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第31話 破られた絶対防衛線

「どうして新婚旅行が箱根なのよ」


 僕が再び迷い始めない内にとあわただしく身内だけの結婚式を挙げた僕たちは、箱根温泉に来ていた。

 披露宴とかを開かなかったのは、僕なんかが本当に彼女と結婚していいのかと、やっぱりまだどこかで悩んでいるからだ。決して僕の方に友達がいなくて格好がつかないからというわけではない。

 じゃあ友達がいるのかと言われると、まあそれはいないんだけど。


「べ、別にいいじゃないか。お互い忙しいんだし、登山鉄道やロープ―ウェイとか楽しいだろ」


「違うでしょ。芦ノ湖とか強羅とか、あなたが聖地巡礼をしたかっただけよね。私は断然ヨーロッパとかが良かったのに」


 ジト目の彼女が怒ったようにちゃぷんとお湯を波立てる。

 その動きに合わせて大きな胸がたゆんと水面みなもに揺れた。

 白濁湯ではなく透明なお湯だから僕は目のやり場に困った。

 僕の困惑を察した彼女がそれをからかうようにニヤリと笑う。


「なによ。見たいならじっくりと見てくれて構わないのよ。ここは部屋付きの家族風呂なんだから誰も邪魔はしないわ。なんなら触ってくれたって構わないんだからね」


 そうして彼女は色っぽくしなを作って僕を誘惑してくる。

 その行為に僕は思わず声を上げた。


「や、やめろよはしたない!」


 すると彼女はあきれた顔をした。


「はしたないって、今日は新婚初夜なのよ。あなたこれから何をするのか分かって言ってるの?」


 そうなのだ。部屋には既に布団が敷かれていた。

 だけど僕は、彼女を抱くことに未だにためらいを捨てきれないでいた。女神のような彼女のその体を、僕なんかが自由にして本当にいいのだろうかという思いに毎回さいなまされる。

 一方で彼女の一時の気の迷いに付け込んで彼女を汚すことに、背徳感にも似た快楽を僕は覚えてもいた。

 そしてそんな度し難い僕を、彼女は仕方のない子供を見るような目でいつも包み込んでくれるのだった。




「今日はそれなしで、して欲しいの」


 僕が小さな包みを破ろうとすると彼女がそう言ってそれを止めた。


「でも、それじゃあ……」


 僕の懸念に彼女がゆっくりと首を振る。


「今日は、大丈夫な日だから。新婚初夜くらいは、どうしてもあなたを直接感じたいの。

 私の初めてはもう既にあげちゃったけど、これで本当にちゃんとあげた気持ちになれるから」


 それで僕はどうして彼女がこの日にこだわったのかが分かった。

 大安が晴れがまし過ぎるとか、僕が指輪で貯金を全部はたいたから気を遣って料金の安い日を選んでくれただけじゃあなかった。多分、このことも前もって考えていたのだ。


「だけど……」


 そうすると僕は直接彼女を汚すことになってしまう。

 これまではそれでも薄皮一枚へだててギリギリ彼女を汚していないんじゃないかと、そう自分を誤魔化すことができた。それなのに直接だともうそんな卑怯な言い訳も通じない。


「あなたの全てを私に感じさせて。今日から私たちは夫婦なんだから、あなたの全てが私は欲しいの」


 彼女にそう言われて、僕はもう断ることができなかった。


「本当に、いいんだね」


「もちろんよ」


 彼女の心からの笑顔を免罪符に、遂に僕は彼女の中まで汚した。






 そんな新婚旅行から2ヵ月ほどたったある日の夜、僕が寝室に入るとなぜか彼女がダブルベッドの端っこに正座をしていた。

 戸惑う僕に彼女がためらいがちに口を開く。


「あ、あのね。ちょっと、聞いて欲しいことがあるんだけど」


 妙に緊張した様子の彼女に、僕はその先に待ち受ける事態も知らず、「なんだい、かしこまって」と気楽に苦笑した。

 そんな僕に彼女が意を決したように言う。


「で、できちゃった……みたいなの」


「できたって、一体何が?」


 すると彼女はおもむろに自分の下腹に手をやり、もう一度繰り返した。


「だからね。できた、みたいなの」


 それで僕はようやく何ができたのかを理解した。


「そ、そんなバカな! 何かの間違いじゃないのか!?」


 思わず反射的に叫んでいた。

 だってそんなはずはないのだ。これまでも僕は、万一にもそうした事態にならないよう十分に気を付けていた。

 例外と言えるのは箱根の夜だけだが、あれは彼女が綿密に時期を見計らってくれたから大丈夫なはずだ。それなのに、一体どうして。

 彼女がゆっくりと首を振った。


「間違いなんかじゃないわ。ずっと遅れてたから、病院に行って確かめてきたの。そうしたら、2ヵ月だって」


 ということはもう箱根の夜で間違いない。

 確かに確立的には安全日でも絶対ということは無いんだろうけど、それにしたってなんて運が悪いんだろうか。

 僕が強羅や芦ノ湖周辺を聖地巡礼できて浮かれた夜に、まぐれ当たりで絶対防衛線を突破されて本部の奥深くへの侵入まで許していただなんて、それは痛恨の油断であり失態だった。

 あまりの事態で目の前が真っ暗になった僕に彼女の申し訳なさそうな声が聞こえてくる。


「ごめんなさい、あなた。でも私は、どうしてもこの子を産みたいの」


 呆然としながらも、僕は彼女のその言い方が引っかかった。

 どうしてごめんなさい、なんだろうか。確かに彼女の要望のせいでこんなことになったと言えるものの、それに同意して事に及んだ僕だっていわば同罪のはずだ。

 それに一足飛びに産む決心を口にするのも少し変だった。彼女にとっても完全に計算外の出来事なら、もう少しこの降ってわいた事態にうろたえてからでもいいんじゃあないだろうか。

 なのにこれでは、自分のせいでこうなることをあらかじめ予期していたみたいじゃないか。

 僕の脳裏に、ある恐ろしい考えが浮かぶ。


「まさか……、ウソだったのか?」


 彼女は悄然しょうぜんとうつむき、言った。


「……ごめん、なさい」


 それで僕は、自分の考えが正しいことを知った。


「安全日だっていうのは、真っ赤なウソだったんだ。本当は……その逆。そう、なんだろ」


 彼女からの、返事は無かった。

 ただうつむいて、何かに耐えるように手をギュッと握っている。

 なんてことだ。僕が絶対だと信じた防衛線は、なんと最愛の人によって無力化されたのだ。

 おまけに周到に時期を図って本部への手引きまでしていただなんて、これでは防衛などおぼつくはずがなかった。

 足元から世界が崩壊していく感覚に、僕はたまらずそばのダブルベッドにヨロヨロと座る。


「アハ、アハハハハ……」


 信じたはずの彼女の裏切りに、僕はそう力無く笑うしかなかった。






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