第1話 くたばれ筋肉神っ
月のない深夜――。
パステルカラーの魔法少女たちと、グリム・リーパーと呼ばれる大鎌を持つ黒の怪物との死闘によって、ネオンさえ失われた大都会。
窓を失いひび割れた超高層ビルのヘリポートから、わたしは闇に吸い込まれるように落ちてゆく。
これは死んじゃうな……。
この状況から逃れる方法は思いつきそうにありません。残念ながら、ため息しか出ない。
あぁ、こんなことなら、さっき我慢したモンブランタルトを弟の分まで食べておけば良かった。晩ご飯の三杯目のおかわりもしておけば良かったし、カロリーを気にしてラーメンのスープを残すような生き方をしなければよかった。
グリム・リーパーの首を右手で拘束したまま、わたしは凄まじい速さで落下していきます。
グリム・リーパーから向けられる凍てつく憎悪の視線も、地獄の底から響くような低い怨嗟の声も、さすがに事ここに至っては微塵も気になりません。
だって、どうせもう助かりっこありませんから。
「ぉぉ……ぉ……放せ……放さぬか……ぉぉぉッ……小娘ぇぇ――ンがぅ!?」
「うるさい」
低く響く声で耳もとでごちゃごちゃ抜かすので、鼻面に左拳を叩き込んでやりました。
ゴォゴォと、風だけが鳴っていて。
風圧でお気に入りの髪留めがほどけ、長く伸ばした髪が星の見えない夜空へと向かってなびいている様は、まるで夜空をお散歩しているかのようです。
「あは、変なの……」
「変なのはおまえの脳み――ンがぐッ!? き、貴様、そのような細腕でどこからこんな馬鹿力――ンごぁ!? お、おごぉぉぉぉ……わ、わかったっ、も、やめ……」
呟いた声と、グリム・リーパーの鼻血を、遙か高所に置き去りに。
それよりさらに上。視線を空へと向ければ。
超高層ビルの屋上ヘリポートでは夜空に身を乗り出して、鮮やかなパステルカラーの装束に包まれた四人分の手がわたしに伸ばされています。
大切なお友だちです。仲間。魔法少女の手です。
けれども、もう、届きません。とても、遠くて。いくら手を伸ばしても。
炎を喚び出す暖かな日差しのような手も、凍結を促す白くしなやかな手も、風を巻き起こすふんわりとした優しい手も、大地を操る逞しく力強い手も、もう、わたしには届きませんでした。
「……っ……っ……!」
声。魔法少女たちが何を叫んでいるのかさえ聞き取れません。風を切る音が、大好きだった人たちの声を掻き消してしまって。死は厭いませんが、そのことだけは少し寂しく思いました。
ただ、落ちる――。
間もなくわたしは、この怪物ごとアスファルトに全身を叩きつけられるでしょう。
でも、これでいいのです。彼女らが助かるのなら悔いはありません。食い残しならば、たらふくありますが。
どうやらそろそろ時間のようです。
地面が迫り、わたしはグリム・リーパーの頭部をスイカ割りのごとく爆砕すべく、つかんでいた右手を大きく振りかぶりました。
「私を道連れに死ぬ気か、小娘……!」
「終わりです。あなたも、わたしも」
「待っ……やめ……っ、よ、よせ……っ」
さようなら――。
そうして右大胸筋から上腕二頭筋に力を込めて、思いっきり振り下ろしてやりました。
残念ながら、散々わたしたちを苦しめてきた敵の頭部が爆砕する瞬間こそ見る余裕はありませんでしたが、アスファルトがミリまで迫った瞬間にわたしは思いました。
ざまあみろ、と。
こうして魔法少女になれなかったわたしは、彼女たちが長年追い続けてきた宿敵を道連れに、この世を去ったのでした。
――そうして世界は、救われました。
……そのはずだったのです。そう、わたしの記憶がたしかなら。
気づけばわたしは柔らかな地面に膝をつき、大量の汗の雫を滴らせていました。
極度の緊張から解き放たれた直後のように呼吸は荒く、心臓はわたしの薄い胸を内側から強く叩いています。
「あ……れ……?」
頭、少し痛い。寝不足のまま無理に起こされた朝のように。けれども傷はありません。
わたしは額を押さえて、自らの身体に視線を落とします。
膝下まである長いフレアスカートにブラウス、カーディガン。魔法少女の装束ではありません。私服です。
「……変身……解けてる……」
それ以前に生きている。敵を道連れに、とても助からない高さから落ちたというのに。
「ここは……?」
森、ううん、密林。それもテレビでしか見たことがなさそうな亜熱雨林の森です。
地面はぬかるみ、シダ植物に覆われています。樹木は空を覆うほどに生い茂っていて、気温の高さよりも湿度の高さのほうが身体と心を蝕みます。
ブラウスの胸もとを引っ張って、蒸れた胸に風を入れます。お見苦しい行為だとは重々承知ですが、学校と違って男子の目がないので、まあよしとしましょう。
そのようなことより、どうやら生きているようです。死後の世界でなければですが。
「……どこなの?」
得体の知れない獣の遠吠えが、遙か遠くから響いていました。
不気味です。見慣れない景色が、余計にそう感じさせるのかもしれません。
「帰らなきゃ」
グリム・リーパーは強敵です。超高層ビルからアスファルトに叩きつけたからといって倒せたとは限りません。現にこうして、わたしごときが生きているのだから。
頭を振りながら立ち上がります。長い髪についていた濡れた葉が、ぱらぱらと落ちました。
「みんなが待ってる」
編み上げのブーツで歩き出します。ぐじゅり、とぬかるんだ地面がわずかに沈みました。
でも、どっちへ?
――オオオ、ォォ…………。
遠吠えが近づいてきています。とにかく今は立ち止まらないほうが良さそう。
わたしは駆け足でその場を離れて――けれども、ほどなく懸念は現実へと姿を変えました。
――オオオオオォォォォ……!
追ってきてる。
方角を変えて走っても、遠吠えは必ず背後から聞こえています。正確に追跡されているからでしょう。たぶん、匂いを辿って。
冗談じゃありません。食べるのは大大大好きですが、自分が食べられるのは真っ平ご免です。けれど、どこまで行っても密林の終わりは見えてきません。
到底、逃げ切れるとは思えませんでした。
「はぁ、はぁ……」
わたしは立ち止まり、覚悟を決めました。周囲に人の気配はないし、たぶん変身する必要はないのだけれど。
それでもわたしは、念のために両手を重ねて胸の中央へとあてます。なり損ないとはいえ、これでも魔法少女の端くれなのですから。
「変身」
魔力の高まり。
直後、わたしの洋服は光の粒子となって弾け、秒をおかずに黒を基調とした白いレースのあしらわれた魔法少女装束に変質しました。
右手に持った魔法のステッキくるくると取り回し、左手に顕現した黒金の仮面で目もとを覆います。
本来ならば正体を隠しながら魔法を使うために存在する装束ですが、わたしに関しては、前者はともかく後者にはなんの作用も起こりません。哀しいことに。
どれだけ手やステッキを振っても炎は出せませんし、ものを凍らせることもできません。風を巻き起こすことも、地面をせり上げることだってできません。他の魔法少女たちがうらやましいです。
わたしは、魔法少女になれなかった魔法少女だから。
「――っ」
濡れた木の葉を踏みつぶし、シダ植物を蹴散らして、獣の足音と息吹が近づいてきました。まっすぐに、もはや疑いようもないほどに、わたしを狙って。
そうして獣は姿を現します。樹木の隙間から高く伸びたシダ植物を踏みつぶして、一切の減速を行わないままに。
――ガアアアァァァァァーーーーーーーッ!!
「……っ……な、何……!?」
羆のような体格をした金色の獣。巨大な虎です。おまけに、上顎から伸びる日本刀のような二本の牙は、わたしの腕ほどの長さもあって。
サーベルタイガー――!?
二万年前には絶滅したはずの怪物が威嚇すらすることなく、駆ける勢いのままに後ろ脚で跳躍しました。わたしは唖然としたまま獣の影に呑まれ、そうして気づけば視界は獣の口だけになっていて。
だから――。
右手に持つ、ピンクのリボンがあしらわれた魔法のステッキ。キラキラ☆モーニングスターを力いっぱい横薙ぎに振りました。
お願い、今こそ目覚めて! わたしの魔法!
「……ッ……ぁどっせぃぃぃっ!!」
獣の右側から振るわれた魔法のステッキは、先端部に設置された星の角っこの部分でサーベルタイガーの牙を粉砕し、上顎から鼻先までを軟骨入りミンチへと変質させ、眼球を吹っ飛ばしながら獣の左側へと抜けました。
肉と骨の弾け飛ぶ不気味な音が密林に響き、サーベルタイガーの首が三重にねじれて千切れ跳びます。
わたしの背後に着地した胴体部は、失った首から大量の血液を撒き散らしながらその場に大きな音を立てて崩れ落ちました。
こうして獰猛な獣は動かない肉塊と化しました。
「ああ……。まただめだった……」
やはり魔法は発動しません。どうしてでしょうか、こんちきしょうめ。
わたしは、武器としては破格の重量三十キロもあるキラキラ☆モーニングスターを右手で一振りして肉片や血を散らし、悲嘆に暮れます。
そう。
わたしは魔法少女として選ばれ、けれども魔法少女にはなりきれなかった悲劇の魔法少女。けれども、どうやら筋肉神には愛されたようで。
……とても……。
七宝蓮華の呟き
愛が重いです。