第12話 横転した闇の中で
奥に進むと、暗がりの奥に後部ガラスがヒビ割れているのが見えた。
そしてその手前、つまり一番後ろの座席近くに、会社帰りとおぼしき太った中年男性が倒れているのが分かった。
(なんだ、あとはあの人だけか)
帰宅時間のピークを外していたせいなのか、バスにはあまり乗客が乗っていなかったようだ。
僕は少し拍子抜けした。
しかしそこに至るには、車体中央の発券機やその付近に存在するいくつかの手すり用のバーをまだ越えなければならない。
最初のバーをまたごうとして、ふと僕は発券機の陰の暗がりに誰かが倒れていることに気が付いた。
街灯の明かりも届きにくい、ほの暗い箱の底に潜むようにして倒れているのは、どうやら女性のようだった。小柄なせいで死角に入り込む形になっていたらしい。
僕はバーを越えて女性の傍らに立つ。
その女性は事故の時に座席から投げ出されたようで、体を少し丸めるようにして散乱するガラスの上に転がっていた。
いや、僕の通う学校とよく似たブレザーに身を包んでいるところを見ると、女性というよりはまだ少女か。
プリーツスカートがまくれ上がって清楚な白いパンツが大胆に見えていたが、意識を失っているようでそれを隠そうともしない。
見てはいけないものを見てしまった気がした僕は、そこから目をそらすように少女の顔に視線を移す。
長い黒髪に包まれた少女の横顔は、頭部から一筋の出血が見られた。
だけど、僕の目を引いたのはそこではなかった。苦悶にあえぐ眠り姫といった妖しさを漂わせる少女の顔を見て、僕は苦い声でうめいた。
「どうして君が……、ここにいるんだよ」
そこに倒れていたのは、カラオケ屋で別れたはずの小湊玲奈だった。
強引に振り切ったはずの彼女がどうしてこんなところで倒れているのか。僕は、わけがわからなかった。
その時ふと閃いた。
「そうか……。これは新たなトラップだ」
カラオケ屋での僕に腹を立てた彼女が、僕を更なる窮地に陥れようとして企んだに違いない。それならパンツ丸出しで意識を失って見せていることにも納得がいく。
「まったく、とんだ疫病神だよ君は。どこまでつきまとって僕の邪魔をすれば気が済むんだ」
忌々(いまいま)しさを隠さずはっきり伝えてやっても、彼女は演技をやめなかった。それどころか苦し気に「ケホッ」と咳をして僕を挑発してくる。
「だからそれをやめろっていうんだよ!」
僕はそう怒鳴ろうとして、やめた。
なぜなら、血まで流す彼女の苦しげな様子はそれほど真に迫っていたし。いくら魔女のような女といえど、不慮の事故まで自由に操れるわけがないからだ。下手をすれば、彼女は死んでいてもおかしくなかった。
それに彼女があの時に確認したバスに乗ったとすれば、時間的にそれがこのバスである確率が高い。
そうであるならば、むしろ僕こそが彼女をこの事故へ誘導したといえた。
「そんな、コルセットみたいなブラジャーをしてるから苦しいんだよ……」
僕は、苦い顔で咳き込んだ彼女を見下ろした。
それでも彼女は、「そうね。こんなことがあるなら、次からはもう少し気を付けるわ」とは言ってくれなかった。
血塗れた顔のまま、ただ浅い息を繰り返す。
僕は「チッ」と舌打ちすると、彼女の横にしゃがんだ。
なおも少し迷ったが、仕方なく彼女の方に手を伸ばす。
ブレザーのボタンを外してタイをほどく。キッチリとめられたブラウスのボタンも上から3つほどを外した。
だけど、それでも彼女の呼吸は楽にならなかった。
「やっぱり、外すしかないのか」
僕はため息をつくと、ブレザーの裾から彼女の背中に手を入れた。そしてブラウス越しにホックを探り当てる。
幸いというかなんというか、仕組みは既に分かっているから外すだけならこのままでもなんとかなりそうだった。
横になっているおかげで、月曜日でもないのにたわわな胸が床面に支えられているのも良かったかもしれない。はたしてブラジャーはうまく外れてくれた。
それでようやく、彼女の呼吸が楽になるのが分かった。
「ふう。どこまで面倒くさいんだ、この女は」
ブレザーの裾から手を抜き、僕も少し気分が落ち着いた。
そしてあらためて彼女の様子をうかがうと、なんというか事態はある意味悪化していた。
割れたガラスが散乱する中、頭から血を流し悩まし気な顔をした美少女が大胆にパンツと生足をさらして、大きく開いた胸元からは外れかけのブラジャーと豊かな胸の谷間までが覗く、更に煽情的な姿になって転がっていた。
絵的には完全に事後というか、これで目が開いていればその瞳にハイライトが描かれないのは間違いない。
そのあまりの痴態に、胸元は仕方ないのでせめてスカートだけでも下ろしてやるかと手を伸ばしたその時、僕の脳裏にあるアイデアがひらめいた。
(この姿を、写真に撮っておいたらどうなんだ?)
今の僕は彼女に暴行未遂の濡れ衣を着せられ、言いなりになるよう脅されている。
その立場から脱し、そしてこの魔女から身を守るためにも、僕は何か彼女の弱みを握る必要があった。
そして今、そのまたとない好機が目の前に転がっていることに僕は気付いたのだ。
とはいえ退学どころか刑事事件レベルな暴行未遂容疑に対して、たかがパンチラやブラチラ写真で対抗しようというのはあまりに無謀かもしれない。大量のICBMを互いに向けあう相互確証破壊によって完成した、冷戦という名の疑似平和には程遠い。
だがしかし、たとえゲリラ戦に過ぎないとしても牽制にはなりうる。
恥ずかしい写真をネットにばら撒くと言えばいくらこの女でも、いや自ら作り上げた清楚可憐な虚像で学校を支配するこの女ならばこそ、そのカリスマ性を傷付けるスキャンダルを決して無視できない。
超大国といえど小国に足をすくわれることがあるのはベトナムやアフガン、それにとある公国が実証済みだ。
(脅迫材料のレベルの違いが、交渉力の決定的差ではないということを教えてやる!)
僕は胸ポケットから一度しまったスマホを取り出すと、カメラアプリを起動させて素早く彼女の姿を撮影した。
カシャッという音と共にLEDライトが光り、無事に取引材料を手にすることに成功する。
(この写真はいいものだ。これで僕はあと10年は戦える)
スマホを再び胸ポケットにしまいながら僕はそうほくそ笑んだ。
「さて、それじゃあそろそろ本当に助け出すとするかな」
そんな余裕を見せた僕だったが、いざ彼女を背負おうとしたところではたと困った。
(どっちから、先に救えばいいんだ?)
奥には太った中年サラリーマンも倒れている。気持ち的にはこの女のことなんかよりその人の方を優先したいところだ。
だけど、こう足場が悪くて障害物まである暗がりの中を、重い男性を一人で背負いながら一番奥から脱出するのはかなりの困難を伴うことが予想された。それに比べれば、彼女の方がはるかに小柄で軽量であることは間違いない。距離だって少し短い。
「……仕方ない。やっぱりこいつからにしよう」
そこだけは重そうな憎むべき女の象徴を忌々(いまいま)しい思いで睨むと、僕はやむを得ず彼女を背負った。
すると、今しがた睨んだばかりの双丘がその存在を存分に主張してきた。
(わざと当ててるんじゃないだろうな!?)
まあブラジャーのホックを外したのは僕なのだが、拘束具だったブラジャーの束縛から解き放たれた彼女の胸は、その本来の力を容赦なく発揮して僕の背中を蹂躙する。
これではいくら女性不信ゆえにスレンダーな無表情キャラが好きな僕といえど、彼女からの圧倒的な精神汚染を前に一撃で意識を丸裸にされて、深層心理への彼女の侵入を阻止できない。
このまま再度の接触が起これば、僕が6年前のファーストコンタクト以来、懸命に築いてきた価値観の崩壊は必至だ。
僕は背後で進むオッパイ洗脳計画のことを無理やり頭から追い出して目の前の事態に集中しようとする。
「出口をセンターに入れて足をスイッチ。出口をセンターに入れて足をスイッチ」
そうぶつぶつと唱えながら足を交互に動かし、邪魔な横バーをよろめきまたぐ。
意識が無くて勝手にずり落ちようとする彼女を背負いなおすと、またしても背中で彼女がたゆんと暴走を始めた。
ブラジャーという彼我の境界線が半ば消失した状態のため、彼女は僕の精神を急速に侵食して過去のトラウマごと僕を取り込もうとし始める。
「出口をセンターに入れて足をスイッチ!! 出口をセンターに入れて足をスイッチ!!」
今動かなければこの6年間がなんにもならなくなるという恐怖に、僕は激しい蹂躙で立ち止まりそうになる足をがむしゃらに動かし続けた。
「ハアッ、ハアッ、ハアッ」
彼女の体を路上に横たえると、僕はその横にドサリと座り込む。
障害物が多く慎重に進む必要があったために思いのほか時間が掛かった。そして心身ともにギリギリの戦いだった。
「あ、危なかった……。もう少し長く接触を続けていたら、完全に取り込まれて戻ってこれなくなるところだった」
恐るべき威力でまたたく間に僕の精神を半壊状態に追い込んだ彼女の胸部を、僕は畏怖の目で見つめた。
僕が何とか無事に戻ってこれたのは、ホックが外れ本来の役割を喪失したはずのブラジャーが、僕を守る急造の盾としてかろうじて立ちふさがり続けてくれたからに過ぎない。
そう思うと、一度は僕の思考をニセ乳へと誘導し泥沼の苦境に突き落したブラジャーに、僕はどんな顔をすればいいのか分からない。
そんなブラジャーからこぼれ落ちそうだった彼女の胸も、今はもう大人しくアスファルトの上に横たわっている。
だけど、その威力を思い知らされた後ではもはやうかつに彼女の体に触れるわけにはいかなかった。現状、呼吸に支障はないようだから、これ以上はそのうち到着するだろう救急隊員に今後の専門的な処置を任せるべきだろう。
それに僕も、いつまでもここで休んではいられない。中にはまだ一人取り残されていた。
何とか息を整えると、僕は力を振り絞るようにして立ち上がった。
思わず膝が笑うが、今はそれを無視するしかなかった。そうして背後のバスへ振り返ろうとした時だった。
ドンッという大きな音がしたかと思うと、急に周囲が明るくなった。
慌ててバスに振り返った僕は、そこに広がる光景を見て絶句した。
後部の、エンジンルームと思しき辺りが炎と黒い煙に包まれている。そこはまさに、あの中年男性が倒れている場所だった。
「そん、な…………」
僕は愕然とその場に立ち尽くす。
そうしている間にもますます炎と煙の勢いは強くなり、もはや救助は絶望的な状況になってしまう。
そのことを悟った瞬間、僕はその場に崩れ落ちた。
アスファルトに手を付き、ガクリとうなだれる。スマホが胸ポケットからこぼれて路上に転がるのも全く気にならなかった。
(どうして……こうなった?)
それだけが僕の思考を支配していた。
頭の中で様々な『if』が駆け巡る。
もし男性から先に救出していたら。もし彼女の写真を撮らなかったら。もしその場でブラジャーのホックなど緩めずすぐに彼女を助け出していたら。もし彼女の出現にショックを受けず迅速に行動していたら。もしその場で外の青年に手助けを求めていたら。もしすぐに通報していたら。
そうしたら、今のこの状況にはならなかったのではないだろうか。
(つまり……、あの男の人を見殺しにしたのは)
僕がその恐ろしい結論に達しようとした時、不意に遠くからサイレンの音が聞こえてきた。
その音を聞いた瞬間、僕はビクリと震えた。
だけど今度は、自分が取るべき行動を瞬時に弾き出すことができた。
「逃げなきゃ……」
そうつぶやくと、近くに放置したままの自転車に向かってフラフラと近付く。
でもそうしながら、危ういところで路上に転がったままのスマホの存在に僕は気が付いた。
ギョッとしてあわててスマホを拾い上げる。
仮に逃走が上手くいったとしても、スマホを現場に残していては全てが台無しだった。僕という人間がここにいたという事実はおろか、画像データという決定的な証拠まで捜査機関に献上することになってしまう。
間一髪のところで致命的なミスを回避できたのは良かったが、その安堵にひたる間もなく僕は今度こそ自転車にまたがった。
誰かが後ろから呼び止めるような声がしたが構ってなどいられない。ふもとから近付いてくるサイレンに追い立てられるように猛烈な勢いでペダルを漕いだ。
その後はどうやって自宅にたどりついたのか、よく覚えていない。その夜の記憶は、薄汚れた制服で自分の部屋のベッドに倒れ込むところまで全てがあやふやだった。
だから僕は、翌日になって初めて気付くことになる。
引きちぎってスマホと一緒に胸ポケットに突っ込んだはずの携帯ストラップが、そのポケットのどこにも見当たらないということに……。




