第20話 問おう。あなたが私の恩人か?
「僕から話しかけるのはダメでも、君からなら構わないのか? 相変わらず勝手だね」
そう皮肉を言いながらも、僕は彼女の意図が分からず不安を感じていた。
(昨日の今日で、どうして僕を呼び出す必要がある)
それでも僕は彼女の呼び出しを無視できない。放課後の美術準備室に、足を運ばざるを得なかった。
すると彼女はそんな僕に向かってぞんざいに手を突き出してくる。
「あんたのスマホを渡しなさい」
僕はギョッとして彼女を見た。
彼女は不機嫌そうな顔をしていた。特段、あれから何か変化があったようには見えない。
だけど、スマホの中には昨日消しきれなかった写真がまだ残っている。決定的な証拠となる、あの写真がだ。
彼女の意図は不明だが、もし何かの拍子で写真アプリに指が触れでもすれば、それだけですぐにあの写真が表示されてすべてが終わる展開すらありえた。
(やっぱり昨日、消去しておくべきだったか……)
そう歯噛みしてももう遅い。まさか今から彼女の目の前で消去することもできない。またしても僕は、窮地に立たされようとしていた。
なかなか動こうとしない僕に、彼女はイライラしたように手を振って催促してくる。
「早くしなさいよ。じゃないと私のアドレスを消せないでしょ」
「ア、アドレス!?」
僕は思わず素っ頓狂な声をあげた。
「そうよ。あんたみたいな最低の人間に知られたままでいたら、何があるか分かったもんじゃないわ。だから私が自分で消すのよ」
僕は彼女の言葉に胸をなでおろした。
(そ、そういうことか。だからまた僕を呼び出したんだ)
彼女の意図は分かったが、それでもやはり素直にスマホを渡すことには不安が残る。
「わ、分かったよ。君のアドレスはちゃんと消しておく。履歴も残さない。だから、それでいいだろ」
僕はなるべく誠実に聞こえるように言ったが、彼女はそれをフッと鼻で笑った。
「まさか、それを信用しろっていうの。謎のヒーローを騙ったばかりのあんたの言葉を? バカも休み休み言ったらどうなの」
そう言い返されると僕はぐうの音も出ない。もう、彼女にスマホを渡すしかなかった。
それでもホーム画面ではなく、お目当てのメッセージアプリを起動した状態にはとっさにしておいた。そうすれば手が滑って偶然写真アプリを起動させてしまうようなこともないだろう。
彼女が僕の手からひったくるようにスマホを奪う。
するとなぜか肝心のメッセージアプリではなく、スマホの外観を子細に観察し出した。そしてジロリと僕を睨む。
「ストラップが付いてないけど、どうしたの? 確か何か、付けてたわよね」
僕は彼女の質問に戸惑った。
どうしてそんなことを彼女が今ここで気にする必要があるのか分からない。だけどとても嫌な予感がした。
「い、いや……。ちょっと、汚れたから。は、外したんだ」
「ふーん。汚れた、ねえ」
それは何か意味ありげな声だった。
「ところでその腕時計。あんたいつもしてるわよね?」
話題がストラップから腕時計へといきなり飛んだ。
単なる気まぐれか、それともこれにも何らかの意図があるのか。僕にはとっさに判断が付かない。
つい押し黙ってしまうが、彼女は気にせず話を進めていく。
「それ、私知ってる。真約聖紀ジューダス・チルドレンとかいうアニメの限定アイテムでしょ。確か裏にユダ機関とかいう組織の銀貨の刻印と、シリアルナンバーが入ってる奴よね」
僕は驚いた。まさか彼女の口からそんな指摘が出てくるとは思わなかった。
僕は引きつった笑みでそれに答える。
「お、驚いたな。君も……、見てたの?」
本当は彼女相手にそのアニメを見ていることなど認めたくなかったのだが、ここまで正確に把握されていては下手な誤魔化しなどできるはずもない。
すると彼女はゆっくりと首を振った。
「ううん。最近ひょんなことから手に入れたグッズが、たまたまそのアニメの奴だったというだけ。それで気になって、少しネットで調べてみたの」
「へ、へえ……。そうなんだ」
一応頷いては見せたものの、はたしてそれだけのことで見てもいないアニメの限定アイテムのことまで調べるだろうか。
僕の嫌な予感は更に強まった。
「どうしたの? また顔色が悪いようだけど、大丈夫?」
僕は上ずった声でそれに答える。
「な、何でもない。全然……平気だ」
そんな僕を彼女がジッと見つめる。
僕は、その目から視線を逸らすことができなかった。そしてそのまま、僕らは緊迫した空気でしばし見つめ合う。
不意に彼女からのプレッシャーが消えた。
「まあいいわ。はい」
そう言うと彼女は僕にスマホを差し出してくる。
「……え?」
僕は彼女の行動が理解できなかった。
彼女は自分の個人データを消すために僕のスマホを取り上げたはずだ。なのにどうして何もせずに返してくるのか。
「何? いらないの?」
素っ気ない彼女の言葉に僕は我に返る。
そうだ、今は彼女の気まぐれを詮索している場合ではない。決定的な証拠写真がおさめられたスマホの回収こそ、優先されるべきだった。
僕はスマホに向かって慌てて右手を伸ばした。
すると突然、その手を彼女の空いた左手に掴まれる。
「えっ!?」
僕は反射的に手を引っ込めようとしたが、思いのほか強い力で掴まれているらしくすぐには振りほどけない。
焦ってもっと力を込めようとしたら、
「動かないで!」
鋭い声で彼女がその動きを牽制する。
その声に僕はつい動きを止めてしまう。
彼女は僕のスマホをスカートのポケットにしまうと、今度は両手で僕の右手をしっかりと握った。そして慎重に自分の方へ引き寄せていく。
彼女はまだ絆創膏が取れたばかりの僕の右手をジッと見つめる。そして静かに顔を寄せると、ソッと僕の手に口付けた。
「な…」
突然の彼女の行動に僕は息を呑んだ。
柔らかく、濡れた感触が右手から伝わってくる。
いやそれだけではなかった。熱く、ヌラリとした物が押し付けられるのを僕は感じた。
それは何かを探るようにヌルヌルと僕の手の上を這い回る。彼女が舌で、治りかけの傷をまさぐっているのだ。
その背徳的ともいえる感覚に、僕はゾクリとした衝撃を受けた。
彼女はまるで愛しいものを味わうようにねっとりと傷跡を舐める。
僕は手を引っ込めることなど完全に忘れて、ただ彼女の舌の動きに翻弄された。
だけどそれは次の瞬間、鋭い痛みへと変わることになる。
「ッ!」
やっと薄皮の張った皮膚を、彼女が犬歯でプツリと貫いていた。
「な、何を…」
思わずそう声を上げても、彼女は僕の右手からまったく口を離そうとしない。それどころか傷口を強く吸ってきた。
まるで毒でも吸い出すように彼女は傷を吸う。それにつれて、再び開かれた傷からジクジクとまた出血が始まる。
彼女の喉がコクリと動いた。
たまったツバを飲み込んだのだろうが、僕の血も一緒に飲み込むことにためらいを感じないのだろうか。
常軌を逸した彼女の行動に、僕は完全に呑まれた。
しばらくして、ようやく傷口から顔を上げた彼女の唇は、僕の血で妖しく濡れていた。
呆然とする僕をよそに、彼女はハンカチを取り出すと唇を押し当てるようにしてその血をぬぐう。
そしてハンカチには、僕の血でできたキスマークが残された。
僕は、かすれた声で彼女にたずねた。
「どういう……つもりだ」
すると彼女は無言でスカートのポケットに手を入れ、今度は黒いリボンのような物を取り出した。
それが何かを理解した瞬間、僕は声を失った。
(バスの中で……、燃えてくれたわけじゃなかったんだ)
希望的観測が目の前で打ち砕かれた僕に、彼女が静かにうなずいてみせる。
「そう。これは、私が事故現場で拾ったあの人の携帯ストラップ。このストラップに付着した血と、今私がハンカチに採取した血とをDNA鑑定にかければ、一体どんな結果になると思う?」
僕は答えられなかった。
彼女が意味ありげに微笑む。
「あんたが警戒してるあの女性記者にお願いすれば、喜んでやってくれると思わない?」
(それにも、気付かれていたのか……)
僕はガクリとうなだれた。完敗だった。
とっさの機転で一度は完全に振り切ったはずの彼女から、まさかここまで完璧な物証付きでチェックメイトを掛けられるとは思わなかった。
偶然手にしたストラップという触媒を片手に、巧みな舌使いによって血の魔法陣を描き、脅迫にも等しい呪文の詠唱で彼女は見事に真犯人を召喚してのけた。
あの記者ですらあいまいな状況証拠と自白に頼るしかなかったというのに、さすがは僕に暴行未遂容疑の卑劣なハニートラップを仕掛けた小湊玲奈だった。
6年振りとなる今回の情報戦争において、更に強力な魔女となって現界した彼女を出し抜こうとした僕の目論見は、絶望的なまでに甘過ぎた。
近くの椅子にフラフラと近寄ると、僕は崩れ落ちるようにして座った。そして床を見つめながら、疲れた声で彼女に聞いた。
「それで僕を……、どうするつもりだ?」
すると彼女は、恐る恐る切り出してきた。
「お、教えて。あんたが私の……、命の恩人なの?」




