第94話 魔王の剣は応じない
交換日記[筋肉神]
娘よ、石盤遺跡など読む必要はない。
おまえには優れた筋肉があるではないか。
澄み切った青空の下――。
群れを成して飛んでいる雁のような鳥へと、ナマニクさんが容赦なくつっこみます。
雁たちは逃げる間もなく、ナマニクさんの大きな口に群れごと飲み込まれてしまいました。
ちょっと可哀想な気がしますが、これは竜種のお食事です。仕方がありません。
というか、また少し大きくなった気がします。ナマニクさん。
だって、わたしとアデリナ、そしてメルさんの三人が背中にのっても、まだかなり余裕があるのです。
アデリナとメルさんは眠っています。術者が眠っていてもナマニクさんの背中に張り巡らされた風の結界は有効らしく、高速で飛んでいるけれど向かい風はありません。
リリフレイア神殿国の豊かな森を越え、ナマニクさんは進路を北西に取ります。
いよいよ、アラドニア領に入りました。
目指すは常闇の国アラドニアの首都ラドニスです――が、そこへ到達する前には、黒の石盤遺跡上空を通らねばなりません。
もちろん、素通りするつもりなんてなくて……。
「……蓮華、寝ないのか?」
アデリナの声に、わたしは振り返りました。
「今アラドニア領に入りました」
アラドニア領といっても、この地域一帯はもともとは騎士国家ロンドレイの土地でした。
ロンドレイの剣聖リリエム王が旧アラドニア王のサイルス一族に討たれて、この地を奪われたのです。彼のような優れた七英雄であっても、新たな時代を携えた魔術師には勝てなかったのです。
「そうか。少しは眠ったか?」
「いえ……眠れなくて……」
あるいは――。
あるいは、剣聖リリエム王を討ったサイルス一族の力こそが、黒の石盤遺跡のもたらした何かだったのではないでしょうか。
石盤遺跡とは、なんなのでしょう……。わたしはそれを考えるたびに、怖くなっていくのです……。
黒の石盤遺跡は、旧アラドニア領と故ロンドレイの国境付近にあります。もうそれほど遠くはありません。
アデリナが気怠そうに上体を起こし、長い青髪に手櫛を入れました。
「まだ半日はある。少し眠ったほうがいい。心配ならあたしが起きていよう」
「いいですよ、そんな」
「結構眠った。あたしのほうこそ、もう眠れん」
半日。ラドニスまでは丸一日はかかる算段なので、アデリナは黒の石盤遺跡までの道のりのことを言っているのです。
魔王の鎮座するアラドニアの首都ラドニスに行く前に、寄るつもりなのです。
――黒の石盤遺跡に。
きっとメルさんは反対するでしょうけれど、わたしはそれを目的に旅を続けてきたのだから。
ナマニクさんは夜通し風を切って飛び続けてくれています。途中、食事のために森に降りたり、渡り鳥を群れごと飲んだりはしていますが、休憩を取る様子はありません。
口が裂けても、賢い子とは言えませんが、ナマニクさんもまた彼なりに何かを感じとっているのかもしれません。
そのときです。
わたしとアデリナが同時に北西方向へと視線を向けたのは。
進行方向。強力な殺気を感じました。肌が粟立つほどの強い殺気です。それは限界まで達した怒りにも似ていました。
「アデリナ……!」
「ああ。結界を強める」
アデリナが懐に手を入れ、いつもの触媒用ナイフを取り出します。
北西の空にいくつもの大きな鳥のような影が見えたのは、そのときです。空を覆い尽くすほどの数の、黒い翼。
「何、あれ……アラドニアの国境警備?」
「ハルピア族だな。常闇の眷属だ」
黒い翼に、人の顔、人の身体。
鴉天狗だ……。
真っ先にそう思いました。
日本で言うところの、天狗なのです。鼻は外国人のように高く、人間のものに近い肉体は肉食獣のように引き締まり、足には鳥のような鋭いかぎ爪があります。
そして、全員が剣を抜いていました。
「やる気満々ですね」
「こっちはやりたかないんだけどな。魔王に恨まれたら終わりだ。殺さずにやり過ごせるならそれに越したことはない」
言葉のわりに、アデリナは落ち着いています。
「だから結界を強めるんでしょう?」
「そうだ」
アデリナがナイフをぐるりと一周させると、ナマニクさんの背中でわたしたちを中心として渦巻いていた緑色の風が、そのぶ厚さを増しました。
アデリナがナマニクさんの首を叩いて命じます。
「いいぞ。突っ切れ、ナマニク」
――ガアアアアアアアァァァァァァァーーーーーーーーーーーーーーーッ!!
空を揺るがす咆吼一つ。
ナマニクさんが空に展開するハルピア族の群れへと向けて、大きな翼で空を叩きました。
結界に阻まれて向かい風こそないものの、わたしたちは慣性に引かれて足を踏ん張ります。
この状況でもぐーすか寝ていられるメルさんって、ほんとになんなんでしょうね。
こちらへ向かい来るハルピア族数百体と、ナマニクさんの鼻先が接触します。ナマニクさんはまるで木の葉でも散らすかのように、ハルピア族を数十体、一気に跳ね飛ばしました。
――ゴアアアアアァァァァァーーーーーーーーーーーーッ!!
剣を叩きつけられても、鎧竜の鱗はそう簡単には破れません。
結界に触れたハルピア族は、風に跳ね返されてバランスを崩し、落下します。すぐに復帰して羽根を広げて追いかけてきますが、ナマニクさんは腐っても腐肉――じゃなくて竜です。
彼が本気で羽ばたき始めたら、ワイバーンですら追いつけません。ナマニクさんの速度についてこられるのは羽馬くらいで、それよりも速く飛べるのは古竜種くらいのものでしょう。
ナマニクさんは威嚇の咆吼を上げ、次々とハルピア族を鼻先や大きな翼で吹っ飛ばしながら直進します。アデリナの張った風の結界は、破れる気配さえありません。
「問題なく抜けられそうですね」
「そうだな」
アデリナがそう呟いた瞬間でした。
視線の先。片翼しかない若いハルピア族が、他の二体のハルピア族に支えられて、ふわりとわたしたちの進行方向に舞い降りてきたのです。
白羽根――?
ハルピア族の大半は一対の黒い羽根を持っているのですが、彼だけは片翼、それも純白の羽根を持っていたのでした。
彼を支える二体のハルピア族が、その手を放します。
彼はスピードも何もなく、ただふわりと舞って。
わたしは思いました。きっとアデリナの風の結界が、彼を吹っ飛ばすでしょう、と。アデリナもそう考えていたと思います。
けれど――!
白い片羽根のハルピア族は、抜刀と同時に静かに縦に剣を振りました。
「~~ッ!?」
わたしはとっさにアデリナへと飛びつき、彼女を抱えて横に飛びます。
その直後、結界の裡側に入り込んだハルピア族の青年は、ナマニクさんの背中から尾の付け根までを滑って止まりました。
「なんだと? 結界を……!」
アデリナが眉を顰めます。
結界が破られたのです。音もなく静かに。剣で風を斬って。その上で、わたしたちの立ち位置までも一瞬で見極め、すり抜け様に斬ろうとした。この人は。
それはとっても、静かで穏やかな剣でした。
ですが、だからこそ。
ぞわっ、と全身が粟立ちました。
魔王に負けず劣らず、とんでもない達人です。わたしがとっさにアデリナを庇わなければ、彼女はもう死んでいたでしょう。
ハルピア族の青年はナマニクさんの尾の付け根付近で、こちらを振り返ります。
「貴女がたは何者です? 何故、黒の石盤遺跡に近づくのですか?」
穏やかな優しい声でした。ともすれば油断をしてしまうほどに。
わたしはアデリナを背中に導いて、両手の拳を握りしめます。
結界はもう閉ざされているので他のハルピアが入り込んでくることはありませんが、他のハルピアたちは仕事を終えたとばかりに、ナマニクさんへと無理な突撃をすることをやめていました。
その行動で、この青年がどれほどの腕なのかが察せます。数百体のハルピア族は、たった一体のこの青年の力を信じているのです。
何者にも負けることはない、と。
「質問にこたえていただけないのであれば――」
青年がなんの変哲もないロングソードをすぅっと静かに引きます。
「――斬ります」
全身の毛穴が開き、汗が噴き出てきました。
変身、する暇あるかな……。
せめてあのロングソードを受け止められるだけの武器が欲しいです。キラキラ☆モーニングスターさえあれば、一方的に負けるようなことはない……といいのですが……。
静かなにらみ合いが続いていると、ふいに足もとで寝そべっていたメル・ヤルハナさんがむくっと起き上がりました。
燃える炎のような赤い髪を、片手でばりばりと掻いて。
「……騒がしいと思ったら。おまえ、魔王の剣ティルス・ノーティスだな」
「ええ。人間たちの間ではそう呼ばれているようです」
ティルス・ノーティス。どうやらこの青年の名は、ティルスというらしいです。
「魔王の……剣?」
「ああ、魔王には四枚の切り札がある。剣と盾、騎竜と影だ。そのうち一枚がこいつ、魔王の剣。ハルピア族のティルス・ノーティスだ。魔王の剣技を継ぐものと言われている」
それって……魔王を師に持つメルさんも同じようなものなのでは……。
そう思ったけれど、口には出せませんでした。余計なことに気を散らしたら、いつ斬られるかわかったものではありません。
けれどもメルさんは、いつもとなんら変わらぬ堂々とした物言いで告げます。
「わたしはリリフレイアの聖鉄火騎士団第七戦乙女隊副長メル・ヤルハナだ。こっちの二人は旅の仲間だ。魔王に用があってやってきた」
「申し訳ありませんが、国境は誰も通すなと言われています。特に、石盤遺跡には近づけるな、と。敵対国の将であるなら、なおさらのこと」
「ならば魔王に戻って伝えろ。メル・ヤルハナが会いに来たと」
「魔王様はもう、人間とは何も語らない。交渉には応じません」
「わたしの名を言え。たぶん、気が変わる。いい加減なやつのことだからな」
ティルスさんがロングソードの剣先を、メルさんへと向けました。
「聞こえませんでしたか? ぼくは誰も通すなと言われている」
メルさんは大きなため息を一つついて起き上がり、腰から赤い刀身をしたロングソードを抜きます。
「おまえこそ聞こえなかったのか? 言われた通りガキの遣いでもしていろ」
なんの迷いもありませんでした。一瞬の躊躇いさえもありませんでした。
言葉が終わった直後、白い刀身と赤の刀身が火花と甲高い音を散らします。それは、お互いがお互いを殺すためだけに振るった剣でした。
長く戦場に生きてきた人たちだけが振るう、殺人剣でした。
交換日記[魔法神]
読んでも無駄でしょうな。
我らが娘ならば、あの知識に触れてもなんら変わりませんぞ。
ただただ、心に傷を負うだけで……。




