第29話 レストランの中心でアイを叫んだおたく
「まさかあんたが、こんな素敵なレストランを予約してただなんてね」
上等なフランス料理の数々を高級ワイン片手に味わいながら、彼女は上機嫌でそう言った。
豊かな胸元があらわなドレスに身を包み、ワインで上気した彼女の姿は僕にはまぶしすぎた。
「あんた、覚えてたのね。今日が10年目の記念日だって」
そう、今日が彼女が10年前に僕に約束した『期限の日』だった。
今日という日が終われば僕らは恋人でもなんでもない。ただの薄汚れた罪人と、高嶺の花へと戻るのだ。
優しい魔法使いのお婆さんが途方に暮れた哀れなシンデレラにかけてくれた魔法は、今夜の12時をもってついにその効果が解ける……。
「あんたも少しは女心ってものが分かってきたじゃない」
どうやら、最後の晩餐は彼女のお気に召したようだ。これで少しは彼女に恩を返せただろうか。
いや、こんなことくらいで彼女の優しさに値札を付けようなどとはさもしい思い上がりだろう。
僕は小さく頭を振ると、それでも今の僕にできる最大限の恩返しをしようとテーブルの向こうの彼女に向き直る。
彼女は、デザートの後のコーヒーを満足そうに飲んでいた。
「実は君に、受け取って欲しいものがあるんだ」
「なあに。この上プレゼントまで用意してるの? いつの間にそんな器用なことができるようになったのよ。これも私の教育のたまものかしらね」
笑顔の彼女の前に、僕は小さな箱をコトリと置いた。
それを見た彼女の目が大きく見開かれる。
「まさか、これって……」
息をのむ彼女に、僕は静かに頷いた。
「それが今の僕に用意できる、精一杯だ」
彼女が恐る恐る箱を開くと、そこには大粒のダイヤの嵌まった指輪が入っていた。
思わず口を押さえる彼女。
実に、僕の給料1年分のシロモノだった。実家暮らしと日々の節約で貯めた全てがそこにはつぎ込まれていた。
「これを、私に!?」
「ああ。君には本当に、感謝している。もし君がいなければ、僕はあの時、どうなっていたか分からない」
恐らく、こうして生きてはいなかっただろう。
「そして君の優しさと温もりに、僕は生きる希望をもらったんだ」
この10年の思い出があれば、僕はこれからの孤独な日々をまた生きていける。
「だから、その感謝の気持ちとしてそれを、受け取って欲しい。今まで本当に、ありがとう」
テーブルに額が付くほど、僕は深々と彼女に頭を下げた。
「ちょ、ちょっとやめてよ。見てる、みんな見てるから。こんなことされたら女は断れないじゃない。もう、どうしてくれるのよ」
彼女のあせったような、なぜか嬉しそうな声を聞きながら僕は顔を上げる。そして彼女に、こう告げた。
「僕はもう大丈夫だから。これからは僕のことなんか忘れて、君自身の幸せをつかんで欲しい」
「…………え?」
「本当はもっと早く、君を僕なんかから解放すべきだと、分かってはいたんだ。だけど弱い僕には、とうとう今日までそれができなかった。それは本当に、済まないと思ってる」
それどころか、誘われるままに僕は彼女を汚し続けた。
「でも君なら、今からでも絶対に幸せをつかめると信じてる。君は僕なんかにはもったいない、本当に素敵な女性だから」
元から彼女は人気者だったが、ここ10年は過度なお嬢様の演技が減る中で飾らない魅力がそこに加わり、誰からも自然と好かれる聖母のようなカリスマを身に着けていた。
「僕はもう君と一緒にいることができないけれど、遠い空の下で君の幸せをいつも願ってる」
ついに……、ついに言うことができた。
かなり遅れてしまったが、それでも手遅れということはないと信じたい。
彼女なら、すぐに素敵な出会いに恵まれるはずだ。この10年を洗い流すほどの、ちゃんとした出会いに。
僕はようやく、重い肩の荷を降ろせた気がした。
いや、僕という泥船からやっと彼女を脱出させることができた。
それにしても、隣町に勤めているくせに遠い空の下は無かっただろうか。つい日頃の読書癖で修辞表現に走ってしまった。
僕がそんな益体もないことを反省していると、突然地獄の底から響いてくるような声が聞こえてきた。
「つまり何? まさか私は、別れ話を切り出されたっていうこと?」
見ると、彼女が今まで見たこともない般若の形相をしていた。かろうじて笑みの形をとってはいるものの、目の奥が笑っていないどころか激怒している。
「違うわよね。これはアレよね。夏目漱石が『I LOVE YOU』を『月が綺麗ですね』と訳したとか。オタクサークルの元部長が好きな子への告白になぜか相手の鼻毛を指摘しちゃうようなものなのよね?
いいえ絶対そうに決まってるわ!」
その迫力に、僕は心の底から震えあがった。
「だからもう一度、一般人の私にもよく分かるように言ってくれないかしら」
そう言われても、僕にも引けない一線というものがある。これ以上彼女の『厚意』につけ込むわけにはいかなかった。
それに彼女の、吊り橋効果やストックホルム症候群から始まった恋の呪いを終わらせる義務が僕にはあった。
「わ、別れよう。君はこれ以上、僕なんかと一緒にいちゃいけない。君が僕に負い目を感じる必要なんて、ないんだ。君の恋は、全て錯覚で幻なんだよ」
「ッ!」
彼女の顔が悔しげに歪む。
「ならどうして……、指輪なのよ」
その絞り出すような問いかけに僕は思わずひるんだ。
「い、いや、だって……それは。前に君が、ダイヤの指輪がすごく欲しいって……、言ってた……から」
段々と声が小さくなる僕の弁明に、彼女の手がギュッと握りしめられる。
「そう……。じゃあこの指輪は、私の好きにしていいのね?」
何かを押し殺した彼女の確認に、僕は戸惑いながらも頷いた。
「あ、ああ、もちろん。もし気に入らなければ、君の好きに処分してくれて構わない」
一応シンプルなデザインにしてイニシャルなども掘らなかったから、それなりの金額にはなるだろう。
するとようやく彼女の表情が少しやわらいだ。
「分かったわ。それならこうしても、何も問題はないってことね」
そう言うと彼女は、指輪をスッと自分の指に嵌めた。左の、薬指に……。
その光景に今度は僕がギョッとなる。
「なっ…、ななな何をするんだ君は!?」
だけど、僕の叫びに彼女は全く動じなかった。
「何って、あんたが好きにしていいっていったんでしょ」
指輪を嵌めた左手を目の高さに掲げ、涼しい顔でしげしげと薬指の指輪を眺めだす。
「だ、だからってそんなことしたら……。き、君はぼぼぼ僕と!」
その続きは、とても言えなかった。
「君は僕と、一体どうなるのかしら?」
彼女がニコリと笑いながらその先を促してくる。
「それにこの指輪、私の薬指にピッタリなんだけど。それは一体なぜかしらね?」
僕は、どちらの質問にも答えることができなかった。
すると彼女がやれやれと言わんばかりに頭を振る。
「考えてみればそうよね。生きることにすら引け目を感じるあんたが、私に素直にプロポーズなんかできるわけなかったのよ」
そしてジロリと僕を睨む。
「でもいくら鈍いあんただって、私が指輪を欲しがってた理由がまったく分からなかったとは言わないわよね? 独身女の前にダイヤの指輪を差し出しておいて、タダで済むわけがないでしょ」
(うぐっ)
「ならこうされても全然おかしくないし、そのことで当然文句なんか言えるはずがない。どう? 私は何か間違ったことを言ってる?」
僕は彼女の言葉を否定できなかった。
慰謝料代わりであるなら、確かにダイヤの指輪はふさわしくない。金の腕輪やネックレスとかの方が換金性が高くて無難だろう。
それでも彼女が欲しがってたからと、そう自分に言い訳しながら指輪にしたのは僕の未練だった。
どのサイズにしますかと店員に聞かれ、迷いながら選び取ったものは僕が心の奥底に封じ込めていた願望なのかもしれない。
「それにあんたは私の恋を錯覚で幻だって言ったけど。10年醒めない幻覚なら、それはもう真実でいいんじゃないの? きっとこの先も、絶対に醒めないわよ」
そう言うと彼女は小首を傾げて苦笑した。
「それともあんたは、やっぱり私のことが嫌い?」
もしそうなら、僕が昔憎悪した虚像のままの彼女であったなら、僕はこんなにも苦悩しなかった。
彼女から目を伏せ、黙り込んだままブルブルと震える僕に彼女はハーとため息をついた。
「10年の懲役だったけど。どうやらあんたは、私の恋人を演じきれなかったみたいね」
そして彼女は、僕に新たな判決を言い渡す。
「だから、罰として刑期を延長します。今度の刑期は、終身刑」
そう宣告すると、彼女は意味ありげな声で被告人を呼んだ。
「というわけで、これからもよろしくね。あ・な・た」
それを聞いて僕は思わず頭を抱えた。
どうしてこうなったのだろうか。確かに僕は別れ話を切り出したはずなのに、いつの間にか僕の方が人生の崖っぷちに追い詰められていた。初めてのホテルの時といい、僕はこんなのばかりだ。
そんな僕に彼女の眉がしかめられる。
「なあに、もしかして不満でもあるの? あるなら一応聞いたげる。でも指輪は返さないし、判決もくつがえらないけどね」
途方に暮れていた僕は彼女のその言葉に飛びついた。
「あ、ある!」
僕の叫びに彼女がビックリしたような顔をする。
不穏な気配を察したのか、「うそ……。い、いやっ! 私聞きたく…」などと言いながらあわてて耳をふさごうとするがもう遅い。
「ぼ、僕と結婚して欲しい!!」
彼女が固まった。
僕は、なけなしの勇気を振り絞って彼女の目を見続ける。
この局面で彼女に流されるままではダメだった。この先どうなるかは分からないが、最後は僕が申し込んだ形にするのがせめてもの責任というものだろう。
そうでないと、彼女だけが重い十字架を背負うことになる。将来、後悔という名の苦悩に一人苦しめられることになりかねない。
これは、いつかの雪辱戦だった。今度こそ僕は任務に失敗するわけにいかなかった。
いや、既に十分失敗している気もするし、この期に及んで不幸になること前提のその考えはどうなんだと思わなくもないが、今はその是非を論じている暇はない。
彼女に助けられるばかりではなく、今度は僕が彼女を支えるんだという気概を見せることが、この場で示せる僕の唯一の誠意というものだろう。
はたして、彼女の目から一筋の涙がこぼれた。
そして彼女は言った。
「…………ええ。喜んで」
すると、周囲のテーブルから突然拍手がまき起こった。
見知らぬ客たちが次々とイスから立ち上がり、口々に「おめでとう」と言ってくる。中にはもらい泣きしている人までいた。
それほど派手に、僕たちがやらかしていたということなのだろう。
どこかで見たようなその光景にかなり戸惑いながらも、僕はこう思うことで自分なりに一連の出来事を受け入れようとした。
こんな僕を見捨てなかった彼女に、ありがとう。
彼女を解放しようと苦悩した自分に、さようなら。
そして、彼女という天使を遂に自らの煉獄へ堕としたろくでなしに、おめでとうと。




