第23話 ベルリンもジェリコも壁は意外ともろい
教室ではひたすら顔をこわばらせて僕の方を見ようとしなかった小湊玲奈が、放課後の美術準備室で真剣な顔をして僕を待ち構えていた。
「一体、どういうつもりなんだ」
押し殺した声で僕がたずねると、彼女は意を決したように口を開いた。
「わ、私の命を助けてくれて、ありがとう」
僕は彼女が何を言ったのか分からなかった。
「あなたがいなければ、私はあそこで……死んでいたわ。今でもふとした瞬間に、燃えているバスの様子を思い出すの。そしてその度に鳥肌が立って、体が震えだす。時にはそれで、夜中に起きることだってある」
彼女はその時の体の震えを止めるように、右手で左腕を押さえた。
「すぐにまだ生きてることを確認してホッとするんだけど。でも私の方が助かって良かったのかなって、そう疑問に思うこともあるの。だって死んだサラリーマンの人には、奥さんとまだ小さなお子さんがいたんだもの」
彼女はそこで、僕の目を見つめた。
「でもね。それでもやっぱり、まだ私は死にたくない。それが正直な私の気持ち。だから大嫌いな私を、それでもあのバスの中から助け出してくれたあなたには、とても感謝してるの。
本当に……、本当にありがとうございました」
そう言って彼女は、僕に向かって深々と頭を下げた。
僕は目の前で起こっていることが理解できなかった。
昨日僕は、彼女を徹底的に打ちのめしたはずだ。それなのに一体どうしてお礼を言われているのだろうか。
いや確かに存分に礼を言えと言ったのは僕なのだが、それはあくまで嫌味に過ぎない。
だいいち彼女はちゃんと分かっているのか。
「僕は、人殺しなんだぞ?
それに別に、君を助けたかったわけじゃない。それどころか何か脅迫材料はないかと探していたんだ。バスが炎上するなんてことは、考えもしなかった。それなのにどうして……、君はそんなことを言うんだよ」
それともこれは、何かの罠なのだろうか。僕から言質を取るための芝居だろうか。
昨日の告白の時は録音なんかするどころではなかったはずだから、今日改めてその場を仕組んだのかもしれない。
だとすると、僕は今ハッキリと自分が人殺しだと言ってしまった。
だけど僕にはそのことを否定する気などもはやないのだから、それも今更だろう。
すると彼女は、痛ましそうな目で僕を見た。
「……ごめんなさい。私がカラオケに来るように指示しなければ、あなたが事故に出くわすことなんてなかった。私があなたに暴行未遂の濡れ衣を着せなければ、あなたが現場で戸惑うこともなかった。あなたの苦しみは、全部私が原因なの」
それを聞いた瞬間、僕は血相を変えた。
「違う! カラオケを打ち切ったのは僕の都合だ。事故現場で判断ミスをしたのも僕自身だ。それを誰かのせいにするつもりなんか無い。僕が、僕こそがあの人を見殺しにしたんだ!」
特に彼女のせいにすることだけはどうしても我慢ならなかった。憎むべき彼女の支配下で彼女に踊らされて罪を犯したなど、僕のなけなしのプライドがそれを許さない。
僕の叫びに彼女が悲し気に顔を歪める。
「お願いだから、そんなことを言うのはやめて。あなたは警官でも消防隊員でも何でもない、通りすかりのただの学生なのよ? 夜の山道でバスが横転するような事故に一人で出くわして、それで完璧な救助ができなかったからって……。
一体誰がそれを非難できるっていうのよ!」
彼女の思いがけない剣幕に、僕は力無く言い返す。
「だ、だとしてもだ。僕がモタモタしたせいで人が死んだことには、違いないじゃないか……」
すると彼女がぽつりとこぼした。
「酷いことを言うようだけど。私はそれで、良かったと思ってる……」
その言葉に僕は思わず彼女を睨んだ。
「良かっただって? 何が……、何が良かったって言うんだよ!」
それでも彼女はひるまなかった。
「だってそうでしょ。もしあんたが動揺せず冷静に動いたとしても……。山道と私の救助で疲れ切ったあんたが、今度はあのバスの一番奥から太った男の人を素早く救助できるなんてとても思えない。その途中で火事に巻き込まれて、あんたも一緒に死んでたかもしれないじゃない」
「そ、それは。それはあくまで……、結果論に、過ぎない」
「結果論で、何が悪いの? バス事故自体が不運と理不尽の塊なんだから、結果論でも何でもいいじゃない。私はあんたに嫌われてて良かった。あんたを死なせなくて……、本当に良かった」
そう言うと彼女は静かに泣き始めた。
僕は訳が分からなくなってきた。目の前の彼女は、一体誰なのだろうか。
僕に暴行未遂容疑を掛けて操り人形に仕立て、小学校時代には弾劾裁判をも仕組んだあの魔女と同一人物にはとても見えない。
「き、君は本当に僕を苦しめてきた、あの小湊玲奈なのか?」
そんな僕の当惑を察してか、彼女はスンッと鼻をすすると申し訳なさそうに口を開いた。
「今までのことも……、ちゃんと悪かったと、思ってるのよ? 私はあんたの事情に気付かずに、二度もぶって最低だとののしった。倒れそうな私を助けてくれた時には、つい意地悪したくて疑惑を否定せずに、それを利用し続けた。
小学校の時だって、偉そうに見えたあんたをちょっと懲らしめるつもりが、結局あんな大騒ぎになっちゃったし」
そこで彼女は居住まいを正すと、
「だ、だから……。改めて謝ります。本当に、ごめんなさい」
そう言ってまた深く頭を下げた。
それを見た僕は、やはりあの小湊玲奈だと思って逆に落胆した。
「フンッ。殊勝な態度をして見せても無駄だよ。何がつい意地悪にちょっと懲らしめるだ。君がしてきたことは無実の人間に罪を着せて奴隷に落とし、目障りな人間を集団リンチに掛けて抹殺する行為なんだぞ」
僕の指摘に、彼女は弱々しく反論する。
「そ、そこまで言わなくても、いいじゃない……。私だって、最初は私を助けてくれただけなんだって、そう誤解を解こうとしたのよ?
だけど、不可抗力でもコンプレックスだった胸に触られて。その直後におぞましいだとか、下種だとか言われたら。腹が立ってどうしても仕返ししたくなってしまったのよ」
(うぐっ)
確かに彼女は、あの時何かを言おうとしていたような気がする。
それをさえぎり、乱入してきた女生徒と売り言葉に買い言葉で罵詈雑言を言い合っていたのは僕だ。
「な、なら小学校の時はどうなんだ。君は僕と目が合った時、確かに僕をあざ笑ったじゃないか」
「あ、あれは……。みんながあんなに、熱に浮かされたようになるだなんて思わなくて。どうしていいか分からなくて怯えてた時に、急に目が合ってしまったから。それを知られまいと強がって、とっさにあんな誤魔化し笑いをしてしまったのよ」
「あ、あの笑みが、ただの虚勢だっていうのか!?」
彼女はすまなさそうに頷く。
「あれ以来、あんたは完全に人が変わってしまうし。私が何か言うと、必要以上に周りがそれに同調して反応するのも怖くなってしまって。
だからなるべく穏やかにふるまいながら、遠回しにそれとなく意見を伝えるようにするのが、私はクセになっていったの」
それは近代王家の処世術ともいえるものだった。
だけどそれで、彼女のことを学校を裏から支配するお嬢様キャラに感じたことにも納得がいった。
僕の代わりにみごと学級委員に成りおおせたというのに、急に静かに支配を進めるようになったはずである。
何のことはない。己の影響力とその余波に怯えていただけだったのだ。
「それでいつかあんたに謝ろうと、そう思ってチラチラとあんたの様子をうかがってはいたんだけど。当時の私は結局その勇気が持てずに、ずっとそのままになってしまっていたの」
あれ以来、僕の方を時々憐れみの目で眺めては優越感に浸っていると思ったのは、実は罪悪感を覚えてのことだったのか。あの目の色が憐れみではなく、まさか悔恨だったとは。
「最初にこの部屋に呼び出した時も、つい自分を良く見せようとする癖がでてしまって。ちょっといい感じに過去を言い換えて気取った態度で謝ってたのが、あんたを怒らせたんだって今は理解してる」
そして彼女は、その時の自分を呪い殺さんとするかのように悔しそうに顔を歪めた。
「もしあの時、私が誠心誠意あんたに謝ってさえいれば。そうしたらあんたをこんな苦しみに突き落とすような出来事もなくて。私たちの関係だって、もっとずっと違った形になっていたかもしれないのに……」
もはや決定的だった。
彼女に対する僕の中の偶像がガラガラと音を立てて崩れていく。
これは決して崩れることのないと思われたベルリンの壁は、実は妄想でそう描いただけの襖の絵に過ぎなかった。その襖をひょいと開けてみれば魔女も秘密警察もそこにはおらず、ただ後悔に怯える少女だけが僕の前にいた。
だとすれば、これまでの僕の6年間は一体何だったのだろうか。彼女と再会してからの苦悩は何だったのだろうか。全ては無駄で滑稽な、独り相撲に過ぎなかったのだろうか。
僕はヨロヨロとふらつきながら背後の戸にぶつかると、そのままその場にへたり込む。
「だ、大丈夫!?」
彼女の心配そうな声が遠くから聞こえてくるが、僕はとてもそれに答えられそうになかった。




