戦乙女の資格
熱気に包まれた演習場にて、アストリッドはふうと、ひとつ息を吐いた。
歓声が耳にうるさい。皆の注目はアストリッドではなく、対戦相手なのだから致し方ないと言えばそうだけど。
だいたい、みんなわたしが勝つなんて思ってなかったくせに。
ああ、だからその逆なのだと、アストリッドは思った。皆はアストリッドに負けて欲しかったのだ。それでも優勢だとわかった途端にこれである。声援は半々といったところ、野次こそ飛ばなかったが、皆の心がアストリッドにはきこえてくる。
派手に騒いでこっちの気を逸らすつもりなら、そうはいかない。
アストリッドは利き手にぐっと力を入れた。演習用のロングソードでは血は吹き出したりしないけれど、かわりに身体は痣だらけになる。
アストリッドはいま一度、対戦相手を見た。
金髪碧眼のお嬢さま。睫毛もぱっちりと長くて、お人形さながらに可愛らしい。きっと両親たちに、大事に大事に育てられたのだろう。綺麗な金髪は、毎日誰かに櫛を入れてもらっていなければ、あんなに艶々にはならない。枝毛だらけのアストリッドの髪とは大違い。
羨ましいなんて、思うものか。
だって、アストリッドの赤褐色の髪は父さん譲りだからだ。
一段と歓声が大きくなった。一気に間合いまで詰めたアストリッドはこれで終わりとばかりに、金髪のお嬢さまに向けてロングソードを振りおろした。
「そこまで! 勝者、アストリッド!」
止められなければ、そのままロングソードを彼女にたたきつけただろうか。でも、それでは金髪のお嬢さまが怪我をしてしまう。腕も脚も肩も、どこもかしこが痣だらけだ。アストリッドは鏡で自分の身体を見るのが嫌いだった。このお嬢さまはどうだろう。こんなにお綺麗な顔をしたお嬢さまが傷だらけなわけなんてない。
知ったことか、とアストリッドは心のなかで舌を出す。
花や蝶よと育てられたお嬢さまだって、ロングソードを振り回している。彼女もまた戦乙女になりたかったからだ。
ぺこっとお辞儀をしてから、アストリッドは演習場を駆け出した。
演習場には番人たちが集まっていたのが見えた。嵐の獣だって観に来ていたかもしれない。勝者はありがたい言葉とともに戦乙女の資格を与えられる。もしかしたら嵐の獣から声を掛けられたかも、と。十四歳のアストリッドは逃げ出してきたことを、ほんのすこし後悔した。
*
輝ける月の宮殿はけっこう広い。
演習場からずっと走りっぱなしでもまだまだ着かずに、アストリッドはちょっと息が切れてきた。
それにしても、とアストリッドは思う。
誰も追い掛けて来なかったのか、もしくはアストリッドに付いてこられなかったのか。体力だけは大人の男並みにあるアストリッドだ。だいじょうぶ、誇っていい。アストリッドの自慢は体力と前向きさと、父さん譲りの赤い髪だ。
目的の場所に近付いて来たので、やっとアストリッドは走るのをやめた。
なにしろ場所が場所である。駆けない、騒がない、焦らない。何度説教されたものだから、さすがのアストリッドも学習した。
でも、今日ばかりは別だ。
戦いの最中の方がずっと冷静だった。相手に怪我をさせてはいけないので、力加減をするのがむずかしかった。戦う前の方が気分が高揚していたくらいだと、アストリッドは振り返る。それは何より相手に対する侮辱なのかもしれない。ただし結果は結果である。そもそもあの金髪のお嬢さまが弱かったのではなく、アストリッドが強かっただけなのだ。
ノックをしてからアストリッドは部屋のなかへと滑り込む。
ベッドには誰も横になっていない。だいじょうぶ、すこしくらい騒いだって、今日は怒られない。
「きいて! わたし、ワルキューレになれたの!」
彼はちょうど薬品棚のところにいた。
瓶詰めされた薬が所狭しと並べられている。調合前の薬草たちは籠に入れっぱなし、おまけに包帯もガーゼも出しっぱなしだ。ここの管理者がずぼらだからいつもこうなっているらしく、彼は整理整頓をしていた途中だった。
「もう終わったのか? ずいぶん早かったな」
目はアストリッドを向いているものの、身体は薬品棚の方を向いている。仕事の邪魔をされたのにちっとも怒ってはいないようだ。
「そうかな? でも、わたしちゃんと五人やっつけたよ」
「半年間がんばった甲斐があったな」
戦乙女の資格を得るためには、半年に一度行われるトーナメントで優勝することだ。
参加条件は三つ。十四歳以上であること、後援者の推薦があること、腕に自信があることだ。後者のふたつはアストリッドにとってなんら問題はなかった。剣の師匠は番人だし、推薦だって誰かに頼み込むまでもなかった。
そう、あとは十四歳の誕生日を待つだけ。
アストリッドはどうしても冬至の祭りに間に合わせたかった。戦乙女へのトーナメントは春と秋に行われる。夏生まれのアストリッドは秋が来るのが待ち遠しくて仕方なかった。
「おめでとう、アストリッド。ほんとうによかったな」
「ありがとう、ロキくん。すっごくうれしい」
アストリッドがロキと呼んだ少年は、ふたつ下の十二歳。
そう、彼こそあの吹雪の日にアストリッドが見つけた少年である。灰色の世界で風の精と雪の精が暴れ回っていたあの日、アストリッドは雪に埋もれていたロキをどうにか引っ張り出した。
そのあと、ふたり揃って遭難しかけたというつづきがあるのだが、ともかくアストリッドもロキも無事に保護されている。あれからもうすぐ一年、しばらく動けなかったロキもすっかり元気だ。
「そうだ。お祝いをしないとな」
「えっ、いいよ。そんなの」
いきなりだったのでアストリッドは慌てた。対するロキは真剣な表情でアストリッドを見つめている。あ、きれい。アストリッドは思わず口のなかでつぶやいた。
太陽の恩恵をほとんど受けられないこの国の人々は総じて色が白い。
でも、ロキという少年は格別だ。白皙の膚、ほとんど白に近しいホワイトブロンド、硝子玉を埋め込んだみたいに透き通ったペリドットの眼。さっきの金髪のお嬢さまも綺麗だったけれど、ロキには負けるとアストリッドはそう思う。
「よくない。アストリッドは何が欲しい?」
「なにって、言われても……」
アストリッドは目をぱちぱちさせる。
この一年間、戦乙女になるためにアストリッドは頑張ってきたのだ。おなじ歳くらいの女の子たちは化粧やお洒落に興味を持っているけれど、アストリッドはそんなものを欲しいとは思わなかった。
でも、あえて言うなら。
アストリッドはおろしていた視線を戻す。ロキと目が合った。
「そっか。急に言われても困るよな。じゃあ、考えておいて」
「う、うん……」
落胆を隠すようにアストリッドは笑って誤魔化す。そういえばと、気が付いたのは視線がおなじ位置にあることだ。
「ね、ロキくん。背が伸びた?」
今度は彼が目をしばたいた。一年前のロキはアストリッドよりもちいさかった。ふたつ下ときいたとき、もっと年下だと思っていたくらいだ。
「そうかな? でも、先生もそんなこと言っていた気がする」
先生という言葉をきいて、アストリッドは唇をぴくぴくさせた。ここは医務室である。酸っぱいやら渋いやらいろんな薬品のにおいがする場所がアストリッドは苦手で、先生なる人物なんて苦手を通り越して嫌いだった。しょっちゅう怪我をしてここでお世話になる以外にも、理由はあったのだが。
「さっきの話、ちゃんと考えておいて」
ロキに言われて、アストリッドは元気よくうなずいた。




