の巫女と嵐の獣もいるし、番人たちも一緒だ。
近づけさせるわけには、いかない。
祈りの塔へとつづく回廊にヘルガたちはいた。
組織の奴らが何人来ようが関係ない。ヘルガたちを倒さずして、月の巫女のところにはたどり着けないのだから。
最初に煙幕の攻撃が来た。
少女たちの悲鳴があがったが、ヘルガは彼女たちをまず落ち着かせる。
大丈夫、想定内だ。
出っ歯の栗鼠はどいつもこいつも卑怯者の集団だから、こんな攻撃に怯む必要はない。
「みんな、落ち着いて。隊列を崩してはだめ。私たちなら、やれる!」
ヘルガに叱咤された戦乙女たちがそれぞれ武器を構えた。ロングソード、ダガー、スピア、ロングボウ。皆の得意な武器を持って、次の襲撃に備える。
ヘルガもレイピアを構えた。
大丈夫、やれる。今度は自分へと言いきかせる。
少女たちははじめて人を殺すだろう。でも、悲しんだり嘆いたり怯えたりすることなんてない。あいつらは敵だ。月の巫女を狙う悪しき集団。
ヘルガもここで人を殺すのだ。自分の手が血に染まったとしても、何の後悔も抱かない。三年前みたいに、ただ仲間たちが殺されたのを見ていたよりも、ずっとましだ。
戦闘がはじまった。ヘルガも何人も斬った。煙幕のおかげで相手の顔が見えないのは却って良かったのかもしれない。
ただし、視界の悪いなかで何人かを見逃した。ヘルガは歯噛みする。ロキという名の少年か、一緒にいた男か。
どちらでもいい。
ヘルガはそいつらを追った。単純な足の速さだけではアストリッドに負けるが、体力なら自信がある。
逃がさない、ぜったいに。そしてヘルガはとうとう追いついた。痩躯の男は観念したかのように、振り向いた。
「やれやれ。おチビさんの方じゃなく、あんたが追いついてくるとはな」
ヘルガは呼吸を整える。残念、アストリッドはここにはいない。たとえロキがアストリッドにたどり着いても、彼女は悪鬼の少年に負けたりはしない。
レイピアを突きつけながら、ヘルガは痩躯の男に間合いを詰める。回廊の外は吹雪いている。
もう逃げられないわよ。じりじりと近付くヘルガに男はただ笑った。
「おいおい、本気か? 俺が誰だか、まさか忘れちまったんじゃないだろうな?」
「お前はなんだ!?」
出っ歯の栗鼠は卑劣で賢しらな集団だ。もっともらしい声をして、こちらも動揺を誘うつもりだ。
「やれやれ、まったく。こっちは危うく殺しちまうところだったぞ」
「黙れ!」
いつもの冷静さをヘルガは失っていた。
答えは彼女自身が一番良くわかっていた。この男を知っているのだ。だからヘルガはあのとき、アストリッドにたしかめた。あいにくアストリッドはこの男の名前なんて知らなかったけれど。
頭がひどく混乱する。落ち着けと。ヘルガは自身に言いきかせる。そうだ、何を差し置いてもやらなければならない。この男は敵。わかっているのはそれだけ。
痩躯の男はヘルガに自身の得物さえ見せていなかったが、その表情はひどく憂鬱そうに見えた。
「あんたが忘れちまうのも無理ないか。あんときゃまだ、ほんのチビだったもんな。加えてその髪……もったいないねぇ。綺麗な金髪だったのに」
「なんの話をしている!?」
動揺を悟られないように、つとめて冷たい声をヘルガは出す。この男は何を言っているのだろう。
「そんな男みたいななりは、あんたにゃ似合わないぜ。ヘルガお嬢さん」
「お前……っ!」
渾身の力を込めて斬りかかったものの、男はひらりと躱した。間近で見た男の顔を知っていることに、ヘルガは唖然となった。
剣を持つ手が震える。
だめだ、やられる。偉そうにアストリッドに説教した報いがこれなら、あんまりではないか。
「落ち着けよ、お嬢さん。この先で面白いものが見られるから見物するつもりだったが、気が変わった。鬼ごっこに付き合ってやるよ」
痩躯の男はそう言い残して、吹雪のなかに飛び出して行った。しばし茫然自失としていたヘルガは、遅れて男を追った。




