蒼海バラッド
♪
やあ、また君か。飽きもせずによく来るものだな。話がそんなに面白いのか? ふうん、面白いかどうかは分からないが好き、か。今日は何の話をしようか。……そうだな、こんな話はどうだ? ちょっとした昔話さ。
ものを動かしたり、箒で空を飛んだり、何もない所から何かを取り出してみたり、そんな魔法はこの世には存在しない。小説や映画などのファンタジー世界のものに過ぎない。憧れのその力は、自分のものにはできない。あくまで夢の世界のもの。君もそう思っているだろう。東洋にはそんなものは……。え? 自分は信じている? まあ、それでもいいか。世間一般の人は夢と思っているだろう。けれど、その考えはこの国には当てはまらない。
グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国。この国のファンタジー文学は優れているとよく言われるが、それは当たり前のことだ。実は、英国人は魔法や妖精といった不思議な存在と常に隣り合わせなんだ。私を見れば分かるだろう?
♭
かつて、魔法使いと呼ばれる人々がいました。その身に流れる魔力を駆使して摩訶不思議なことをやってのける彼らは、イギリスの発展に大きく貢献したとも言えます。しかし、彼らの力添えによって人々が手に入れた科学の力は魔法使いの仕事を奪い、彼らは数を減らしました。魔法使い達は自分達の身に流れるその魔力を残そうと考えました。国としても、魔法使いが権力を失い減っていくのをただ指を咥えて見ている訳にもいきませんでした。皆さんも知っているように、古よりこの国に暮らす妖魔と呼ばれる怪物達を手懐け、あらゆる場所に潜む妖精達の力を借りて自然を操り、夜の森を闊歩する小人達の悪戯から人々を守り、卑しき者共の手によって数を減らしてしまった、伝説に語り継がれる幻獣達を守ることができるのは魔法使いだけでした。国は魔法使いを守る事を決め、彼らに爵位を与えました。特殊貴族と呼ばれるようになった彼らは魔法や妖魔に関する政務を行うようになりました。近代の世になってなおこの国に貴族制度があるのは、このような所以ですね。だから、魔法使いの血を引く我々特殊貴族は、その誇りを持って日々を送らなくてはいけません。みなさん、聞いていますか。居眠りはしないで下さい。
講堂のステージでそんなことを言っている校長先生の声を聞き流しながら、レゾール・アクロレインは大欠伸をしていた。周りを見回してみると、真面目に話を聴いているのは数人のようだ。校長先生はみんなの眠気を払おうと大声になっている。ブロンドやブルネットが多い中で目立つ夜の森のように暗い黒髪を軽く耳にかけて、レゾールは再び欠伸をした。
ロンドン郊外に広大な敷地を持つ、聖サーミスター学園。貴族の子弟が通う全寮制の高貴で優雅で気品あふれる豪奢な学園といえども、校長先生の話を聞く生徒達の様子は普通の学校のそれと何ら変わらない。欠伸をしたせいで目尻に浮かんだ涙を拭いながら、レゾールは退屈な長話が終わるのを待っていた。
「えー、みなさん、明日から夏休みです。と、いう訳で、この後はみなさんお待ちかねの年度末パーティーですね。参加する生徒は午後三時までにこの体育館棟二階の大広間に集合して下さい。これで校長先生の話は終わりです。みなさん、九月にまた元気に登校して下さいね」
校長先生がステージを降りる。司会をしていた教頭先生の「修了式を終わります」という言葉を遮って、生徒達のざわめきが講堂に響く。そして、入口のそばにいた教師が扉を開けると我先にと講堂を飛び出した。人の波に流され、もみくちゃになりながらレゾールも講堂を出た。
聖サーミスター学園では毎年修了式の後に舞踏会が開かれている。貴族にとって社交会は大事な交流の場なので、紳士淑女たるものしっかりと作法を心得ておきたいものだ。そのため、この舞踏会はパーティー作法の練習も兼ねている。
大広間で思い思いに食事をしたりおしゃべりをしたりしている生徒達を眺めながら、レゾールは壁際で一人ジンジャーエールを飲んでいた。生徒達の脇に浮かんでいる小さな生き物を見て、溜息をつく。
「おうい、レゾール。折角の舞踏会なんだ、もっと楽しんだらどうだい」
紫色のハリネズミのような生き物を従えた男子生徒が近付いてきた。魔力を受け継ぐ特殊貴族の特徴である美しいエメラルドグリーンの瞳が、眼鏡の奥で煌めいている。
「楽しそうだな、フタレイン」
「ははは、私はパーティーが好きなんだよ」
「僕はあまり賑やかなのは好きじゃないな」
「じゃあなぜ出席しているんだい?」
「……そういうのに……慣れる為……?」
同級生のフタレイン・エチレンスがにやりと口元を歪める。ふざけた名前だ、とレゾールは改めて思う。科学に存在を脅かされた魔法使いの末裔である特殊貴族は、まるで天敵に対抗するかのように科学的な名前を冠している。しかし、屈してしまったようだともレゾールは思っていた。プラスチックのような苗字の同級生はにやにやしたまま、傍らのハリネズミと顔を見合わせる。
「レゾールは妖魔を連れていないからなあ……。そろそろ従者は必要だろう? なあ、ティーネ」
「ぼくもそうおもうよ」
「五月蠅い。そんなの僕の勝手だろ。妖魔の従者を連れていなければならないなんて変なしきたりだよ」
「あはは、仕方ないよ。元々魔法使いは妖魔を引き連れるものなんだから。ああ、でも……君には無理かな」
ハリネズミ型妖魔のティーネを肩に乗せて、フタレインは再びにやりと笑う。
「だって、君には相棒の妖魔を支えることのできるくらいの魔力がないもんねぇ。支え切れなくて死なせちゃったんでしょ、最初の従者」
「おまえはすこぶる性格が悪いな」
「ふふふ、それほどでもあるかな。しかし君も勇気があるな。このフタレインにそんなことを言うとは」
やっぱり性格が悪いな。そう言ってレゾールは顔を顰める。
「僕は……もう人間の従者でいいかなと思っている」
「それじゃあ普通の貴族と変わらないじゃないか」
フタレインは大仰に両手を広げて言う。持ったグラスの中でアイスミルクティーが波打った。
「いやあ、それにしても今年度も終わりか。夏休みが開けたら私達も中等部の五年生だな」
「そうだな」
「五年生かあ……。やっぱり妖魔は必要だよレゾール。それが特殊貴族たるもののあるべき姿だ。本格的に社交界デビューとかをした時に妖魔を連れていないと笑われるよ。この夏休みの間にいい感じの従者を見付けるといい」
空になったグラス片手にフタレインはウインクをして見せる。二百年前に起こった最恐の妖魔アルバテッドによる災厄の際、その封印に協力したと言われる大貴族エチレンス公爵家。持っている魔力と財力は計り知れない。フタレインは決して家の名前を振りかざしている訳ではなかったが、周りの人間はエチレンスという名前を畏れて一歩引いて接していた。レゾールもそんな周りの人間の一人だ。フタレインからは「君はわりと砕けた感じでいてくれるから私も嬉しいよ」と言われるが、自分ではそんなつもりはない。
「レゾールは水魔法が得意だから、それを補助してくれる水属性の妖魔を相棒にするといい。まあ、頑張りたまえ」
レゾールの肩を叩き、フタレインは大広間の中央を向く。楽団による円舞曲の演奏が始まり、何人かがペアを作って踊り始めていた。
「さて、私も踊ろうかな。行こう、ティーネ」
「はーい。それではしつれいいたします。れぞーるさま」
輪の中に消えていくフタレインの背を見送って、レゾールはジンジャーエールを呷る。空になったグラスを眺めて溜息をつく。
「新しい従者……か……」
夏休み期間中は学園全体の動きが停止している。寮も閉鎖状態のため、生徒はみな屋敷に帰っている。
アクロレイン邸の自室で妖魔に関する本を読み漁っていたレゾールは、ベッドにひっくり返って天井を見上げる。修了式の日にフタレインに言われたことが頭から離れなかった。
従者は欲しかった。けれど、レゾールは魔法があまり得意ではなかった。持っている魔力が少なく、魔法を使うとすぐに疲れてしまうのだ。だから、最初の従者になった妖魔を支えることができなかった。
寝返りを打つと、本がベッドから落ちた。拾おうとして起き上がって、落ちて開いたページに目を留める。そこには白い翼を生やした美しい女性が描かれていた。『水の妖魔・セーレ』と書いてある。
「……人の形をしているのか」
いくら妖魔だとしても、一糸纏わぬ女性の姿を長時間見るのは躊躇われた。本を閉じて、脳裏に焼き付いてしまったセーレの絵を振り払う。
「……でも」
もう一度本を開く。
「水の妖魔……」
従者を選ぶなら、自分の使える魔法と相性がいい方がいい。フタレインにもそう言われた。
「会ってみるか」
本にはセーレがよくいるという湖についても書かれていた。鞄に本を放り込み、クローゼットからジャケットを出して羽織る。部屋を出ると、メイドのエマが丁度廊下を歩いていた。レゾールはエマの前に回り込んで、立ち止まらせる。
「レゾール様、お出かけですか?」
「ちょっとね。エマ、手持ちランプを持って行きたいんだけど」
「探検にでも行かれるのですか?」
「まあね」
レゾールと年の近いエマは、使用人と坊ちゃんの垣根を越えてとても仲が良かった。探るような目でレゾールを見ながら、エマは分かりましたと言ってその場を離れる。
数分してランプとマッチを持ったエマが戻って来た。
「元気なのは結構ですが、お怪我などなさらないように」
「分かってるよ。僕だってもう子供じゃないさ」
「あら、うふふ」
「じゃあ行ってくるね」
「行ってらっしゃいませ」
辻馬車を拾って、レゾールは本に書かれた湖へやって来た。御者の老人に釣りはいらないと言って金を渡し、湖畔に降り立つ。老人は最初驚いていたが、レゾールのエメラルドグリーンの瞳を見て納得したようだった。蹄と車輪の音を鳴らす馬車の轍をしばらく眺めてから歩き出す。風はなく、湖は凪いでいた。湖面に空が映って雲が膨らんでいる。
ここにセーレがいるのだろうか。湖の脇にある洞窟へ踏み込む。鞄からランプを取り出し、マッチで火を点ける。ぼんやりと浮かび上がった壁面に苔が貼り付いていた。奥へ奥へと進んでいくと、次第に足下に水が溜まり始めた。地下水が湧き出ているのか、雨水が溜まったものなのか。一端立ち止まって靴と靴下を脱ぎ捨て、ズボンの裾を捲ってから進む。底は水に浸食され滑らかに削られていた。
「おーい、誰かいるのかあー? セーレー?」
自分の声が響く。奥に青白い光が見えた。セーレのものだろうか。レゾールは光を目指して駆け出した。足下に溜まった水が跳ねて服を濡らしたが、特に気にはならなかった。
やがて壁も地面も青白く光り輝く広い場所に出た。ランプをかざして、レゾールは息を呑む。
「何……これは……。……妖魔?」
セーレではなかった。どう見ても人間の形はしていない。いや、人型ではある。上半身だけが人間の男だった。眠っているのか、動きはない。レゾールはランプを動かして謎の生物の姿をなぞる。
まず、顔。目は固く閉じられているが、問題はそこではない。どうやら目は一つしかないようである。水に濡れたブラウンの髪が顔や首に貼りついている。
次に、上半身。元はカーキだったと思われるベストを着ているが、ぼろぼろになって糸が飛び出ている。腕は足下に届きそうなほど長い。
そして、下半身。
「……ケンタウルス? なのか……?」
下半身は馬だった。しかし、蹄の近くに鰭がある。馬は馬でも水生幻獣ケルピーと言ったところだろうか。
謎の生物の体には鎖が絡みつき磔のような状態になっている。皮膚がなく丸見えの筋肉に鎖が食い込み、出血のあとが残っていた。
「死んでるのか……?」
近くにあった岩の上にランプを置き、レゾールは謎の生物にそっと手を伸ばして――。
「人間……か……?」
地の底から響くようなおどろおどろしい声がして、一つしかない目が見開かれた。血のように真っ赤な瞳がぎらぎら光っている。びっくりしてレゾールは飛び退いた。手が当たってしまい、岩の上に置いていたランプが水の中に落ちる。明かりが消え、青白い淡い光の中に謎の生物の姿が浮かび上がる。耳の辺りまで大きく裂けた口が開かれた。
「貴様は……何者……だ……?」
「うわっ、僕は……レ、レゾール・アクロレインだ」
尻餅をついてしまったレゾールは謎の生物を見上げる。たった一つの目が自分を見下ろしている。眠っているうちはそれほど気にならなかったが、改めて見るとかなり不気味な容姿をしている。剥き出しの筋肉には黄色い血管がへばり付いていて、大きな口からは煙のような息が漏れていた。
「おまえは何だよ」
謎の生物は答えない。口から吐き出される煙が青白い光に溶けていく。
「おまえはセーレか? 違うだろう?」
「……私は……ナックラヴィー……」
洞窟の壁から伸びる鎖がナックラヴィーの動きに合わせて音を立てる。レゾールは鞄から本を出し、ナックラヴィーのページを探そうとした。しかし鞄ごと水に浸かってしまったためページが上手く捲れない。濡れたページを破らないように慎重にやっていると、鎖が大きく揺れた。ナックラヴィーが呻き声にも喘ぎ声にも似た咆哮を上げて暴れていた。彼を離さまいと鎖がさらに締め上げる。鎖には魔法がかけられているのか、彼が激しく動くと締め付けるようになっているようだった。食い込んだ鎖が丸見えの血管を傷付け、黒い血を滴らせた。
「おいっ、何やってるんだ……!」
本を放り出して、レゾールはナックラヴィーに駆け寄る。
「そんなことをしたら余計苦しいだけだ! 落ち着け!」
馬の手綱を取るように、首元にかかる鎖を軽く掴んで引く。
「どうどう。ケンタウルスにこれって言っていいのかな」
しばらく背中をさすりながら鎖を軽く引いていると、ナックラヴィーは動きを止めた。荒い呼吸と共に煙が口から吐き出される。赤い瞳がレゾールに焦点を合わせると、先程までとは打って変わって落ち着いた声で言葉が紡がれた。
「すまない……少々取り乱したようだな……」
ナックラヴィーは少し顔を伏せる。気性の荒い生き物かと思ったが案外おとなしいようだ。レゾールの顔から緊張の色が消える。
「おまえは何者なんだ。ケンタウルスなのか」
「私はナックラヴィー。ケンタウルスなどではない。海に住まう荒廃の妖精。名前はまだない」
妖精。レゾールは眼前の鰭付き一つ目ケンタウルスもどきの姿を確認する。
「妖精……なのか?」
手に乗るほどのサイズの人間に羽が生えた姿を想像しがちだが、そのようなフェアリーの他にもずんぐりした髭まみれのドワーフなどもいるのが妖精というものだ。だからケンタウルスのような姿をした幻獣じみた妖精がいてもおかしくない。そう自分に言い聞かせながらナックラヴィーの姿を見るが、レゾールの眉間には皺が寄るばかりである。
妖精かどうかを疑われていると気付いたナックラヴィーは不服そうに大きな口を歪めた。
「人間、デュラハンという奴らを知っているか。奴らは等身大の人間の首がない姿をしているが、あれでも妖精だ」
「それは分かってる。まあ、色々いるからな……。それで、おまえは捕まってるのか」
「……見ての通りな」
ナックラヴィーは長い両手を動く範囲でやれやれと言った風に動かす。
「どうして? 妖精を捕らえるなんておかしいだろ」
「貴様はよい妖精しか知らないのか。エメラルドグリーンの瞳を持っているくせに知識がないな」
「なんだと」
「私達ナックラヴィーは負をもたらすとされる妖精で、人間からは余りいいように思われていない。いつの事だったかは忘れてしまったが、仲間と共にこの湖へやって来た時、偶然居合わせた貴族共に攻撃されて仲間は皆死んだ。生き残った私はこうして捕らえられてしまったという訳だ。だから貴様ももう来るな。特殊貴族ならば分かるだろう。封印された悪しきものに近付いてはいけないということが」
大きな赤い瞳がくるりと光を揺らす。
「ほら、しっしっ。帰った帰った」
そう言った後ナックラヴィーは口を開かなかった。一つしかない目は固く閉じられ、鼻から煙のような息が時折出て来るだけだった。
濡れた鞄にさらにびしょびしょになった本をしまい、壊れたランプを持ってレゾールは洞窟を後にした。
ナックラヴィーは海に住む半人半獣の妖精で、ケンタウルスに似た姿をしているがヒレを持っている。その口から吐き出される息は植物を枯らし、家畜の病を運び、長い腕で人々を絞め殺す。しかし真水は苦手なので淡水域では生活できない。
妖精について記された本のナックラヴィーのページにはそう書かれていた。
「また貴様か、人間……」
翌日、レゾールは再び湖の洞窟を訪れていた。
「ここの湖、塩水なんだな」
「……」
昨日屋敷に帰ったレゾールは、ランプを壊したことを怒られると思っていたため、自分が濡れて帰ったことを心配されて少し驚いた。しかし貴族の坊ちゃんというのはそういうものである。大事にされて悪い気分はしない。この妖精を大事にしてくれる人はいるのだろうか。
「ナックラヴィーって他にもいるんだろ? 助けに来ないのか?」
「……来るなと言っただろう」
「僕の質問に答えてくれないか」
「……来ない。私も殺されたと思っているのだろう」
「そうか」
レゾールは近くの岩に腰を下ろす。ナックラヴィーはそれを見て首を傾げた。
「何をしている? 早く帰れ」
「僕は従者になってくれる妖魔を探してここまで来た」
「だからセーレを探していたのか。しかしここにはいないぞ。奴らはこの前ようやく私の存在に気付いてな、姿を見るなり一目散に逃げていった」
ナックラヴィーは肩を落とす。吐き出された煙が溶けていく。
「さみしくないのか。ここで一人、鎖に繋がれて」
「もう分からない……。私には……」
青白い光に照らされて鎖が不気味に光った。元は銀色だったと思われるが、錆び付き、血がこびり付き、黒ずんでいた。漂う鉄錆びた臭いは鎖の錆びか妖精の血か。
「アクロレイン。僕の家の名だ。アクロレインそのものは刺激臭を放つ物質。手で触ったり目に入ったりすると大変なことになるらしい」
「何だいきなり」
「どうしてそんな危険物質の名前を持っていると思う?」
ランプの明かりにエメラルドグリーンが煌めく。レゾールは手元に水の球を出してナックラヴィーに見せる。
「アクロレイン家の先祖である魔法使いは状態魔法、特に毒水を扱う変化魔法に長けていてね、それで今はこんな名前を名乗っているのさ」
水の球が弾けて消える。
「周りを侵す者、おまえと同じだ」
「……」
「水とは縁が深いんだ。ま、汚い水だけどな。一族は毒とか効かない体だし。だからかな、ここにいると落ち着くんだよな」
「人間、貴様は変だ」
大きな目が細められ、裂けた口が薄く歪んだ。
「初めて笑ったな、おまえ」
レゾールはランプを取って立ち上がる。鞄から何かを取り出し、ナックラヴィーの口元に差し出す。
「何だ?」
「リンゴだ。おまえ、ずっとここに縛られてるんだったら何も食べてないんだろ?」
「……食べずとも平気だ」
「じゃあ置いておくから、気が向いたら食べろよ」
岩の上にリンゴを置く。レゾールは腕時計を確認し、外へ向かって歩き出す。
「そろそろ行かなきゃ。バイオリンの練習があるんだ」
「……もう来るな」
ナックラヴィーは呟く。しかし、声は煙と共に洞窟の中に溶けてしまう。聞き取れなかったレゾールは首を傾げながら小さく手を振る。
「また来るからな」
貴族の子弟というのは学校が休みであっても楽器やダンス、乗馬や護身術などのレッスンがある。レゾールはレッスンの合間を縫って湖の洞窟を頻繁に訪れた。
ナックラヴィーの対応は変わらなかったが、妖精と話すのは楽しかった。秘密基地でだけ会うことのできる秘密の友達のようで、冒険をしている気分だった。岩の上に置かれた果物や菓子はどんどん増えた。そして最初に置いたリンゴは腐って原型を無くした。
「明日から学校が始まる。だから今までみたいにしょっちゅう来ることはできなくなる」
「来なくていい」
ナックラヴィーは顔を伏せる。大きな赤い瞳がくるりと光った。
鞄をごそごそと漁っていたレゾールは何かを取り出して近くにあった鎖に挿し込む。小さなラッパに似た紫色の花だった。
「何だそれは」
「クロッカスだよ。最初に会った時、名前はまだないって言ってただろ? だからおまえのニックネームを考えた」
「人間、私は貴様の所有物ではないぞ」
「僕が勝手に呼ぶだけだよ。休みの日に来ることになるから、週一かな。次の休みにまた来るからな、クロコス」
レゾールは微笑む。エメラルドグリーンの瞳が無邪気な子供のように煌めいた。
レゾールの姿が見えなくなってから、ナックラヴィーは唇を噛んだ。鋭い牙が食い込んで血が滲む。
自分はどうしてあの人間を追い払わないのだろう。やろうと思えばできるはずであった。例え思うように動かなくても、長い腕であの人間を洞窟の外へ投げ飛ばすことも、首を締め上げることもできる。
岩に置かれた食べ物を口に運ぶこともできるだろう。ゆっくり動けばいいだけだ。けれど、しなかった。食べ物が減っていれば人間は機嫌をよくしてさらに訪れるようになると思ったからだ。
鎖に挿し込まれたクロッカスを見る。
「私の……名前……」
生まれてこのかた人間や他の生き物に親切にされたことはなかった。水の妖精でありながら海や河川の周りを荒廃させるようなナックラヴィーには、彼を大事にしてくれる者など存在しなかった。他の妖精が人間達に大切にされているということを知るたびに苦しくなった。仲間を殺され、自分は捕らえられ、ナックラヴィーは人間という生き物に絶望した。
けれど、あの人間は違った。
青白い光の中で深紅から雫が落ちる。底に溜まる塩水に波紋が広がり、黒い光が走った。
聖サーミスター学園の新学期が始まり、レゾールは中等部の五年生になった。始業式での校長先生の退屈な話をなんとか乗り切り、寮の自室を目指す。
「レゾール、ごきげんよう」
後ろから声をかけられ振り向くと、フタレインが立っていた。傍らに従者のティーネが浮かんでいる。
「おやおや、どうやら夏休み中の従者ゲットとはいかなかったようだね」
「五月蠅い」
踵を返して立ち去ろうとするレゾールの腕を掴み、フタレインは自分の方に引き寄せる。
「何だよ」
「君と少し話がしたいのだけれど」
「……は?」
「他の人に聞かれるとまずい。来てくれ」
腕を掴まれたまま引っ張られる。フタレインに引きずられ、レゾールは角と羽のある馬のシルエットと「エチレンス」という文字が書かれたドアの部屋に放り込まれた。
「おい、一体何なんだ」
「私の部屋だよ」
「そんなの分かってる。僕が言ってるのはそうじゃなくて……」
「単刀直入に言おう。君、嵐の湖へ行っただろう?」
嵐の湖。いつもナックラヴィーに会いに行く時、看板に書いてあるのが目に入っていた。
「ど、どうして知ってるんだ」
狼狽えるレゾールを見て、フタレインは満足そうに笑う。これでもかというほど嘲笑う表情のまま、
「あそこには危険な妖精が封印されていてね、エチレンスに仕えるドワーフが常に監視してるんだよ。この前彼から連絡があってね、なんとブラックハウンドの紋章を付けた少年がよく来るそうじゃないか」
そう言って、フタレインはレゾールが制服の襟に付けているラペルピンを指差す。真っ赤な目を光らせた黒い犬の飾りが付いたラペルピン。アクロレイン侯爵家の紋章を簡略化したものだ。
「君のことだよね、レゾール。あまり近付かない方がいい。……まさか洞窟に入ったりなんてしていないよな」
フタレインに詰め寄られて、レゾールは視線を逸らす。
「レゾール君、正直に言いなさい」
洞窟に入り、封印されている妖精と話をしているなんて口が裂けても言えない。レゾールはフタレインから逃げるように壁伝いでドアに近付こうとする。しかし、逃げられるはずがない。常に自分よりドア側に立とうとしている相手を振り切って外に出るなどほぼ不可能だ。
「なぜ逃げる? 何かやましいことでもあるのか?」
「別に……」
「……ふうん、そう」
フタレインはレゾールから離れると、眼鏡をはずしてレンズを拭き始めた。柄の部分に螺鈿細工が施された代物である。その様子をしばらく見ていたレゾールは、彼が自分への質問をやめたのだと気付いて部屋を出た。
ペルシャ絨毯が敷かれた廊下を歩きながら、レゾールは考えていた。あのフタレインがあれだけで諦めるだろうか。そして、自分はナックラヴィーに会っていていいのか。
ブラックハウンドの絵が描かれたプレートの下がるドアを開け、部屋に入る。明日から本格的に授業が始まる。予習しておこうと本棚から古典の教科書を出して机に向かい、レゾールはふと窓の外を見る。残暑の強い日差しが寮の前の石畳に降り注いでいて、近くに置かれた弓を構えるケンタウルスの石像が濃い影を落としていた。
聖サーミスター学園の学生寮は十二棟あり、それぞれ黄道十二星座の名を冠している。レゾールとフタレインが暮らすのは射手座棟だ。
射手座像のそばを通りかかった女子生徒二人が立ち止まり、二階を見上げて手を振る。クラーケンのブローチを付けている方がアルミニウム伯爵令嬢、ケルピーの髪飾りを付けている方がベークライト公爵令嬢だ。レゾールの部屋は二階にある。自分の部屋に向かって手を振っているのだろうか、と青春を謳歌する年頃の少年ならば思うところかもしれないが、レゾールは彼女達が手を振っている相手が自分ではないということを知っていた。相手はおそらくフタレインだろう。ベークライト公爵令嬢は彼の婚約者なのだから。彼女の艶やかなブルネットとフタレインの透き通るようなライトブラウンの髪は並んでいるととても美しくて、名前も含めてお似合いだとレゾールは思っていた。
机に向き直ってレゾールはペンを握る。偶然とはいえ、友人の小さな逢瀬を覗き見るのはよくないだろう。教科書に載っているシェークスピアの『お気に召すまま』の指定個所を読みながら、今はあまり使われていない表現の箇所に薄く下線を引き、ノートに箇条書きにしていく。
黙々と予習をするレゾールの足下から、影のように暗い糸状のものが細く伸びてドアの下の隙間から外に出ていた。
新学期が始まってから初めての休日、レゾールは外出届を出入管理室へ届けるために事務棟一階の廊下を歩いていた。初代事務長の肖像画の前を過ぎようとした時、角を曲がってやって来た影にぶつかりそうになった。慌てて足を止め、よろけた相手の腕を掴む。
「大丈夫か」
「あわわ、すみません。あっ、レゾール様」
影の正体はベークライト公爵令嬢だった。
「レゾール様、ごきげんよう」
「ごきげんよう」
「わたし急いでいて……。失礼します!」
方向転換したお嬢様の背中に「何かあるのか」と声をかけると、「フタレイン様とお茶なんです」と上機嫌な答えが返って来た。
再び出入管理室へ向かって歩き出したレゾールの前に、白い翼が広がった。びっくりして足を止める。
「お嬢様! 事務員の方にいただいたブレンド茶葉をお忘れです! わっ、レゾール様っ!? びっくりさせないで下さい!」
「僕の台詞だ!」
ベークライト公爵令嬢の従者であるジェシーだった。主の次は従者か。妖魔でありながら人の姿をとり、白い翼を広げる姿を改めて見て、レゾールは立ち去ろうとするジェシーを呼び止める。
「おまえ、セーレだったのか」
「何です今更?」
外見年齢は三十代半ばと言ったところだろうか。メイド服を揺らしながら、ジェシーは首を傾げる。眼鏡が照明を反射して光ったが、妖魔も目が悪くなるのだろうか。それとも伊達眼鏡なのか。眼鏡で頭がいっぱいになりそうなレゾールは頭の中からジェシーの眼鏡についての疑問を弾きだし、本題に入る。
「嵐の湖にセーレがたくさん住んでたんだろ?」
「ええ、そうですね。わたしはその湖の者ではありませんが。セーレがどうかしたのですか?」
「新しい従者を探そうと思って、水の妖魔であるセーレが住んでるっていう湖に行ったんだ。でもいなくて」
ジェシーの表情が少し翳る。
「……湖に住んでいた仲間が言うには、恐ろしい化け物が封印されているのを見てしまい怖くて逃げたと」
「その化け物ってどんなのだったかとか聞いたか?」
「いえ……詳しいことは」
「そうか、ありがとう。呼び止めてすまなかった、早く主の元へ行ってやれ」
「失礼いたします」
一礼してジェシーが去って行く。セーレ達はナックラヴィーについてあまり知らなかったが、あの容姿を見て驚いたという訳か。一人でうんうん頷きながら、レゾールは出入管理室へ向かった。
湖の近くまでやって来たレゾールは馬車を降りて唖然とした。村が荒れ果てている。草花は枯れ、家畜はうずくまり、住人は家に閉じこもっているのか外には誰もいない。村の脇を流れる川は濁り、魚が岸に打ち上げられて死んでいた。
「何だこれは……」
事情を聞こうと近くの家のドアをノックするが返事がない。
「一体何が」
湖の方へ進んでいくと、次第に魚が腐ったような臭いがしてきた。だんだん臭いが強くなっていく。枯れた草木をかき分けて湖に辿り着いて、あまりの腐敗臭にレゾールは鼻をつまむ。湖の水は黒く淀み、魚や虫の死骸が浮かんでいた。
草木を枯らし家畜の病を運び人間を殺す。本に書かれていたナックラヴィーの説明が脳裏をよぎる。レゾールは洞窟へ向かって走り出す。踏みつけた魚の感触が靴の底から伝わって来た。しかし、今は気持ち悪いなどと言ってはいられない。泥が跳ね、ズボンが水に濡れるのも気にせず、レゾールは洞窟の最奥部を目指した。
「クロコス! おい! 何があったんだ!」
青白い光の満ちる空間に着く。ナックラヴィーの周りの水はどす黒くなっていた。
「ああ、また貴様か、人間」
大きな赤い瞳がくるりと光る。そして雫を落とした。
「……クロコス? おまえ……」
水に黒い光が走る。
「おまえ、泣いてるのか? まさかずっと?」
「ああ、分からない、私には。なぜだか分からないんだ。貴様のような変な人間に会ったのは初めてで、こんなに、私のことを考えてくれて、私は……。私はきっと、生まれて初めて大事にされて、訳が分からなくなっているんだ……」
大粒の涙が足元の水に落ちるたび、黒い光が水中に走っていく。生き延びていたのか、偶然一匹の小魚が泳いできた。そして黒い光に触れた途端動きが止まり、やがてぷかりと浮かび上がった。魚の黒い瞳がきらきらしながらレゾールを見上げる。
「クロコス、もう泣くな。おまえの涙は……」
おまえの涙は水を汚染する。出かかった言葉を飲み込む。水の妖精が周りの土地だけでなく、こんなにも水を汚すなんてレゾールは言うことができなかった。
ナックラヴィーの目からまた涙が零れる。
「……クロコス、僕と一緒に来ないか」
「……え? 貴様何を言って……」
このままこの妖精をここに置いておくと、被害は周辺の村だけでは済まなくなるだろう。レゾールは鎖を掴む。
「この鎖、僕が断ち切る。だから一緒にアクロレイン邸に来てくれないか。海水のプールなんて簡単に作れるし、家にいれば他の人から嫌われることなんてないさ」
「人間……」
「草木を枯らす? そんなの、おまえの暮らす海水プールの周りに花を植えなければ気にしなくていい。家には家畜なんていないし、うちのブラックハウンドは丈夫だ。それに、おまえは僕を絞め殺したりなんてしないだろ」
アクロレイン邸に置いておけば誰かが被害に遭うことはない。それに、楽にすぐ会えるようになる。
ナックラヴィーの涙が勢いを増す。
「だから泣くなって。感動してくれるのは嬉しいけど、そんなに泣くなよ。おまえも男だろ。だったらめそめそするなよ」
「人間……貴様は……優しいな……」
裂けた口が大きく笑う。赤い瞳からは最後の一粒が落ちた。
「さて、この鎖をどうするかな……」
鎖を引こうとした瞬間、後ろから足を引っ張られた。バランスが崩れ、上体が大きく揺さぶられる。何が起こったのか分からないまま、レゾールは前のめりになって水の中に倒れた。水飛沫が上がり、ナックラヴィーにかかる。
「人間、大丈夫か」
「いっててて……何だ一体……」
びしょ濡れのレゾールは起き上がって後ろを見る。
「ごきげんよう。レゾール・アクロレイン様」
聞き覚えのありすぎる声で、ここで一番聞きたくない声だった。濡れて顔に貼り付いた前髪をよけて、相手の姿を確認する。
ライトブラウンの髪。エメラルドグリーンの瞳。眼鏡。角と羽の生えた馬がかたどられたラペルピン。
「やっぱり会っていたんだな。しかも仲良さそうだね」
「……フタレイン」
「やあ」
淀んだ水に浸からないぎりぎりのところに立っていたフタレインはにこりと笑って右手を軽く上げた。
「おまえ……今日は婚約者とお茶じゃなかったのか。というか何で僕が今ここにいるって知ってたんだ」
「フェノールには急用だと言って断ったんだ。君の居場所が分かったのは、糸を辿って来たから」
「糸?」
フタレインが左手を高く上げると、レゾールの靴が引っ張られた。影のように真っ黒な糸が左手から伸びている。
「闇属性の追跡魔法だ。糸を付けられた相手は全く気付かない」
靴から外れた糸がフタレインの手元に巻き取られていく。
「おまえ、何のためにこんなことを……」
二人のやり取りを黙って見ていたナックラヴィーが口を開く。煙と共に言葉が紡がれていく。
「人間、あれは貴様の友人か? ならば歓迎しよう」
「友達だけど違うんだよあいつは……」
「歓迎ありがとうナックラヴィーさん。でもね、私は彼を連れ戻しに来たんだよ」
洞窟の中に足音が響く。フタレインが誰かを連れてきているらしい。レゾールはナックラヴィーの前に立って身構えた。手元で水の球が踊る。しかし、やって来た人物を見た瞬間水の球は弾けて消えた。自分の意志で消したのではない。消さざるを得なかった。条件反射だ。この人に戦闘を仕掛けてはいけない。
「やあ、君がレゾール君か。アクロレイン侯に似て喧嘩っ早いのかな?」
「貴方は……」
「息子から君の話はよく聞いているよ」
「エ、エチレンス公……」
「表でアクロレイン侯がうちのペガサス達と待っているよ」
「なっ……何で……」
答えを待たずとも分かっていた。自分がナックラヴィーに接触しているのかどうかを調べ、接触していた場合接触できないようにするつもりだったのだ。レゾールは後退る。危険だからと封印した妖精に貴族が近付くなんて許されることではない。子供ならばなおのことだ。
「レゾール、君がこの妖精を気に掛けるからこいつは泣くんだ。見ただろう、村や川、湖の様子を」
何のことだろうとナックラヴィーは確認するようにレゾールを見る。
「言うなフタレイン!」
「その妖精の涙は」
「やめろ!!」
レゾールの足下の水が持ち上がり、渦を巻いてフタレインに襲い掛かる。しかしフタレインは表情を全く変えず、左手を振るい影の刃を作り出して水の塊を一刀両断した。
「そいつの涙は水を汚染する」
レゾールが膝から崩れ落ちる。強い魔法を使ったため魔力をかなり消費してしまった。
「クロコス」
振り向くと、ナックラヴィーは大きな目を大きく見開いてフタレインを見ていた。赤い瞳が揺れる。
「私が……水を……? 水の妖精なのに?」
「そうだ。オマエが川も湖も汚したんだ。水の妖精なのに」
「私……が……」
鎖に挿し込まれたクロッカスが落ちた。ナックラヴィーの息を浴びても大丈夫なように魔法をかけていた花が、黒い水に落ちた瞬間しおれて茶色くなった。
「違う、違うクロコス。おまえの所為じゃない。僕が……僕がおまえに接触しなければ」
言ってから、しまったと気付く。こんなことを言っては相手の思う壺だ。
「そうだレゾール。君が接触しなければいいんだよ」
負けた。勝てない。エチレンスには。レゾールは拳を握る。
「早く来なさい、レゾール君。外で待っているよ」
エチレンス公が洞窟の外へ出ていく。歯を食いしばるレゾールを見て、フタレインはその肩を軽く叩く。
「悪く思わないでくれ。父上が決めたことだ。私に拒否権はない」
「おまえ、公爵に言われて」
「それ以上は言わないでくれ。行こう、レゾール。このままだと多くの貴族に目を付けられアクロレインが危うくなる。父上ならやりかねない」
「……分かった。でも、最後にクロコスと話がしたい」
「なるべく早くしてくれよ」
レゾールはナックラヴィーの正面に立つ。そして、満面に笑みを浮かべた。それを見てナックラヴィーも少し表情を緩める。
「行ってしまうのか、人間」
「ごめん」
「……楽しかった。貴様……オマエに会えて」
「クロコス」
レゾールは鞄からクロッカスの花を出して、鎖に挿し込む。
「造花だから枯れない。これを目印に、会いに来るから。絶対、またおまえに会いに来るから。だから、僕のこと、待っていてくれないか。次に来るとき、必ずおまえを鎖から解放してみせるから」
赤い瞳がくるりと光った。泣くなと自分に言い聞かせるように首を振って、クロコスは頷く。
「待ってる。また来いよ、レゾール」
♮
昔話はこれで終わりだ。どうだったかな? 別の話が聞きたければまた来るといい。
♯
黙っておとなしく話を聞いていた青年がゆっくりと口を開いてこちらを見た。
「その彼とは、まだ会っていないんですか」
「そうだ」
「そうですか」
「もう四十年も前だ、向こうは覚えていないかもしれない」
「そんなことないですよ」
青年は立ち上がって笑う。
「大切なお友達なんでしょう?」
「ああ」
置いていた鞄を肩に掛け、ぺこりと頭を下げる。
「お話、ありがとうございました」
「うん。君は確か、極東の島国からの留学生と言っていたな。いずれ故郷に帰るのか」
「あー、それは、そーですねー。んーと、僕は本当は日本人じゃないんですよね」
「それはどういう」
青年はかけていたサングラスを外す。美しいエメラルドグリーンの瞳が姿を現した。そして、カバンから取り出されたのはブラックハウンドのネクタイピンだった。
黒い髪。エメラルドグリーンの瞳。ブラックハウンド。私は何か幻覚を見ているのだろうか。
青年はズボンが濡れるのもお構いなしに片膝をつく。
「貴方を騙すようにして話を聞き、申し訳ありませんでした。四十年前の話を聞くことができるまで待っていたんです」
青年の周囲の水が渦を巻いて跳ねた。
「僕はカルバゾール・アクロレイン。貴方の友人の息子です」
これは夢か何かだろうか。私が今まで何度も話をしていたこの青年が、レゾールの息子だなどということがあるだろうか。
「貴方が父のことを覚えてくれているかどうか、僕が調べに来ていたんです。今でも、父を待っていますか」
「私は……レゾールを待っている。この、クロッカスと共に」
私は鎖に挿し込まれたクロッカスの造花に触れる。カルバゾールは大きく頷き、懐中電灯を置いたまま洞窟の外へ向かって駆けていった。彼の足音が聞こえなくなったかと思うと、別の足音が近付いてきた。ああ、この歩き方は、きっと……。
「久しぶりだな、クロコス。ずいぶん待たせてしまったな」
少し白が混じった黒い髪。エメラルドグリーンの瞳。ブラックハウンドのカフスボタン。
「変わったな」
「おまえは変わらないな、あの時と」
五十代半ばになったレゾールは、随分と大人になっていた。体はあの時よりもがっしりしていて、声にも落ち着きがある。人間の時の流れは速い。
「私も今はアクロレイン侯爵だ。偉くなっただろう?」
薄く笑いながら問いかけて来るのは変わらない。レゾールは鎖に触れる。
「会議になるたびにフタレインが頑張ってくれたんだが、やっと嵐の湖の管理の仕事がアクロレインに回って来たんだ。あいつが爵位を継いでからだから三十年はかかったな。やっとこの湖にまつわる色々を自由にできる。フタレインに感謝しないといけないな」
レゾールが触れたところから鎖が砂塵のように崩れ始めた。魔法はあまり得意ではないと言っていたが、封印を破壊するとは恐ろしい成長を遂げたようだ。
私の体を長い間縛り続けていた鎖が崩れ落ちた。空間に満ちていた青白い光も消える。自分で自分の体を支えるのは久し振りで、私は少しよろめいた。
「大丈夫かクロコス」
「ああ、なんとか」
レゾールは水の中から鎖と共に落下したクロッカスの造花を拾う。
「『貴方を待っている』。おまえがクロコスでよかったかもな」
私のボロベストのポケットに花を入れ、レゾールは満足気に頷く。
「あの後水の妖魔に会うことができてな、私の従者になってもらっている。おまえは妖精だから従者にはできない。ただの使用人扱いになってしまうが、一緒にアクロレイン邸に来てくれないか」
「答えは決まっている。共に行こう。オマエと」
レゾールの周囲で水滴が嬉しそうに回った。
「早速屋敷に行き、使用人契約の書類を書こう。おまえもサインをしてくれ」
「分かった」
「水は世界を循環している。それならばいつか降った雨が一周して再び降ることもあるだろう。だから、おまえは再び私と共にいてくれる。確かにナックラヴィーは草木や家畜に害を与えてしまうこともあるかもしれない。しかし、おまえは荒廃の妖精などではない。私を潤してくれる大切な水の妖精だ」
レゾールは岩に置かれた懐中電灯を拾って微笑む。
「私の魔法で周囲への影響を極力抑えるから、今度おまえの故郷の海にでも行こうか」
やっぱりこの人間は私を大事にしてくれる。溢れそうになった涙を堪えて、私はできるだけ笑顔を作る。さて行くかと歩き出したレゾールを呼び止める。
封印の鎖を制御していた青白い光はもうない。レゾールの持った懐中電灯の明かりだけが柔らかく揺れている。仄かな光に浮かび上がるレゾールの顔は、侯爵らしからぬぽかんとしたものだった。
「再び私の前に現れてくれてありがとう。待っていたよ。お帰り、レゾール」
アクロレイン侯は私の皮のない手を取る。満面に笑みを浮かべたレゾールに、四十年前の姿が一瞬重なった。
「ただいま」