第48話 人斬り侍は躊躇わない
交換日記[筋肉神]
オワタ。
音もなくわたしたちの背後に立つ存在に、アデリナはまだ気づいていません。
なぜなら彼女は殺気や闘気ではなく、魔素で敵を感知しているから。けれども、わたしは。そうではないから。
だから。
毛穴が開き、体毛が逆立つのを感じました。皮膚が粟立ち、悪寒が這い回るのを感じました。自分の死に様を、いくつもいくつも想像させられました。
首を斬られて、背中を斬られて、心臓を貫かれて――。
そうして、彼は――わたしたちの背後に忍び寄っていた彼は、口を開くのです。
背後から、たったの数歩背後から、吐息すらかかる距離から。
「――リリィ。どうやらこいつらァ、黒の石盤遺跡に興味があるらしいやな」
それは、先ほど本を見ていた男性の声でした。
びくり、と身体が震えました。
アデリナが小さく息を呑み、首を回して振り返ります。わたしは怖くて、背後に立つ存在が目の前の女性よりもずっとずっと怖くて、振り返ることさえできません。
嘘、嘘……! こんなにっ、こんなにも近くに来られるまで気づかなかっただなんて!
汗が目に入るのに、瞬きさえできません。意識的に呼吸をするだけで精一杯です。
わたしたちの前に立つ女性が、空色の瞳をこちらへと向けました。ううん、わたしたちではなく、その背後。背後に立つ男性へと向けられたのです。
「困りましたね。――斬りますか?」
赤い着物の女性が、わずかに瞳を細めます。
瞬間でした。背後の男性に負けず劣らず、恐ろしく濃い闘気が、女性の全身から溢れ出したのは。
「~~ッ」
喉の奥から、無意識に小さな声が漏れました。
怖い。怖い。怖い。前も後ろも、怖い。
「ンだなァ。生かしといて後々妙なことをしでかされても困る」
しゃら……と、剣を抜く音が背後で響きます。それでもわたしは振り返ることさえできません。できないのです。怖くて。とても怖くて。
だめ、だめです。
確信があります。
今、ほんの少しでも動けば斬られる。
本棚に挟まれていて狭い側方はもちろん、前方に跳んでも間に合いません。背中を斬られます。そんな予感があるのです。脳内でいくつシミュレーションをしようとも、ただの一つたりとも背後の彼には通用しないのです。
わたしはようやく思い知らされました。
失敗した。わたしは選択を誤ったのです。写本なんて求めるべきではなかった。こんなところまでのこのこ来るべきではなかったのです。
だから、アデリナを巻き込んだ。許せない、自分の迂闊さが。あれだけ彼女が警告をしてくれたというのに。
「……させ……ない……ッ」
わたしは今日ここで死ぬでしょう。それはもう、避けようがありません。
けれど、こんなくだらない選択ミスにアデリナを巻き込むつもりは、もっとありません。
だから――ッ!
萎縮するな! 血を通わせろ! 目覚めろ!
「はぁ~~~~~~……ッ!!」
歯を食いしばり、両膝を曲げて全身の筋肉を覚醒させます。
それでもきっと勝てないでしょう。もしかしたらわたしの背後に立っている男性は、あの日の黑竜よりも、ずっと危険な存在なのかもしれません。
でも、アデリナを逃がす隙くらいは作ってみせます。
「蓮……華……?」
アデリナ、あなただけでも――。
「ほう。こいつぁなかなか……」
背後で男性が、静かに感嘆の声を上げました。
危機感のまるでない声。自分は絶対に死なないとわかっていて発する、傲岸不遜な声。
それはそうでしょう。だって、わたしが全力を出したところで、この人には敵わないのだから。そんなことはわかっているんです。むしろ今この瞬間、斬られれば終わりです。
けれど、それをしない。する必要性すら感じていない。
でも――ッ!!
「まだ……ッ、もっと……ッ!」
めり、めり、全身が軋みます。
血液は酸素をのせて数倍の勢いで細胞に届け、わずかな脂肪を燃やしてすべてをエネルギーへと変換していきます。筋肉を動かすための、エネルギーへと。
腕が、足が、びきびきと軋みながら肥大化しました。
右手に持ったキラキラ☆モーニングスターの柄を、握りつぶすほどに強くつかんで。
食いしばった歯の隙間から、獣のような息が漏れました。
「……フゥゥゥーーーーーーーーーーーーーー……ッ」
おそらく女性を狙って前に跳べば、わたしは背中を斬られるでしょう。けれど、そうするしかないのです。背後の男性は無理です。わたしでは何もできない。
だから、必要なのは覚悟。
わたしは背中を斬られながらでも、女性に飛びかかります。その瞬間にのみ現れる隙を、アデリナは決して見逃さない。
「――ッ!」
つま先で地面をつかみます。
長指伸筋、前頸骨筋、下腿三頭筋をフル稼働させて、わたしは地下室の大地を蹴りました。ぐん、と身体が前に進み、意識的に背筋を締めます――が、痛みは訪れません。
代わりに、凄まじい金属音が背後で響いていました。
なんの音? わかりません。
けれど、わたしはもう後戻りなどできません。
右手に持ったキラキラ☆モーニングスターを、高速で迫った女性の頭部を目掛けて全力で振り下ろします。
「ああああぁッ!!」
一片の容赦もなく、欠片すら残さずに粉砕するために――ッ!
でも。
女性は左手を前にしてわたしの突進を受け止め、同時に右手を上げて振り下ろされるキラキラ☆モーニングスターを受け止めたのです。
そ、んな――っ!!
凄まじい衝撃波が地下室の壁を叩き、積み重なっていた古書をすべて吹き飛ばしました。けれども、それだけです。それだけでした。
赤い着物と長い銀髪を暴風に踊らせながら、女性はわずかに踵を後方へと滑らせただけで。
「あ……あ……」
言葉もありませんでした。自分の肉体から闘気が抜けていくのがわかりました。
空色の瞳をかっ開き、顔を近づけてきた女性が、わたしの首を片手で勢いよくつかみ上げます。
「あ、く――!」
わたしは全力で彼女の脇腹を蹴りました。ずどん、と肉のたわむ音が聞こえて、けれども、それでも彼女は表情一つ変えることなく。
「人間にしては、とても強い力」
平然とそんなことを呟きながら、わたしの首をつかんだ手を持ち上げました。
つま先すら地面から離されたわたしは、ようやくアデリナの言った言葉の意味を理解できました。
化け物――……。
背後の男性よりは与し易しと思えたこの女性もまた、化け物でした。
魔物ではありません。文字通りの化け物です。得体の知れない何かです。
「……アデ……リ……ナ……ッ」
息、詰まって。血が脳に行き届かなくなって。
それでもどうにか視線を背後に向けると、先ほどの金属音の正体が判明しました。
わたしがアデリナに逃げる隙を与えようとしたのと同じ。アデリナが、わたしの背中を――男に斬られるはずだった背中を、庇ってくれたのです。
覆い被さるように、とっさに身体を動かして。わたしを庇うために、自らの背中を差し出して。
けれど、けれども――!
彼女は斬られることなく、前につんのめっていたのです。斬撃を受けてなお、無事だったのです。
「ぐ……!」
理由は一目瞭然。
無駄だ、邪魔だ、ただの錘だと散々なじっていた、彼女の背中のグレートソード・ドラゴンスレイヤー。これがアデリナの背中を男の斬撃から守ったのです。
奇跡だと思いました。いいえ、たぶんこれも計算。そういう人だから。彼女は。
唇に、不敵な笑みを浮かべて。
崩れた体勢のまま、アデリナは伸ばした右腕を左手でつかみ、振り返り様に叫びます。
「炎槌!」
爆発する炎の魔法。炎色に輝く球体が、剣――ううん、細い刀を持った男性の前に出現します。
球体は男性の前で、見る間に膨張して――。
狭い地下室、逃げ場はありません。
けれど男性は迷うことなく、避けるどころかむしろ炎槌へと向けて踏み込みました。そうして、細身優雅な日本刀を振り下ろすのです。
「イァッ!」
一閃。たったの一閃。
炎色の球体――炎槌が真っ二つに割れて、男性の左右の壁にあたって爆発しました。
魔法を……斬った……?
「あっち……っ!」
そうして、尻餅をついて唖然とするアデリナの前で自らの長衣を叩き、踊っていた小さな火を消します。
「かっ! くわばらくわばら。最近の若え娘ってのぁ恐ろしいねェ」
抜き身の日本刀の峰を肩に置いて、平然と。
効かなかった……アデリナの魔法も、奇襲も……。
絶望的な光景が、二重三重に映って歪みます。
意識が……徐々に……遠のいて……。
交換日記[魔法神]
オワタですぞ。




