第111話 ハゲ、いい加減まじめにやれ
交換日記[魔法神]
おつかれさま。少し眠るといいですぞ。
上空、雲の隙間――。
わたしは黑竜の右の翼を両手でつかみ、右足を背後へと大きく振り上げます。
同時に左の翼に取り付いた甚五郎さんが、拳を開いた右手を引いて、ごきりと五本の指を鳴らしました。
「はああぁぁぁっ!」
「墜ちろ黑竜っ!」
蝙蝠のような翼。毒竜や古竜種よりも倍ほども大きな黑竜の翼を、わたしの右足と甚五郎さんの右手が貫いて。
それでも黑竜は飛翔し続けます。ざわざわと溢れ出した瘴気を集中し、翼に空いた二カ所の穴を埋めようとして。
「往生際が悪いぞ!」
甚五郎さんは破った翼に手を入れて、力任せに穴を広げます。わたしも少し遅れて、何度も何度も同じ箇所を蹴って。
やがて、唐突に。
がくん、と高度が下がりました。
――あああああぁぁぁぁ……うううううぅぅぅぅぅぅ……。
低く、低い、地獄の亡者のようなうなり声が脳内に響きます。
「~~っ」
息を呑みました。
ここが超高度の空であることも忘れ、両手を放して耳を塞ぎたい衝動に駆られます。
聞くだけで全身を虫が這うような気持ち悪さが足に触れた気がして、わたしは首をすくめてたじろいでしまいました。
「ひ……っ」
ううん、実際に瘴気が生物のように蠢きながら、わたしの足先から上ってきています。
多脚の虫の形を取って、数千、数万匹が、うぞうぞと無数の足を動かして。鋭い顎に生えた二本の牙をカチカチ鳴らしながら。
「――やっ!?」
『落ち着いて。つまらない精神攻撃。実害はない』
ぱちん、と悪寒が弾けて消えました。同時に、虫に見えていた瘴気がふつうの黒い煙のようなものへと戻っていました。
心臓がばくばくと跳ね回っています。
箒にのって併走しているセイラムの魔女、キザイアさんが念話を飛ばしてくれなかったら、わたしは虫を払うために手を放していたと思います。
「あれ、念話……」
『……』
そっか。念話は有線だけかと思ったけれど、どうやらそれはわたしからキザイアさんに声を届けるときだけに必須な条件だったようです。
あ……! 甚五郎さんも、ただの幻覚だって知らないはず……!
わたしはあわてて、左の翼に取り付いた甚五郎さんへと視線を向けます。
ですが。
「うーあーうーあーと、さっきからごちゃごちゃじゃかあしいわぁぁーーーーーーーーッ!! さっさと墜ちんかぁぁーーーーーーーーーーッ!!」
めっちゃぴんぴんしてました。しかも左の翼の亀裂は、すでに中央近くにまで達しています。
わたしは呆気に取られます。
……ハゲは人間じゃないのかしら……。
『……筋肉・オブ・ハート』
有線念話が使えないので、わたしは声を張り上げます。
「なんですか、それ!」
魔法の一種でしょうか。
『思いついた言葉を言っただけ。ただのど根性、もしくは不感症か無神経。総じて脳筋。そういうタイプに精神魔法はまず効かない』
「一番最後の言葉が合ってる気がします!」
甚五郎さんが脳筋で、わたしは脳筋ではない証拠にもなります。
『たぶん、ハゲと罵ったほうがまだ効果的』
「そうかも――」
――アアアアアァァァァァーーーーーーーーーーーーーーー……。
翼を破り、毟り取り続けるハゲの猛攻に、ついに黑竜が大きく左に傾きました。
墜ちろ、墜ちろ、墜ちろ墜ちろ墜ちろ墜ちろぉぉぉぉっ!!
わたしも甚五郎さんも、夢中になって黑竜の翼に攻撃を加え続けます。
黑竜は背面を大地に向けたりしてわたしたちをどうにか振り落とそうと暴れていますが、今さらそんなことで落とされてあげるほど優しくはありません。
翼をつかむ手にさらに力を入れて、足で蹴って穴を空け、踏み込んで破る。
「この、この――っ!」
「ぬうぅぉりゃああ!」
甚五郎さんに至っては、黑竜の骨を手羽先の軟骨を食べるときのように、曲がらない方向に折り曲げようとしています。
その表情たるや、もはや悪鬼。
笑顔さえも禍々しく感じられます。
傾きながらも飛翔する黑竜が、ついにバランスを崩して錐揉み状態となって落下し始めました。
やった、そう思った瞬間、回転の凄まじい慣性に耐えきれず、わたしの手は滑ってしまいました。
「きゃあ!」
空に投げ出されたわたしを追って甚五郎さんが両腕を伸ばし、黑竜の翼を蹴りました。為す術もなく回転するわたしを、気色悪――た、逞しい腕がガシっと受け止めます。そうして肥大しまくった大胸筋に、大事に抱えられて。
うわー……お姫様抱っことかされちゃった……。
大胸筋が近すぎてきついです。うわっ、無意味にぴくぴく動いてるし。夢で出てくるあの神を思い起こさせられます。これはひどい精神攻撃です。
……うう……ぅ……ヴォェ……!
「フ、目を回したか。だが、吐くのは勘弁してくれよ」
ニカっと笑います。空で。
そう! ここ、空なんですよ! いったいどうするおつもりですかっ! モリモリマッチョメンと地獄の道行きなんて真っ平ご免ですから!
「ゼロムゼロムゥゥッ!!」
甚五郎さんが重く低い声で叫んだ瞬間、空の黄金竜がすぅっとわたしたちの足もとへと滑り込んできて、甚五郎さんはくたびれた革靴でスタンとその背中に着地しました。
わたしは手足をばたつかせて、お姫様抱っこから逃れます。
「黑竜は……!?」
「あそこだ。墜ちるぞ」
視線の先、錐揉み状態から立て直せなかった黑竜が、砂漠の大地に突っ込みます。
黄色い砂を粉塵のように巻き上げ、大地を激しく上下させ、轟音を撒き散らしながら。その上空には銀竜シルバースノウリリィが、そしてその背には魔王がいます。
魔王は銀竜に何かを告げると、まだまだ高度の空であるにもかかわらず、躊躇いもなくその背中を蹴って飛び降りました。
長衣を激しくはためかせ、一振りの刀だけを携えて。
う、嘘! こんな高さから!?
けれども、魔王は砂の大地に音もなく静かに降りたって、平然とした顔で膝を伸ばすのです。
「よし、我々もいくぞ」
「え……?」
言うや否や甚五郎さんは、仔猫のような扱いでわたしの襟首をつかみ上げます。
「ちょっと待って? まだすっごく高いですよ?」
六十メートルやそこらではない気がします。
超高層ビルくらい。ちょうどわたしがレアルガルドに転移したときに飛び降りた、東京のヘリポートのあるビルのような、そんな高さなのです。
「問題ない」
「いや、大ありですって! 地表近くまで降下してもらってからでもいいじゃないですかっ! ねえちょっと、聞いてますっ!?」
「――ゼロムゼロム。シルバースノウリリィとともに空の哨戒を頼む。もしも黑竜が翼を復活させ、空に逃走するようであればもう一度墜とせ。手に負えん場合は私のもとへ戻って来い。いいな?」
ゼロムゼロムからの返事はありません。念話をしているようにも見えません。がん無視を決め込んでるようにしか見えません。
あんまり仲良くないのかしら。てか、甚五郎さんもゼロムゼロムも、お互いに他人の話なんてあまり聞かなさそうな性格ですもんね。
「では、行くぞ」
「や、だからこれ、無理な高さで……」
「フ、魔王にできたことが私にできんはずがあるまい」
「あなた魔王にはある髪の――」
――髪の毛すらないじゃないですかぁぁぁーーーーーーーーーーっ!!
その言葉が喉もとまで出かかった瞬間。
彼は「と~~ぅ」とかいう、昨今じゃ変身ヒーローでも言わないようなかけ声とともに、黄金竜の背から飛び降ります。
わずかの浮遊感と、直後に重力に引かれて為す術もなくわたしたちは落下していきます。
ひいいいぃぃぃぃぃぃ~~~~~~~~~~~~~~~っ! 死ぬ死ぬ死ぬ死んじゃうぅぅぅ~~~~!
轟々と鳴り響く風切り音。叩きつける空気の壁。涙さえ高所に置き去りにして。
あああああぁぁぁぁもおおおおおおおう!
数秒後、凄まじい音と震動、そして爆発する砂漠の砂を大量に巻き上げながら、甚五郎さんがわたしを持ったまま、砂漠の大地に着地しました。
片膝を折り、うなだれた状態で。
生き……てる……? ……こ……黑竜と戦う前に……殺されたかと思いました……。
どばっ、とわたしの全身から汗だか涙だか汁だかが大量に溢れ出たのは、その直後のことです。
甚五郎さんの腕から大あわてで逃れ、わたしはふらつく足取りで砂の大地に立ちます。
「甚五郎さん?」
「…………」
甚五郎さんが片膝をついてうなだれるという、着地時のポーズから動きません。
「あの……?」
「蓮華くん!」
「は、はいっ」
甚五郎さんが顔を上げます。情けない表情で。
「……こ、腰を……やってしまった……」
ばぁぁぁかああああぁぁぁぁぁぁ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ!!
何やってるんですか、ほんとにこの人! 腹立つわぁぁぁ! ほんっと腹立つ! いったいどういう頭の構造してるの! 表面だけじゃなくて中身まで!
「す、すまんが、ちょっと伸ばしてくれんか……」
「いいですよっ」
わたしは笑顔でうなずくと彼の背後に回って、彼の両腕を両手でつかみ、丸まったままの背中におもいっきり、わりと容赦なく、積年の恨みを込め、蹴りを入れました。
いっぺん死ねコノォ!
どごんっ、と凄まじい音がして、彼がエビぞりとなって浮き上がります。
もちろんわたしが両腕を背中で拘束しているので、吹っ飛んで力を逃すこともできません。
「……か……は……っ、……うぐぅ……」
がくり、と彼の全身から力が抜けました。
あ、あれ、やり過ぎたかしら……。ほんとに死んじゃった!?
「じ、じ、甚五郎さ――」
と思った直後、彼は力強く立ち上がります。
「ひぇ!?」
「ぬおおおっ! 絶好調だ! 礼を言うぞ!」
「……ええ、わたしの渾身の蹴りなのにぃ……」
玩具みたいな身体してますね、この人。いずれにせよ、失敗しました。今こそ筋肉神の加護を付与しておくべきでした。
「さて、と」
「はいっ」
わたしたちは同じ方向を見据え、呼吸を整えます。
同じように右の拳を握りしめ、左の掌に叩きつけて。
「加勢をする」
「はいっ!」
その視線の先では、男性体となった黑竜と一振りの刀を携えた魔王が、すでに人智を超越した神域で、凄まじい死闘を繰り広げていたのでした。
交換日記[アデリナ・リオカルト]
……ぷ、ぷぶ、何やら蓮華のやつ、とんでもないことになってるな。
遠見の魔法がおもしろすぎて眠れんぞ。




