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燈幻郷奇譚  作者: 月宮永遠
1章:遠き月胡の音
9/42

7

 十日が経ち、亜沙子はようやく起き上がることを赦された。

 目が醒めて部屋続きの浴室に向かうと、漆塗りの姫鏡台に映る自分の顔を見てぎょっとした。

「うわ……」

 顔色は悪くないが、頬がやつれて見える。

 早く調子を戻さないと。そう思いながら、水差しを傾けて平たい甕に水を張った。顔を洗い、髪をくしけずって、大ざっぱに後ろで一つにまとめる。

 縮緬ちりめんの羽織を肩にかけて部屋に戻ると、窓辺に寄って絶景を眺めた。

 満開の桜が、風に吹かれて舞っている。

 遠い異郷、神聖な蓬莱山で、日常的な朝の身支度をしていることを未だに奇妙に感じる。

 窓辺でぼんやりしていると、部屋に灯里がやってきた。窓辺に立つ亜沙子を見て、目を和ませる。灯里は亜沙子が寝こんでいる間も、よく世話をしてくれた。朗らかで、柔らかな雰囲気をしており、話しているだけで癒される聡明な美女だ。

「お早うございます、姫様。具合はいかがですか?」

「お早うございます。すっかり元気になりました。ご心配をおかけしました」

 深々とお辞儀をすると、灯里は尾を揺らしてほほえんだ。

「お元気になられて、ようございました。湯の準備ができておりますが、入られますか?」

「お風呂! 入りたいです!」

 亜沙子は弾んだ声を出した。寝こんでいた間、まともに身体を洗えていないのだ。たらいに張った湯で身体を拭いたり、髪は洗ってもらっていたが、全身を湯で洗いたいと常々思っていた。

「こちらへどうぞ」

 灯里は心得たように頷くと、すぐに先導してくれた。

 おもむきのある風呂に、亜沙子は胸を高鳴らせた。世話を焼こうとする女達をどうにか説得し、木漏れ日の射す広い浴室で、贅沢な一番湯を愉しむ。

 風呂は古き和風の落ち着いた造りで、柘榴口ざくろぐちがあった。ひのきのいい香りがする。糠袋ぬかぶくろで身体を磨いて、熱い湯に身体を沈めた。

「ふぅっ、生き返った。極楽だわぁ~」

 しみじみとした呟きが、湯けむりの漂う風呂場に反響こだました。極楽とはいい得て妙だ、と亜沙子は目を瞑りながら思った。

 病み上がりであることを忘れて、つい長風呂をしてしまい、すっかりのぼせてしまった。

 風呂を出て部屋に戻る途中、庭に面した廊下の籐椅子とういすで暫し休んだ。連子窓から心地よい風が吹いて、火照った肌を冷やしてくれる。

 一息ついてから部屋に戻ると、見計らったように灯里がやってきた。ぐったりしている亜沙子を見て、目を瞠る。

「まぁ、姫様! どうなさいましたか?」

「少し、のぼせてしまいました」

「のぼせるとは? どのような?」

 真剣な顔で訊き返す灯里を見て、亜沙子は照れ笑いを浮かべた。

「ただの湯あたりです。すみません、広くて綺麗なお風呂だから、つい長風呂をしてしまいました」

「姫様の白い肌は、とても繊細なのですね。湯でそのように朱くなるなんて……」

「病み上がりってことを忘れていました……あの、それは?」

 灯里が手に持った漆盆を見て、亜沙子は首を傾けた。

「我が主からの贈り物でございます」

 恭しく畳紙たとうがみを開いた灯里は、彼女が仕上げに刺繍をいれたいう着物を、十数着も亜沙子に差し出した。

「こんなに?」

「虹を織ると評判の工房であつらえた反物ですよ」

「へぇ~」

 透き織り、紗に縮緬ちりめん天鵞絨びろうどと様々な織物が揃っている。触れるのを躊躇う亜沙子を見て、灯里は満足そうにほほえんだ。

「我が主は姫様に夢中ですね。着ているお姿を見せたら、きっとお喜びになりますよ。どれになさいますか?」

「こんなにあると、迷ってしまいますね」

 ここのお洒落は、亜沙子の感覚ではレトロモダンに映り、趣味が合う。

 衣装選びは楽しく、暫し吟味してから、亜沙子は柔らかい藤色の着物を選んだ。殆ど無地だが、襟と袖には金糸で蝶の刺繍をあしらわれている。袖はゆったりしていて、裾から繊細なレースが覗く。和装ドレスのような素敵な衣装だ。

「おかわいらしいこと。よくお似合いですよ」

 髪を念入りに結いあげた灯里は、亜沙子の全身を眺めて出来栄えを自画自賛するかのように頷いた。

「綺麗にしてくださって、ありがとうございます」

 全身鏡の前に立ち、亜沙子は鏡の中で礼をいった。薄化粧をして綺羅を羽織れば、心も華やぐ。

 準備が整い、正殿に向かう途中、回廊の美しさに思わず感嘆のため息が零れた。

 さんと降り注ぐ、光の洪水。

 くまなく硝子戸のはめこまれた回廊は、綺麗に磨かれており、柔らかな光がよく入る。

 ここへきた時は夜で、そのあとは寝こんでいた為、回廊がこれほど明るいとは知らなかったのだ。

 彩の間に入ると、紙面に目を注いでいた一世は、ぱっと顔を上げた。亜沙子を見て、嬉しそうに尾を左右に揺らす。

「おはよう、亜沙子」

「お早うございます」

「元気になって良かった」

 一世は回復を寿ことほぐと、着飾った亜沙子の全身を眺めて満足そうにほほえんだ。

「よく似合っているよ。とてもかわいい」

「ありがとうございます。一世さんもよくお似合いです」

 今日は着物ではなく、黒羅紗くろらしゃ金釦きんぼたんの軍装で、髪は後ろで一つにくくっている。惚れ惚れするような凛々しさた。

 ぽぅっと朱くなる亜沙子を見て、一世もまた眼を細めた。

 なんてかわいいのだろう……柔らかな眼差しが囁いている気がして、亜沙子は照れて視線を伏せた。

「こちらへおいで」

 傍へ寄ると、脇の下に両手を差し入れられ、ふわっと身体が浮いた。

「一世さん!?」

「ふ、かわいい」

 膝の上に亜沙子を横向きに乗せて、一世は上機嫌にほほえんだ。長い睫毛の下で、青と金の瞳が煌めいている。毎日のように顔をあわせているが、彼の見目麗しさに、亜沙子は未だに慣れずにいる。否、慣れる日は永遠にこないのかもしれない。

「下ろしてください」

 焦って肩を押すと、逆に隙間なく抱き寄せられた。

「こらこら、暴れるな」

「離してくださいったら」

 身じろぐと腹に腕が巻きつき、背中から一世に包まれた。

 長い指が髪に触れる。耳やこめかみに唇で触れられて、亜沙子は震えた。彼は子供に接しているつもりでも、亜沙子はそうは思えない。異性に触れられていることを意識して、顔が熱くなる。

「一世さん、離して」

「亜沙子、湯浴みで加減を悪くしたと聞いたけれど、大事ないか?」

「ただの湯あたりですから。あの、離して」

 一世は聞く耳を持たず、亜沙子をしっかと抱きしめた。傍に控えていた紫蓮は、亜沙子を見て器用に片眉をひそめた。

「貴方は、風呂もまともに入れないのですか?」

「入れますよ! お風呂が気持ちよくて、つい長居をしてしまったんです」

「これだから人の子は弱くて困ります。しっかり食べて、早く元気におなりなさい」

 紫蓮は、文句をいっているのか心配をしているのか、よく判らぬ台詞を口にした。ぱん、と手を鳴らして使用人を呼びつけると、朝餉の準備を始めさせた。

 すぐに漆塗りの盆が運ばれてきて、使用人が蓋を開けると、美味しそうな匂いと湯気が漂った。

 さりげなく膝から降りようとした亜沙子の腹に、一世はすかさず腕を回した。

「食べさせてあげよう」

「えっ?」

 困惑する亜沙子に構わず、一世は小鉢を開けて、蒸鳥の和え物を箸で切り分けた。

「ほら、口を開けて」

「自分で食べますから!」

「遠慮はいらぬ。寝こんでいた間も、私が手ずから食べさせていたのだから」

「あれは病気だったから……この通り元気になりましたし、もう自分で食べられます」

「いいから、いいから、ほら」

「……」

 一世は聞く耳をもたない。諦めの境地で口を開けると、途端に青と金の瞳が煌いた。三角の耳をピンと立てて、尾は嬉しそうに揺れている。

「美味しい?」

「……はい」

 雛鳥に餌を与えるように、一世は亜沙子の口に、小さくちぎった肉を入れる。十歳の子供に戻った気がして、非常にいたたまれない。

「さぁ、次はこれを食べよう」

「……まだ続けるんですか」

「ん?」

「……」

 この状況に、どうして誰も疑問を抱かないのだろう? 誰にも止められないことが驚きである。なぜか、生暖かく見守られている気がする。

「まるで雛鳥のようですね」

 紫蓮の言葉に、亜沙子は頭を殴られたような衝撃を覚えた。耐え切れず、そっと箸を運ぶ一世の腕を押しのけた。

「……あとは、自分で食べますから」

 反論の隙を与えず、さっと身体をずらして一世の膝から脱出した。

「遠慮はいらぬのに……」

 残念そうなつぶやきは聞こえないふりをして、亜沙子は黙々と箸を動かした。

 しかし、鉄箸の重いこと。

 なぜ食事をする為の箸が、これほど重い必要があるのか理解に苦しむ。箸を持つ手が震えて、摘まんでいた山菜の揚物が、ぽろっと膳の上を転がった。

「亜沙子……」

「ハイ、すみません」

 赤面して詫びる亜沙子の頭を、一世は優しく撫でた。

「亜沙子に箸は重すぎたか」

「!?」

 大真面目にいった一世の言葉に、亜沙子は通算何度目か判らぬ衝撃を受けた。

 硬直していると、食べるのが下手くそとでも思ったのか、紫蓮は無言で桐製の軽い箸を亜沙子に手渡した。先日も使わせてもらったものだ。

「ありがとうございます! 助かります」

「仕方ありませんね。これだから人の子は」

 ふぅ、と紫蓮はため息をついた。文句をいいながら、彼は亜沙子に茶を煎れたり、何かと世話を焼いてくる。言葉と態度が矛盾しているが、細やかな気配りのできる親切な天狼だ。

 桐の箸は、それでも亜沙子が持つには大きかったが、鉄箸に比べたら断然良かった。

 ようやく味わって食事をすることができる。

 優しい味つけの精進料理は、素材の味が生かされており、大変美味である。

 山菜のおひたしを口に運んでいると、つと伸びてきた指に口元を拭われた。びっくりして顔を上げると、一世は目を細くした。

「ついているよ」

 あろうことか、ぬぐった指先を一世は口に含んでみせた。

「ごほっ」

 むせる亜沙子の背中を、一世は気遣わしげに撫でた。

「ゆっくりお食べ」

「食事の間くらい、落ち着きなさい。ほら、お茶を飲んで」

 紫蓮にも世話を焼かれて、亜沙子は頬を朱くした。いつだって落ち着いているつもりなのに、食事の間くらい、とはどういうことだ。

 精神を消耗しながら食べ終えると、ほかほかしている千代紙の塊を手渡された。

「何ですか?」

「甘栗だよ。開けてごらん」

 千代紙の包みを開いてみると、焼き立ての甘栗が出てきた。

「わぁ!」

 感嘆の声を上げる亜沙子を見て、一世は蕩けそうな笑みを浮かべあ。

「美味しいよ」

「はい、いただきます」

 早速手をつけたが、皮が意外と固い。おまけに指が熱くて、なかなか剥けない。

「貸してごらん」

 苦心していると、横から伸びてきた手に取り上げられた。一世は、はさいも使わずに難なく栗を剥いていく。

「すごいですねぇ」

「何が?」

「素手で剥けるなんて」

「? そりゃ、剥けるだろう」

「人の子は栗も満足に剥けないのですか?」

 一世も紫蓮もきょとんとしている。紫蓮は冷たい手巾で亜沙子の少し赤くなった指先を拭い始めた。

「あ、すみません」

「ちゃんと拭きなさい」

「ハイ、すみません……」

 まるでお母さんだ。

「貴方は、栗に触れだけで指を痛めるんですか?」

 呆れたようにいわれて、亜沙子は軽く頭を下げた。

「申し訳ありません。お気遣いありがとうございます」

「全く。人の子は脆弱すぎますよ。目を離せないではありませんか」

 そんな台詞を美人にしかめ面でいわれて、亜沙子は小さく笑った。

「何を笑っているんです?」

「紫蓮さんってかわいいなと思って」

 ごほっ、と一世はむせた。紫蓮はちらりと一世を一瞥すると、真顔で亜沙子を見つめた。

「……かわいい? 私のどこが?」

「いえ、一見冷たいのに、実はとても優しいから。言葉と態度のギャップが萌えるというか」

「ぎゃっぷ? 燃える? 亜沙子の言葉は、時々理解できませんよ」

「ごめんなさい。なんでもありません」

「子供が目上に軽口を叩いてはいけませんよ」

「あの、私は子供じゃありません。ここへくる前は、独り立ちして働いていたんですから」

「働いていた? このようにいとけないのに?」

 眼を丸くする一世を見て、亜沙子は苦笑いを浮かべた。

「こういう人種なんです。こちらでも、何か私にできる仕事があればいいのですが……」

「余計な心配はせずに、身体を治すことに専念しなさい」

 紫蓮がしかめ面でいうと、一世も腕を組んで頷いた。

「そうだよ、亜沙子。客人として迎えるといっただろう? 働く必要はないよ」

「でも、お世話になってばかりいるのも心苦しいですし」

 困ったようにいう亜沙子を見て、そうだ、と一世は手を鳴らした。

「では、月胡を弾いておくれ。時々でいいから、夜の慰めに聴かせておくれ」

「月胡?」

「月明りを浴びて音を紡ぐ、弦楽器のことだよ。飛車とびぐるまで聴かせただろう?」

「私、楽器は弾けませんよ」

「私が教えてあげる」

 尾をゆらゆらと揺らして、一世は楽しそうにほほえんだ。

「それは嬉しいですけれど、仕事とは違うのでは」

「仕事を手伝ってくれるより、ずっと嬉しいですよ。天狼は楽を好むのです。亜沙子、楽しみにしていますよ」

 紫蓮にも期待の籠った眼差しを向けられて、亜沙子は居住まいを正した。

「そういうことなら、判りました。頑張ってみます」

 亜沙子の返事を聞いて、二人は嬉しそうに尾を揺らした。





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