第102話 ハゲ、その歩みを止めず
交換日記[筋肉神]
ぎゃっ!? あ、あのハゲ、また出てきおったぞ!?
しばらくの間、言葉はありませんでした。
汗を飛ばしながら刀を振るう魔王や、そのことごとくを髪――あ、いえ、紙一重で躱して防ぎ、彼をその腕で捕らえようとする甚五郎さんはもちろんのこと。
息を呑んで見守るわたしやアデリナ、それにライラさんやファムウさんにも、言葉を発することはできませんでした。
でたらめ。まるで、でたらめ。少年漫画の戦いみたいに。
魔王の剣閃のおよそ半分は、わたしには追えません。瞬きを禁じ、凝視し、限界まで集中力を高めても、その軌跡を視るだけで精一杯。
ライラさんはわかりませんが、たぶんファムウさんにはその半分以上が、そしてアデリナには、そのほとんどが見えていないでしょう。
わたしだって見えるだけで、見切れるわけではありません。
頭の中でどれだけ魔王との戦いをシミュレートしても、たった三度の剣閃に倒されるのです。もう動かなくなってしまったこの腕を、刀で貫かれたときのように。
時折巻き起こされる拳からの衝撃波や、刀が生み出す斬撃の余波が、わたしたちの立つ地面や、周囲の環状列石をも穿ちます。
「――ッ」
拳大の石が飛んでいて、わたしは右足の裏でそれを蹴り落としました。
「もう少し下がって、アデリナ。わたしの後ろへ」
「あ、ああ……。……今のうちに新陳代謝を促進しておまえの傷を塞ぐ」
「お願いします」
きんっ、と時々金属音が響くのは、魔王が納刀と抜刀を激しく繰り返しているから。
わたしは震えます。
すごい。魔王はもちろんのことですが、あのハゲ。
「ぬぅぅぅおりゃあッ!」
「イアッ!」
熱波を伴う大きな拳と、怜悧なる鋭い刃が同時に空を斬ります。
空間が歪み、二人を中心として大地が爆ぜました。いくつもの石礫が飛んで、わたしはアデリナへと向かうそのすべてを右足で蹴り止めて。
爆散する地面の中へと、甚五郎さんは恐れることなく踏み込みます。
震脚で、大地を激しく揺さぶりながら。
「雄雄ォォ――っ!」
「ちぃ、しつっけぇなッ!」
あの肉体で。わたしなんかよりもずっと大きく重い肉体で、甚五郎さんは魔王の斬撃のほとんどを躱し、逸らし、防ぐのです。
ううん。彼は魔王の速さにはついていけていません。正直に言えば、まるっきり。
現にもう、たった数十秒の戦いだけで、その大きな身体は小さな切り傷だらけとなっています。ですが、致命傷だけは確実に防ぐのです。
まるで野生の獣のように。
躱せない剣閃だけを瞬時に見極め、掌で側方から刃を押して逸らせ、逸らすことすら困難なものは最小の傷として肉体で受け止める。
ピシッと新たに赤い傷が脇腹に走ります。
けれども眉一つ動かすことなく、魔王をどうにかつかもうとして、腕を伸ばすの。
空をつかむばかりだけれど、それでも伸ばすの。腕を。あの魔王を恐れることなく。
「むう!」
「の野郎……ッ」
いったいどれほどの鍛錬を積めば、あんなふうになれるの? どれだけの修羅場をくぐれば、そんなふうになるの?
日本で見たあなたは、ただのハゲ散らかった酔っ払いのサラリーマンだったじゃないですか。
きんっ。
抜刀術を後方に一歩ずれることで躱し、続く袈裟懸けの斬撃を掌で去なし、魔王へと伸ばしかけた腕への斬撃を体捌きで躱し、横薙ぎをかいくぐるだけではなく、前へと進んで圧力をかけます。
有利なはずの魔王が、渋い顔をして一歩後退しました。
けれどもそれを逃がすまいとして、魔王の間合いを平気で踏み越えて甚五郎さんは進むのです。腕や足だけじゃなくって、顔や胸にも新しい傷をこしらえながら。
進むの。それでも。何度も何度も、愚直なくらいに魔王へとその逞しい腕を伸ばして。
魔王を一度でもつかむことができれば甚五郎さんは勝つでしょう。けれどもその間にたったの一度でも深く斬られれば、死ぬのです。
ひりつくような緊張感に、無意識に喉が鳴りました。
刀の間合いから、腕の間合いにまで侵入された魔王は、さらに後退します。
「糞! なんなんだ、てめえは!」
血塗れハゲの分際で、甚五郎さんがハリウッド俳優のようにパチンと気障なウィンクをしました。
「フ、ただのレスラーだ。正義のな」
嘘こけ! あなたもうその範疇にいないじゃないですか! 五人そろった魔法少女よりも遙かに強いですよ!
そりゃあ世界転移の際にグリム・リーパーだってレアルガルドまで運ばず、そこらへんの島国に投げ捨てますよ! だってこの人もう怪物ですもん!
相手がこの魔王でさえなければ、たぶんこの人、世界中の誰にも負けないです。たぶんもう、グリム・リーパーにだって。
「べびい……? ハッ! なんでえ、そりゃよッ」
わたしが肩口を貫かれた三段突きも、甚五郎さんは躱すどころか最後の突きを掌で挟み込もうと試みます。
魔王の刀を引く動作がほんの一瞬でも遅れていたら、おそらくもう勝負は決まっていたと思います。
それほどまでに僅差――!
と、言いますかですね……。
白刃取りの際に、「お手々の皺と皺を合わせて幸――」とかぶつくさ言っているのが微かに聞こえたんですけど、黙ったままバチンしたほうが確実だったんじゃないでしょうかね。
実際「お手」まできた時点ですでに、三段目の白刃取りに失敗していましたし。
……まじめにやってるんですよね、あの人?
でも、魔王はすごくやりづらそうにしています。顔をしかめて、汗を飛ばして。一方的に傷を増やしているのは、甚五郎さんのほうなのに。
それでも進むの。甚五郎さんは、歩みを一瞬たりとも止めずに。変わらず腕を伸ばして。
「魔王よ。おまえの中には何がある?」
「ああ?」
魔王が苛立たしげに問い返しました。
「なんの話だ!」
「おまえはなぜ、人を斬る?」
「悪をこの世から殲滅するためだ。てめえはさっき、おれの旅は今日終わると言ったな。……終わらねえよ。この世の悪がただ一人になるまで、おれは斬り続ける」
きんっ。
煌めく剣閃を、煌めく頭皮が躱します。
一人……? 世界中の悪人を殺して、最後に残った一人って……。
ああ……そうなんだ……。たぶんその人は……自ら悪を名乗った魔王自身……。
「そうやって生きると誓った。ともに戦うこと叶わず、ともに死すべきことも叶わなかった、時代の波に呑まれて逝っちまったかつての仲間にな。だが――」
魔王がほんの一瞬だけ、わたしたちのほうへと視線を向けました。
「――善人を斬るのは、約束通り今日で最後だ」
魔王の斬撃をかいくぐると同時に、甚五郎さんが魔王の足を払います。
けれども魔王はそれを跳躍で躱して刀を逆手に持ち替えると、甚五郎さんの右目を目掛けて突き下ろしました。
「ぐぬっ!」
甚五郎さんはあえてさらに魔王へと踏み込むことでそれを躱すと、背中を前方の魔王へと向けて鉄山靠で強引に魔王の身体をはね除けます。
どん! と、肉を打つ凄まじい音が鳴り響き、甚五郎さんの全身の傷から血液が飛散します。
魔王は両足で激しく地面を掻きながら後退して。
「ぐぅ……!」
苦悶の表情を浮かべました。
甚五郎さんは頬の傷から流れ出る血液を指先で払って、魔王のほうへと歩を進めます。
恐れることなく。躊躇うことなく。今にも倒れてしまいそうな量の血を流しながら。レスラーのかまえで両腕を伸ばして。
「そうして最後には腹を切るか。くだらん。旅の終わりが死では誰も報われん」
「そいつがおれにとっての矜持でね。上等な死に様だ」
「……そうか。寂しいなあ、おまえの心は」
魔王の頬がぴくりと引き攣りました。
直後、左足を前に出し、右の肩越しに切っ先を向けてかまえます。
「軽々しくおれを哀れむな!」
魔王が地を蹴ります。
一本突き。最速で最短距離を切っ先が走り、かろうじて首を倒した甚五郎さんの頬を深く貫きます。
「~~ッ」
「てめえに何がわかる……ッ」
鮮血が飛び散るよりも早く、魔王は突いた刃を引くことなく、丸太のような太さの頸を目掛けて横薙ぎに払いました。
わたしは惨劇を前に、叫びます。
「甚五ろ――」
「小賢しいわッ!!」
雄々しく野太い声。
頸動脈を狙った剣閃を、刃を深くめり込ませながらも左腕で乱暴に跳ね上げて。
「な――ッ!?」
瞬間、魔王の体勢、崩れて――!
途端に甚五郎さんが、血走った目を剥きます。
「羽毛田式殺人術のひとつ、昇天張り手!」
このハゲ、何言い出したッ!?
魔王の胸部へ轟と迫る、ただの掌底。
「ぐっ!?」
ずどん、と衝撃波が魔王の背中から抜けた直後、わたしの目には映ります。甚五郎さんの繰り出したただの掌底突きが、隠していた凶悪な牙を剥くのを。
甚五郎さんは魔王の胸に手をあてたまま腕をねじるように回転させながら関節を入れ、ゼロ距離からさらに魔王の胸を穿つのです。
原理的にはわたしの崩拳と同じ。一度目の当てで肉を掻き分け、二度目で衝撃を通す。
それも、甚五郎さんは、氣ではなく筋肉と関節の動きだけでやっているのです。やっぱりとんでもない達人なのです、このハゲは。
でも、えくすたしーすぱんきんぐって……。技名が最低……。えっち……。
けれど、なのに――。
「っそが!」
魔王は瞬間的に地を蹴って甚五郎さんの腕の回転に合わせて空中で側転し、押し出される勢いに逆らうことなく後方へと吹っ飛ばされます。
ブーツで大地を引っ掻いて、勢いを殺して。
殺された。必殺である二段階目の衝撃を去なされたのです。魔王に与えられたダメージは、最初の、なんの変哲もないただの掌打のみ。
「ほう?」
感嘆の声を上げたのは、甚五郎さんでした。
魔王が長衣の乱れた胸もとをぱたぱたと掌で払いながら、顔をしかめます。
「かっ、この莫迦力め。油断も隙もねえ」
「私の殺人術に、そのような破り方があったとは。これは驚いた」
すでに血だるま状態の甚五郎さんは、それでもなんら態度を変えることなく、ずんずんと魔王へと近づいてゆきます。確実に不利な状況であるにもかかわらず、歩みを止めないのです。
対する魔王はほぼ無傷。途中経過だけを見れば、一方的に甚五郎さんがやられています。
なのに、魔王はじりじりと後退して。
でも、このままではいずれ先に膝をつくのは甚五郎さんのほうでしょう。あの傷では、長引けば長引くほど不利になっていくのですから。
彼が一歩を踏みしめるたび、草原は彼の血を吸っています。少しずつ、でも確実に。
「聞け、魔王よ。私にもかつて、多くの大切な友がいた。生まれいずる頃よりともに過ごしてきた、長き友たちだ。だが、残酷なる世界は彼らの生存をゆるしはしなかった。朝を迎えるたびに減ってゆく仲間たちを、私はただ見送ることしかできなかった」
魔王が目を見開きます。
「……なんでえ……おまえさんもかい……」
そのときになって初めて立ち止まった甚五郎さんが、ゆっくりと首を左右に振ります。
「いいや。私の場合はもっとひどかった。おまえとは違い、私は彼らとともに戦うことができていたのにもかかわらずだからな。……皆、逝ってしまった」
甚五郎さんが悔しげに拳を握りしめ、吐き捨てます。
「私は守れなかったッ! 誰もッ! あんなにもそばにいたのにッ!!」
環状列石の隙間を静かな風が流れ、甚五郎さんに残った唯一の毛を優しく揺らします。
うん、まあ……えっと……。……十中八九、枕に奪われた毛の話をしてますよね、あれ……。
……魔王がそのことを知ったら、激怒するだろうなぁ……。
アデリナに視線を向けると、すでに白目を剥いていました。
数秒遅れで、わたしも白目を剥くことにしました。
交換日記[七宝蓮華]
まじめにやってください。
交換日記[アデリナ・リオカルト]
まじめにやれ。
交換日記[魔法神]
これだから脳筋族は……。




