第19話 黒の襲来
交換日記[筋肉神]
うぬ!? こやつは……いきなり現れおったか。
これは少々まずそうだ。
心臓が冷たい手でつかまれているかのように、歪んだ鼓動を打っているのがわかりました。
息、苦しい――。
男の子が一歩、踏み出しました。足首まであるぼろ布の貫頭衣が揺れます。
何か。足もとから何か黒く汚れた煙のようなものがぶわりと周囲に広がりました。
全身が薄ら寒くなり、鳥肌が止まりません。アデリナが顔色を真っ青にして、喉を大きく動かします。
「……蓮華……」
おそらく。おそらくですが、鎧竜を喰らったのは……。
汗、額から目に入って。けれども瞬きをすることさえゆるされず。
全身、萎縮して。絶望的なくらい勝てないことがわかります。
「蓮華!」
強く名前を呼ばれ、わたしは一瞬だけ意識をアデリナへと向けました。視線は動かせません。怖くって。
アデリナが早口で呟きます。
「返事はいらない。息を大きく吸って止めろ。あいつが出しているのは瘴気だ。吸えばどんな症状が出るかわからん」
わたしは息を止めてうなずきます。
アデリナは平気なの?
「あたしは大丈夫だ。瘴気は魔力の一種だから体内で駆逐できる」
男の子が一歩、また踏み出しました。その足もとから、ぶわりと瘴気が広がります。
気圧されるわたしたちの背中は、すでに絶壁に貼り付いています。黒の瘴気が、わたしたちの足もとから腹部へと這い上がってきました。
「それと……」
男の子がわたしたちへと向けて――ううん、ひび割れた鎧竜の卵へと向けて手を伸ばしました。けれども、まだ届かない。届かない距離で、もう一度わたしたちに問うように。
それを寄こせ、と。
「すまん、蓮華。ここであたしと死んでくれ。あんなものをシーレファイスに連れ帰るわけにはいかない」
震え声で吐き出されたアデリナの正義の言葉が、恐怖で固まっていたわたしに勇気をくれました。
そう。わたしは魔法少女です。
魔法が使えなくても、できそこないのぽんこつでも、魔法少女の一人なんです。アデリナの中の剣士がそうであるように、誰かを護るために命を投げ出して戦うなんて、そんなのあたりまえのことなんです。
アデリナに剣士のプライドがあるように、わたしには魔法少女としてのプライドがあります!
止めていた息を吐き出し、胸まで這い上がってきた瘴気を吸わぬよう、わたしは顎を上げて呼吸を整えました。
そうして力強く叫びます。
「アデリナ、卵の隙間を防いで! 瘴気が入らないように! この子がまだ出てこないように!」
「……ああ」
アデリナが足もとの砂をひとつかみして、欠けた卵の殻へとかぶせました。砂は見る間にひびへと入り込み、その隙間を埋めていきます。
土属性魔法です。
もはや魔法がどうだとか剣技がどうだとか、アデリナにも屁理屈をこねている余裕はないのでしょう。
けれど、これでこの子は大丈夫。
わたしは卵をそっと瘴気渦巻く足もとへと置いて、立ち上がります。
「帰ろう、アデリナ。その子を連れて、シーレファイスに。――変身!」
洋服が光の粒子となって弾け、次の瞬間にはわたしの姿は、魔法少女のそれへと変わっていました。
左手に顕現した黒金の仮面を装着し、右手に顕現したキラキラ☆モーニングスターをくるくると勢いよく取り回します。
ゴォと風が巻き起こり、黒の瘴気がぱっと散りました。もっとも、そんなのはほんの一瞬の出来事で、すぐにでも瘴気はまたわたしたちを侵蝕してくるのでしょうけれど。
「……そうだな。そうしよう。蓮華、今だけだ。魔法も剣もない。――四の五の言わず全力でやるぞ」
「はい!」
「返事をするな。息は止めてろ」
喉もとまで上がってきた瘴気から顔を出し、わたしは深く息を吸い込みます。全力で動いて、一分がいいところでしょうか。
男の子はわたしの姿が変化したことなど意にも介していません。それどころか右手を前に出したまま、ゆっくり、ゆっくりと歩み寄ってきています。
先手必勝!
~~ッ!
みしみしと音を立て、上腕筋を一気に膨れあがらせます。
歯を、食いしばって――!
わたしは大地を蹴って震わせ、キラキラ☆モーニングスターの鋭角に尖った先っちょを男の子の頭部を目掛け、腐った黒い風を巻き込みながら全力で振り抜きました。
一片の容赦もなく。
「~~ッ」
ゴッという骨を打つ手応え。
空は瘴気を巻き上げて激流と化し、大地は割れてその表層を捲れ上がらせ吹き飛びます。
けれども――。
息を呑みました。額でそれを受けた男の子が、わずかに後方へと滑っただけだったから。
嘘! 跡形もなく粉砕するつもりで殴ったのに!
つぅと、黒い血液が少年の頬を伝いました。それを舐めとった彼は、初めて。
真っ黒な眼球をぎょろりと動かし、卵からわたしへと視線を向けました。それだけで、まるで蛇に睨まれた蛙ようにわたしの身体は固まります。
足、震えて。彼の汚れた手が、眼前にまで伸びてきて。
ぞわり、と背筋に怖気が走り――。
「下がれ蓮華!」
ほとんど無意識。反射的に飛び退いた瞬間、男の子の大きくはない身体へと向けて、地響きを立てながらいくつもの大地の剣がせり上がります。
「……ッ」
けれども、岩石できた頑強な刃は男の子の皮膚をわずかに傷つけるだけで、すべて粉砕されてしまいます。何もしていないのに、彼はただ、ゆっくりと前に歩いているだけなのに。
「クソ! なんなんだ、こいつはッ!」
わたしもアデリナも、もはやなりふり構っていられる状況ではありません。いつものように剣を抜こうとさえもせず、アデリナはしなやかな両腕を激しく振ります。
彼女が魔法を使う際にモーションを使用するのは、今回が初めて。この得体の知れない何かは、それほどの相手なのだと、今さらながらに。
大地の剣が巨大なドーム状の壁へと形を変え、男の子を圧し潰すべく包み込みます。けれど次の瞬間にはもう粉砕され、砂や岩に戻っていて。
彼の歩みは止まりません。
殴りもしない、蹴りもしない、ただ歩いているだけなのに。
「止まれッ、この化け物がッ!」
アデリナが左手で自らの右腕をつかみ、二本の指を男の子へと向けました。
「炎槌!」
直後、少年の眼前に現れた火の玉が爆発し、爆炎となって天をも焦がします。男の子の皮膚が焦げて灼け爛れ、黒煙を放ちます。
なのに、三秒もせずに修復されて。
その間も、彼は歩みを止めることはありません。
わたしは跳躍して黒を基調とした白のレースがあしらわれたスカートを跳ね上げ、彼の首を目掛けて回し蹴りを繰り出しました。
「……っ!!」
凄まじい衝撃波が発生しました。
わたしの蹴り足は間違いなく彼の首を捉え、骨の砕く音を響かせたはずなのです。
なのに、先ほどとは違い、吹き飛ばすことさえできません。それどころか、折れた首を自らの手で押し戻している間も、彼の足が止まることはありません。
そんな――っ!
わたしは着地と同時に身をひねり、両手でつかみ直したキラキラ☆モーニングスターをぼろ布に覆われた脇腹へと、一切の躊躇なく全力で叩き込みます。
お願い、止まって――っ!!
両腕の上腕二頭筋が膨れあがり、少年の脇腹をわずかに抉ったキラキラ☆モーニングスターの柄がぎしりと軋みました。
もはや筋肉がどうとか言っていられる状況ではありません。
けれど、どのような生物であれ真っ二つに引き裂き粉砕する自信があった一撃でさえも、ほとんど無意味で。
抉れた脇腹に黒の瘴気が収束し、あっという間に欠損部が修復されたのです。その間も、やはり彼の足は止まることなく、卵へと向けて動き続けて。
「~~っ!!」
わたしは何度も何度も彼を殴りつけました。
けれど、まるで大きな山を相手に拳を振るっているかのような感覚に陥り、攻撃を繰り出すほどに恐怖心は膨れあがります。
いくら表層の土を破壊したところで、人間が山を動かせるわけはないのだから。
こんなの……どうすれば……。息も、もう……。
わたしは黒の瘴気を吸い込まぬよう、掌で口もとを覆います。
一分なんて、甘く見積もり過ぎました。この緊張感の中で全力を出せば、三十秒だって難しかった。
「くそくそくそ! 体内から凍っちまえ! 氷の血流!」
アデリナが掌を突き出し、両手を握り込みます。
空気中の水分を集約し、敵の体内にある体液ですら氷柱と化して内部から肉体を貫く必殺の魔法は、けれどもほんの一瞬たりともその歩みを止めることはできず――……。
全身を内部から氷柱に突き破られながらも、彼の足取りに変化はありませんでした。たとえそれが心臓のある左胸からでも、頭部からであってもです。
それどころか、いくつもの黒い氷柱が己が体内から皮膚を破って飛び出ようとも、傷口は数秒もあれば消滅していきます。
こんなのもう、生物にできることじゃない……。
「……だ、だめだ!」
アデリナが卵を庇うように両手を広げました。わたしはそのアデリナを庇うために、男の子と彼女の間に走り込んで。
やがて一歩の距離まで詰めた彼が、ゆっくりと首を傾げながらわたしとアデリナに顔を近づけてきました。
黒一色の不気味な瞳で、卵ではなく腰砕けとなったわたしとアデリナを上から覗き込んで。
「……ア……ァ……、……アァ……、……ワ、ワワ、ワリニ……、……ア……ワナイ……」
息苦しささえ忘れるほどの恐怖に、わたしたちは震えます。
「……キシ……シシシ……、……マオウ……ニ……ウバワレタ……、……マ、マソ……、……タリナイ……。……シ、シバ、シバラク……、……マッテイロ……」
嗤ったのです。長く真っ黒な舌で、血色の悪い唇を舐めとって。
わたしは――わたしたちは、吐息のような嗤い声に戦慄しました。
そうして、その直後。
「――っ!?」
黒の瘴気を背中から爆発させたかと思った瞬間、彼は漆黒の翼のようなものを生やして空へと舞い上がり、そのまま彼方へと飛び去ってしまいました。
その段に至ってわたしたちは腰を抜かし、呆然と、震えながら彼の飛び去った空を見上げていました。
交換日記[魔法神]
これはいけませんなぁ。
我らを否定したままでは、何度遭遇しても娘らに勝ち目はなさそうですぞ。




