序章
ふと目が覚め、涼花は携帯電話を取って時間を確認した。
まだ起きようと思っていた時間よりかなり早い。今日はホテルから直接出勤しようと思ってたけど、これなら一回家に帰って支度できるか。そんなことを考えながら部屋を出る支度をするためにベットから出て、そこら辺に脱ぎ捨てられている服を拾って身に着け始めた。自分の物でない物は畳んでわかりやすいようにテーブルの上に置いて、ふと昨晩のことを思い出して、涼花はまだベットで寝息を立てている女性に視線を向けた。
心地よさそうに寝息を立てている女性の姿を見て、いつまで自分はこんなこと続けるんだろうなと思う。こんなことしたところで何もならないのに。そう考えて、涼花はそっと女性の頭を撫でて、全く悪いと思っていない様子で、ごめんねと呟いた。でも、あなたが俊樹に近づくからいけないのよ。だから、わたしみたいな奴に狙われる。わたしとあんな夜を過ごしたらもう彼には近づけないでしょ。彼の傍にはわたしがいるから、彼に近づこうとすればわたしが目に入って昨日の事を思い出す。昨日の事が頭をよぎれば・・・。そんなことを考えて、一つ大きな溜め息を吐いた。本当、こんなことをしても意味がないことは解っている。自分の惚れた男に他の女が近づかないように彼に気がある女に先に手を出して、彼に近づけないようにさせて。こんなことを続けていたところで俊樹がわたしに振り向いてくれるなんてあるはずがないのに。本当バカみたい。これで何人目だろう。そのうちわたし誰かに刺されるかもな、そんなことを思いながら涼花は部屋を後にして自宅へ向かった。
本当に、いつまでこんなことを続けるんだろうと思う。やってることがえげつなくなっただけで、本質は中学生の頃と変わらない。恋愛という面で言えば自分は全然成長してない。そもそも中学生の頃の初恋を今でも引きずってる挙げ句、フラれてるのに一人の男に拘るなんてばかげてる。そんなことを考えて涼花は溜め息をついた。自分は本気の恋愛には向いてない。どうでもいい相手で適当に遊ぶ分にはいくらでも色々できるのに、本当に手に入れたいと思う相手にはどうすれば良いのか解らない。そんなことを考えて、もう少し素直になって人のことおちょくって遊ぶの控えるなら考えてやってもいいぞという俊樹の言葉を思い出して、涼花はムリと思った。そもそもわたしの告白断ったじゃん。人のことタイプじゃないってフッたくせにさ、わたしが本気で気落ちしてるの察したからそんなこと言ってきただけでしょ。そういう中途半端な優しさは酷だから。わたしのことなんて本当に全く好きじゃない癖に。そう思うのに、期待してしまう自分がいて辛くなる。本当、まるっきり女だなわたし。この身体に生まれてもう二十年以上が経った。自分が今は女であることをとっくの昔に受け入れたはずなのに、今でも男性と恋愛関係になるのに拒否感があって、女性相手の方が何も考えずにそういう事ができて変な気がする。自分の魂が生を受けた全ての生の記憶を持っているというのはやっかいだなと思う。今の自分以外、前世の自分は全部男だったせいで、どうしてもその頃の記憶に引っ張られる。なのに、感情や感覚はまったくの別物でどうしようもなくなる。女には恋愛感情は抱かないくせに、女遊びが趣味だった男の時の感覚でそういう趣味がない女を落としてすることするのがちょっと楽しく感じたりもするし、逆に男には恋愛感情を抱くくせに男といちゃつくなんて考えられないなんて拒否感を覚えるし。だからこそ余計に初恋を引きずって俊樹に執着するんだろうな。自分が初めて一歩踏み出した関係になりたいと思った男だから、彼だけが特別で、彼以外考えられないなんて思うんだ。断られてるのに。彼が自分に気が無いと昔から知ってるのに。振り向いてくれるなんてありえないと思っているのに。他の恋を探すわけでもなく、彼の恋愛を邪魔して妨害して、同僚であり友達として傍にいて。本当女々しい。本当、嫌だ。そんな思いに苛まされて鬱々とした気分になってきた頃自宅に着いて、涼花はシャワーを浴びて気分を切り替えて、支度をして職場へ向かった。
職場の前で見知った顔を見付けて涼花は思わず、隆生?と名前を呼んでいた。振り向いて怪訝そうな顔をする彼を見て、そういえばこの身体では初対面だったななんて思って涼花は笑った。
「ごめんなさい。初対面なのに挨拶もしなくて。始めまして、わたしは特殊犯罪対策課の杉村涼花です。」
涼花のその言葉を聞いて隆生が納得したような顔をする。
「お前が陽陰の生まれ変わりか。女になったとは聞いてたけど、実際に会うと変な気分だな。」
そう言われて涼花は心の中で同意した。彼は一つ前の生では自分の父親だった、そしてもう一つ前の生では自分の部下だった。そんな人物を目の前にして、彼の息子としての感覚と上司としての感覚が混在して少し戸惑った。本当、面倒臭い。そう思って心の中になんとも言えない不快感を覚える。
「ごちゃごちゃ考えるのは面倒くさいから、細かいことはどうでもいいや。知ってるだろうが、俺は龍籠の第一部特殊部隊隊長の田中隆生だ。今日は仕事じゃなくて私用でお前等に手を貸してもらいたいことがあってここに寄ったんだが、いいか?」
そう言われて涼花は隆生を中に誘導し、特殊犯罪対策課の部屋に案内した。そこにいた面々に隆生のことを軽く紹介し、彼に用件を訊ねる。
「藤原元晴について調べてもらいたい。」
隆生のその言葉を聞いて涼花は疑問符を浮かべた。
「藤原元晴?父さんの友達の術師の?彼はただの人間だからとっくの昔に亡くなってるでしょ。」
思わず吐いて出た涼花の言葉に、香澄がこの人涼花さんのお父さんなんですか?と反応した。それを聞いて涼花は、あーやっちゃったと思った。ついこの身体に生まれる前の知り合いに会うと昔の感覚で話してしまうことが多いが、父さん呼びなんてしたら流石におかしく思われるじゃん。そんなことを思いつつ、どうでもいいかと思い直す。
「いや、今の父親じゃなくて、わたしの前世での父親。わたし前世の記憶全部持ってるから。」
そう言うと皆が皆納得したような顔をするのを見て、本当ここの人達はすっかり世間と感覚がずれてしまってると涼花は思った。超能力の存在も、人外の存在も、前世の記憶を持ってるなんて突拍子もない話でさえ普通に受け入れるここの当たり前が当たり前にならないように気をつけないとな、なんて思って、涼花は心の中で溜め息を吐いた。どんなにここの人間が異常を普通に受け入れていたとしても、自分以外の面々はほぼ普通の人間だ。浩文さんと俊樹は完全にただの人間だし、香澄ちゃんもターチェの血が混じって思念系統の能力を発現しているとはいえほぼほぼ人間。ターチェと人間の間の子供のクローンであり、ターチェの始祖となった最初の兄弟の魂を受け継いでいる自分とは違う。香澄ちゃんは多少人と違うことができるだけできっと普通に人間として生を全うすることができるんだろうななんて思って、涼花はなんとなく胸が苦しくなった。地上の神と人間の間の子供の子孫であり、不老長寿の肉体と特殊な能力を持ったターチェ。その血を濃く受け継いだこの身体は老化が遅くとても長生きをすることになる。そして本来人間に使用することができない領域の術式を組み奇跡を発現させることもできる。そんな自分は人間と言えるのだろうか。人間として人間社会で生きていくと決め今ここにいるが、何十年と時が過ぎた時の事を考えると涼花は少し憂鬱になった。そして、今の身体と同じようにターチェと人間の間の子供で、ターチェの国である龍籠で過ごしていた前世の自分を思い出して、涼花はあの時とは逆なんだよなと思った。あの時は周りは全く年をとらない中、緩やかとはいえ着実に自分だけは年をとっていきそれにもどかしさを感じていたが、今度は自分より先に周りが年老いていくことになる。今一緒にいる人達が年老いても自分一人若いままで、そうなったとき自分はそれに耐えられるんだろうか、そんなことを考えて涼花はまた心の中で溜め息を吐いた。
「お前のその身体の元になった沙衣のとこの娘は、享年二百歳くらいだったか?小太郎も四百年くらい生きたしな。今のお前も人間にしたら随分と長生きすんだろうな。もし、人の中で生きるのが辛くなったらいつでも俺たちのとこに来いよ。」
そんな隆生の声が聞こえて涼花はハッとして彼を見上げ、向けられた爽やかな笑顔を見て、こいつ天然たらしなんだよなとどうでも良いことを考えて思考を逸らした。モテて相手に困ったことないけど、いつも恋人と長続きしない。そんな部下だったときの彼のことを思い出して、どっちかっていうと恋愛に淡泊なほうだと思ってたのに、母親のことは花嫁泥棒してまでこいつ一緒になったんだよななんて思って不思議な気分になった。
「急に人間社会で生きてた頃の知り合いのこと調べろって、母さんと何か関係あるの?」
涼花がそう水を向けると、隆生はいや多分関係ないと答えた。
「元晴に助けてくれって夢枕に立たれたんだ。そんな曖昧な情報だけで軍は動かせないしな。今は平和で結構ヒマもてあましてるから許可とって休暇とってこっちに来た。俺が人間社会で生活してたのなんてもう何百年も前の話しだし、今のこっちのこともよく解らなけりゃ頼れる知り合いもいないから、もし手を借りられるならお前等の手を借りようかと思ってな。まぁ、ダメならダメで一人でなんとかするし、実際寄らなくても良かったんだが、こっちのことだし一応お前等の耳にも入れとこうかとも思って寄るだけ寄った。」
そう言うと隆生は少し考えるような素振りをした。
「元晴は優秀な術師だった。術師は本来魔物を退治するのが仕事だが、あいつは人外の俺や俺を受け入れてる和葉と出会って、人間と人外が共存できる道を模索してた。それであいつは魔物と術を使って契約し魔物を使役する方法を編み出して、数多くの魔物を使役して、かつて人間社会で術師としての名を馳せていたみたいだ。俺はあいつがまだ二十歳そこそこの若造だった頃に小太郎連れて龍籠に戻っちまったから、その後のあいつの活躍はよく知らないんだが、最後に会ったとき、そのうち術なんかで縛らなくても違う者同士互いに信頼し合える関係が築けるようになりたいものだなんて言ってたのを覚えてる。」
「じゃあ、あなたもその人に術で縛られて使役されていたんですか?」
そんな浩文の問いに隆生は首を横に振った。
「俺とあいつの間には和葉がいたしな。元晴とは出会った当初は険悪だったが、和葉のおかげで俺たちは和解していい関係を保ってた。俺はもしかするとあいつにとって唯一の人外の友達だったかもな。」
そう言って隆生は自分の腕に嵌めた数珠を眺め愛おしそうに撫でた。それを見て、涼花はハッとした。
「そういえば人間社会になんか来て平気なの?母さんが死んだ後龍籠に戻ったのも、母さんなしで鬼の衝動を抑えるのが難しかったからでしょ。いくら母さんの霊力が込められた数珠が穢れを祓ってくれるからって、それもいつまでも保つわけじゃないし。」
焦ってそう言う涼花に隆生はもう俺は鬼にはならねーよと答えた。
「俺にかけられてた呪いは沙依が解除してくれたし、俺の穢れは和葉が全部持ってってくれたから俺はもう大丈夫だ。これはあいつが俺のために命を削って作ってくれた呪具で、あいつの分身みたいなもんだから手放せないだけで、今はあいつの形見って事以外これに意味は無い。」
笑ってそう言うと隆生は本題に戻すぞと言った。
「何日か前の話しなんだが、元晴が俺の夢枕に立って俺に魔物退治を依頼してきやがった。話しによるとあいつが現役時代に使役してた魔物と協力して封じた強大な魔物が封印から出てきそうになってるとかで、俺ぐらいしか頼れる奴がいないとか言ってきやがった。沙依と茶してたときにそんな夢見たって話ししたら、それは本当にその人が隆生に助けを求めてるのかもよなんて言ってきて、それでな。元晴にはだいぶ世話になったし、俺の数少ない人間の友達だしな。夢で言われたことが本当ならあいつの代わりに魔物退治してやろうかと思ったんだ。」
「それで、自分達は何をすればいいんですか?」
「元晴が現役時代どこにそいつを封じたかが解れば助かる。人間社会で生きてた頃に魔物と言われる類いのものに何度か遭遇したことはあるが、そこまで大した奴に遭ったことはない。和葉のこと生け贄に差し出せとか言ってた奴も人間は手こずってたみたいだが、でかいだけで大して強くなかったしな。場所さえ解れば俺一人でなんとかなる。」
そんな隆生の言葉を聞いて香澄が何かひらめいたように両手を打つ。
「隆生さんって、あれだ。和葉姫伝説の鬼でしょ。なんか引っかかってたんだけどようやく解った。スッキリした。」
そう言って本当にスッキリした様子で香澄は笑った。和葉姫伝説って何だと言う隆生に、鬼に恋したお姫様が鬼と駆け落ちする話しと答えて香澄がうっとりした様子で話し出す。
「昔、葛霧の国に魔物が入り込んで国守様に滅ぼされたくなかったらお姫様を生け贄に差し出せって言うの。妹が魔物の生け贄になるのが耐えられなかったお兄さんがお姫様を国外に逃がして、お姫様は逃げた先で鬼に出会うんだよね。で、鬼と一緒に旅することになったお姫様は鬼に惹かれていくんだけど、自分が生け贄にならないと国が滅びちゃうって思って鬼とお別れして国に帰るの。で、生け贄の儀式が行われるんだけど、そこに鬼が乱入して魔物を退治してお姫様を助けるの。で、助けてくれた鬼にお姫様が告白するんだけど、鬼は生きる世界が違うって断っちゃって二人は離ればなれになって、お姫様は鬼への想いを諦めて他国にお嫁に行くことになるんだ。でも、お姫様が他国に嫁入りするとき鬼が花嫁道中に乱入して花嫁泥棒して、鬼とお姫様が駆け落ちしてハッピーエンドっていうお話し。あの鬼が隆生さんか。本人に会えるとかちょっと感動ものかも。」
そんなことを言うと香澄が、ねぇねぇ何で一回断ったのに戻って花嫁泥棒なんてしたの?なんて目を輝やかせて聞いてきて、隆生は何でだろうなと呟いた。
「また鬼になるのが嫌で元晴に封じてももらおうとあいつのとこ行って、和葉からだってこの数珠渡されて。和葉の奴が色々無茶しすぎでそんな長生きできないのも解ってたし、封じられるにしても、あいつが元の場所でちゃんと元気でやってるのかとか、もう少しだけあいつの行く末を見守ってからでもいいかなとか考え直して、それで元晴のとこで仕事の手伝いとかしつつ世話になりながら、ちょこちょこあいつの様子見に行ってて。で、あいつが嫁ぐことになって、じゃあ、あいつの嫁入りまで見届けたら元晴に封じられるかとか思ってたんだけどな。実際あいつの花嫁姿見たら、他の男にとられるのが耐えられなくなって花嫁泥棒してた。正直あれには自分でも驚いた。」
そんなことを本当におかしそうに笑いながら話す隆生を見て、香澄は素敵と呟いて目を細めた。
「解った。わたしが全力で協力してあげるよ。有名な話しならきっとネット社会にも情報がごろごろしてるだろうし。電子の海に漂うものならわたしに調べられない物なんてないんだから。」
「香澄、そんな安請け合いするなよ。お前、仕事もあるだろ。」
「大丈夫。同時進行でやるから。もちろんお兄ちゃんも協力してくれるよね?」
諫めようと口を挟むとそんな風に香澄に笑顔で返されて、俊樹は溜め息を吐いた。
「なんにせよ。封じられた脅威が出てこようとしているなら、それに対処するのが俺たちの仕事だ。彼は情報提供者で、俺たちは自分達の職務をこなしていると思えばいい。悪いが皆総力を挙げてその件を調べてくれ。」
特殊犯罪対策課の課長である浩文のその言葉を聞いて、俊樹が解りましたと答える。
「香澄だけじゃ足りないところがあるだろうから、香澄がある程度情報を集めたら、涼花と俊樹で現地に飛んで詳細を調べて来てくれ。詳しい情報が解るまでは各自普段通りの業務を遂行するように。お前達が本格的に暫く抜けることになっても、こっちの業務は俺一人でなんとかなるし、夕方になれば篠崎も出勤するから問題ない。こっちのことは気にせずお前達は脅威に対応することを第一に動いてくれ。」
そう浩文が締めくくった所でポケットの中の携帯が鳴り、涼花は画面を確認して疑問符を浮かべた。それは龍籠の情報司令部隊の来栖楓からのメールだった。隆生は私用だって言ってたけど、この件は何かあるのか?そんなことを考えてメールを開く。
『仕事ではないですが、田中隆生が私用でそちらに行くと思いますのでお願いします。』
そんな文面を見て、連絡遅すぎだろと思って涼花は苦笑した。