第47話 女剣士は気づかない
交換日記[筋肉神]
むぉ!? いかんな……。
その男は食い物に夢中になっているうちに、後頭部あたりを全力でぶん殴っておいたほうがいいぞ。
何度か本棚の角を曲がり、進み続けると、小さなカウンターが見えてきました。
司書席のようです。ですが、誰もいません。けれどもその向こう側には、微かに開いた扉があって。
「鍵が潰されている。なんてやつだ。怪力で強引に引き千切ったな」
アデリナが足もとに落ちていた錠前に視線をやって呟きました。
わたしは、ごくり、と喉を鳴らします。さすがに緊張します。
「地下への階段だ。魔素はあそこから発生している」
「わかりました」
わたしはカウンターに手をついて跳び越え、半開きの扉をそっと押します。
きぃ……と小さな音がして、ランプの明かりで揺れる石造りの階段が姿を現しました。その先は薄闇です。
アデリナの顔色が一層青白く変化しました。ですが、ここまで来ても、わたしにはまだ何も感じ取れません。それが逆に恐ろしいのです。
まるでただただ深淵へと続く穴を、為す術もなく落ちてゆくようで。
わたしは忍び足で階段を下ります。
二人分の呼吸の音だけが、耳に響いていました。
階段はそれほど長くはなく、わずか十五段しかありません。下りきると、正面にまた扉が見えてきました。その隙間からは、橙色の灯りが揺れています。
先ほどよりも強い古書の匂いがしていました。
「……開けます……」
「……気をつけろよ、蓮華……」
そっと押すと、やはり扉は素直に開いてくれました。
小さな部屋。それほど広くない部屋。
白い建材で建てられた、本棚しかない部屋。
そこには机も椅子もなく。
ただ、赤い着物を身につけた長い銀髪の女性の後ろ姿だけがありました。
心臓が、とくんと鳴りました。
そうして――。
そうして彼女は、ゆっくりと振り返ったのです。
長い銀髪を揺らして。赤い着物の女性が。
アデリナが息を呑むのがわかりました。きっとものすごい濃度の魔素を発生させているのでしょう。けれどもそれを感じ取れないわたしは、別の意味で息を呑みました。
あまりにも――。
あまりにも、その女性が美しかったからです。
アデリナが月のような静かな美しさを称える女性だとするなら、その方は雪原に咲く氷の花のようでした。
冷たく、鋭く、孤高。
けれどもわたしが驚いたのはその容姿だけではありません。それならばアデリナだって負けてはいないのだから。
わたしが目を見張ったのは、厳寒の地でも枯れることなく、力強い生命力で美しく咲き誇り続ける氷の花の命。
圧倒的なまでの生命力――!
まるで太陽のように輝き、照らし出す輝きでした。
そこに敵意や殺意など、微塵も感じません。
気づけばわたしは声をかけていました。危険であると知りながら。
「あ……の……」
「はい?」
透き通った綺麗な声でした。
一瞬向けられた空色の瞳が、すぐさま手の中の古書へと下ろされます。
女性の足もとには、禁書と思しき古書が何十冊と積み上げられていました。そしてこうしている間も、彼女は手にした古書をすごい勢いでめくり続けているのです。
速読などというスピードではありません。親指を滑らせるようにして、ページをめくり続けているのです。
言葉が続きません。
こんなとき、いつもならアデリナが代弁してくれるのですが、今はただ、銀髪の女性に対して唇を震わせているだけです。
彼女はアデリナが脅威と感じるほどの、大魔法使いなのでしょうか。
「あなたたち、アルタイル図書館の人?」
まごついているうちに、彼女から声をかけてきました。
それも、やはりページをめくりながらです。手にした本を足もとに積んだ古書に重ねて、本棚から新たな古書を手にして。
「違い……ます」
「そう。ならいいです。しばらくしたら勝手に消えますので立ち去りなさい」
この人。この人が本当にさっきこのエルドラ大神殿を揺らした張本人なの? 聖堂騎士を一〇〇人も倒した人だとは、到底思えません。腕だってほら、あんなに細くて。
「そ……ういうわけには……」
女性が古書を足もとに積んで、新たな古書に手を伸ばします。
「わっ、何これ。手触り気持ち悪い……」
一冊の古書を手に取って、まるで汚いものを持つかのように指先でつまんで。
彼女が片手を軽く振ると、小さな光の粒子が散って、その手の中に白いハンカチが現れました。
魔法! 魔法使った!
けれどそれだけで、彼女はハンカチで一冊の古書の表紙をごしごしと擦り始めます。
「ん……。文字が消えかかっていて読めないや……。題名くらい書き直せばいいのに……なんて書いてあるんだろ……? ……コト……写本……?」
写本!
言葉を出しかけたわたしの口を、アデリナの手が塞ぎました。
「人の皮膚であつらえられた表紙の写本なら、読むべきものじゃない」
ひ、人の皮膚っ!?
女性が再び視線をわたしたちへと向けてきます。空色の美しい瞳を。
「そっちのあなたは、この写本がどういったものかを知っているのですか?」
「どうもこうもない。幻の都市とアヤシげな薬物について書かれたものだ。それだけならばまだしも、旧き神々の真名が刻まれた召喚の書でもある。内容の真偽は知らんが、試す気ならやめておけ」
あ……。
「特に、あんたほどの魔素を持つ魔法使いはな。黑竜のような生きた例もある。本当に旧神が降りてこないとは限らん。世界の脅威は少ないほどいい」
いつもの頼りになるアデリナです。どうやら女性に敵意はないと判断したらしく、顔色を少し取り戻していました。
よかった。これで百人力です。
「黑竜……今は関係ありませんね。それと、わたしは魔法使いではありません」
女性は少し迷った上で、人の皮膚でできた写本を足もとの古書に積み上げました。
そうして次の古書に手を伸ばし、本棚から引き出して眉をひそめます。
表紙が黒く塗りつぶされた本です。
黒い本なのではなく、不気味に塗りつぶされているのです。タイトルや作者の上を、誰かが黒墨で塗りつぶしたのです。乱暴に。デタラメに。
なんらかの目的があって。
それはとても不気味な感じがしました。
女性がしばらくページをめくり、唇に手をあてて静かに呟きます。
「これだ……。石盤遺跡の写本」
「――っ!?」
「え……」
考えるよりも先に、わたしたちは距離を取って身構えていました。
だってそうでしょう? 石盤遺跡の写本を目的としている人は、わたしを除けばもう魔王の側にしかいないのだから!
「おまえ、魔王の手の者か――っ!」
アデリナが人差し指と中指を揃えて、銀髪の女性へと向けたと同時でした。
わたしは――。
「~~ッ!?」
絶望的に全身が粟立つのを感じていました。それはさながら、ざわざわと肌を這い回る虫ように、わたしの筋肉を萎縮させていきます。
「こたえろッ! その写本をどうするつもりだッ!」
気づかぬままに叫ぶアデリナの隣に立ち、わたしは――わたしは涙を滲ませていました。
ああ、自分は今日ここで殺されるのだ、と、理解してしまったから。
違う。違うの、アデリナ。
本当に危険なのは、目の前の女性じゃない。その人じゃない。
魔素しか読めないあなたにはわからない。
「……アデ……リ…………」
怖くて、言葉が出ません。
女性ではないのです。背後から。そう、わたしたちの背後から。
鋭く、息すらできないほどの殺気と狂気を放ち、それはすでに至近距離から、わたしたちの背中を見下ろしていました。
交換日記[魔法神]
むむ、いけませんな。
その女性には生半可な魔法ではほぼ通用しませんぞ。




