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燈幻郷奇譚  作者: 月宮永遠
1章:遠き月胡の音
8/42

6

 燈幻郷にきて早々、亜沙子は熱をだした。

 目を醒ますと、大抵は傍に心配そうな顔をした灯里や一世がいて、彼等の頭にはやはり三角の耳がついていた。

 寝こんでからも暫くは、我が身に降りかった摩訶不思議な神隠しを、どこか夢見心地に捕らえていたけれど、目を醒ます度に少しずつ現実に引き戻されていった。

 悠久のその。美しい天狼達。降るような満点の星空に、蒼白い大きな月と桜の群……現実なのだ。

 日本に二度と帰れないといわれても、さほどショックはなかったが、今後の生活を思うと胸に不安がよぎった。

 一世は、亜沙子が不安そうな顔をする度に、ゆっくり身体を治しなさい、優しく言葉をかけて黒髪を梳いた。

「……亜沙子?」

 ふと目を醒ますと、寝台の傍に優しい瞳をした一世がいた。

「澄花酒を飲んでほしいのだけれど、起きれる?」

「……はい」

 一世は、力の入らない亜沙子の身体を優しく抱き起こして、背中にクッションを挟みこんだ。

 口元に運ばれた湯呑を亜沙子が受け取ろうとすると、口を開けなさいと一世はいった。開いた唇から、温めた澄花酒が流れてくる。少しずつ飲む様子を、一世は目を細めて見つめている。

「よく飲めたね」

「……ありがとうございます」

 喉が潤い、しわがれた声は少し良くなった。

「まだ熱がある。もう少し休んだ方がいい」

 柔らかく肩を押されて、亜沙子は大人しく横になった。端正な顔を仰いで、ほぅっと息を吐く。

 優しくて、夢のように綺麗なひと

 一世に拾われて本当に良かった。寄る辺ない世界で、赤子も同然の亜沙子を、彼は一族の暮らす郷に迎えてくれた。傍にいて、安らぎを与えてくれる。

 出会って間もない一世に、亜沙子は全幅の信頼を寄せていた。

 一世に限らず、郷の天狼は皆優しい。

 病気知らずな彼等は、熱に喘ぐ亜沙子を見てすっかり動揺していた。侍女達はこちらが恐縮するくらい、音を立てぬように部屋に出入りし、献身的に看病してくれる。

 早く治したいが、微熱はしばらく続いた。

 熱は上がったり下がったりを繰り返し、調子がいいかと思えば、下降する。

 寝苦しくて眠れない夜、亜沙子は寝汗が気持ち悪くて寝台から起き上がった。

 新しい襦袢に着替えると、月光に誘われて窓辺に寄った。空には、ぼぅっと蒼白い満月が浮かんでいる。

 夜空を仰いでぼんやりしていると、控えめに扉を開く音が聴こえた。

「はい?」

 部屋に入ってきた一世は、窓辺に立つ亜沙子を見て目を瞠った。

「亜沙子? 具合が悪いのだから、寝ていないと」

「すみません。目が醒めちゃって……」

 傍へやってきた一世は、そっと亜沙子の背中を抱きしめた。熱で理性が緩んでいるせいか、恥ずかしいと感じなかった。寄り添う温もりが心地いい。

「もうお休みよ。寂しければ、添い寝をしてやろうか?」

「……間に合っています」

 一世は小さく笑った。亜沙子が再び寝台に上がると、毛布を胸までかけて、あやすように上からぽんぽんと軽く叩いた。

「目を閉じて」

 いわれた通りに、瞼を下ろす。長い指が前髪を梳く。うっとりしていると、額に柔らかなものが触れた。一世の唇……こんな風に、男に甘やかされるのは初めての経験かもしれない。

 くすぐったくて面映ゆい。

 胸の底が温まるのを感じながら、今となっては知るよしもない、多情であった母のことを懐かしく思い出した。

 母は、楚々(そそ)とした儚げな人だった。

 ほっそりと小柄で、幾つになっても柳のようにすらりとした体形を維持していた。

 夏でも白いブラウスのボタンを上まできっちり留めて、紺地のハイウェストのロングスカートに、ベージュのパンプスを履いて、上品な秘書のように見せていた。

 化粧は控えめで、肩で揃えられた髪は、いつでも綺麗に黒染めされていた。

 だが、清楚な外見からは想像もつかぬほど、烈しい恋に一途だった。

 相手は父ではない。

 亜沙子が小学生の頃に両親は離婚した。お互いに好きな相手が別にいて、揉めた末の破局だ。

 当時は両親の事情を素直に受け留められず、一緒に暮らせないことが不満だった。

 新築の家を母に残して、父は出ていった。

 母と二人暮らしを始めても、ささくれだった態度をやめられずにいた。亜沙子が針鼠のように毛を逆撫でている時、母は弁明も泣き言も口にせず、寂しそうな顔をするだけだった。

 母の、秘められし情熱を垣間かいま見たのは、中学生に上がる頃だ。

 ピアノの稽古が予定よりも早く終わって帰宅してみたら、しんと静まり返った家の奥から、きいたことのない母の喘ぎ声が聴こえた。

 仄暗い廊下の奥。

 ふすまの隙間から、かすかな光が漏れていた。

 得体の知れない、秘めやかな熱気を孕んだ空気を感じて、うなじの毛が逆立った。とても怖かった。母に声をかけることはせず、そのまま家を飛び出した。

 そのあとも、何度か二人の秘めやかな逢瀬を気取ることがあり、中学三年生の夏、我慢しきれずに母に問い質した。

 父とは離婚しており、母が新たに恋人を作るのは彼女の自由なのだが、当時はそう思えず、父と自分を裏切る不貞のように感じていた。

 その時も、母は弁明などしなかった。眼淵まぶちに涙をためて、ごめんね、と頭を下げるのだ。

 悲しげな眼差しには苦悩が滲んでいて、そんな顔を見てしまうと強くはなじれず、歯がゆく思いながらも口を閉ざした。

 それからしばらくして、母の恋人に家庭があると知り、亜沙子は愕然とした。

 母の情熱は、誰にも祝福されない、報われぬ、道ならぬ恋だった。

 ある日、具合が悪くて学校を早退すると、家の前でばったり男と鉢合わせたことがある。こそこそと母に会いにきたのだと思ったら、瞬時に頭が煮えて、気がつけば台所に走っていた。何事かと目を見張る母を無視して、荒塩をわし掴んで戻ると、

「帰れッ! 二度とくるな! 今度見たら、警察を呼んでやるッ」

 玄関で様子をうかがうように立っている男の顔に、思いきり叩きつけた。

 鬼の形相でわめく亜沙子を、男は陰った表情で見ていたが、文句もいわず、静かに頭を下げて出ていった。

 廊下に佇む母は、哀しい目で亜沙子を見ていた。

 別れた方がいい――さとす亜沙子の言葉に母はいつでも耳を傾けたが、だからといって男と別れることはなかった。 ごめんね、と項垂れる姿を見る度に、鬱憤はたまっていった。

 不毛な家族が憎い。

 亜沙子と母を捨てた父が憎い。母を幸せにしてやれない男が憎い。いつまで経っても亜沙子を顧みない母が憎い。

 てのない蟻地獄だ。

 亜沙子も母も腰までどっぷり浸かって、二度と抜け出せない深みまで堕ちてしまった……


 ガラガラガラッ!


 窓の外がカッと発光し、大地を切り裂くような雷鳴が轟いた。

「うあぁっ!」

 亜沙子は悲鳴を上げて、跳ね起きた。

 心臓がどくどく、音を立てて鳴っている。全力疾走したかのように、ぐっしょり汗を掻いていた。

 ざぁっと叩きつけるような雨の音に混じって、部屋の外から、発条式の柱時計が、ボォーン、ボォーン、と深夜を告げた。

 怖くてたまらない。

 両耳を塞いで、縮こまっていると、白檀びゃくだんが香り、強く大きな何かに包み込まれた。

「っ!」

 暖かい。服の上からでも判る、しなやかで鋼のような肉体。

「亜沙子」

 一世は優しく名前を呼んで、宥めるように亜沙子の背を撫でた。強張りはすぐにほどけた。身体から余計な力が抜け落ちていく。

「……一世さん?」

「そうだよ」

 暗闇に、朱金の明かりが灯った。一世は雲雀をかたどった手燭しゅしょくを棚に置くと、亜沙子の顔を覗きこんだ。

「大丈夫?」

「すみません、夜中に……大きな声を出したりして」

「いいんだよ。怖い夢でも見たの?」

「……ちょっと」

「大丈夫、怖いことは何もないよ」

 灯に照らされ、一世の輪郭は淡い金色に縁取られている。幽玄的な美に魅入られ、亜沙子は夢とうつつの境目が判らなくなった。

「やっぱり、夢を見ているのかな……」

「いいや。亜沙子はちゃんとここにいるよ」

 一世はやわらかく亜沙子を押し倒すと、そっと覆い被さった。頬を撫でて、髪を梳き、額に唇を押し当てる。

 温もりに包まれて、亜沙子の視界が潤んだ。優しい慰めが、心の底に溜まったおりを浚ってゆく。

「……母が苦手でした。家族のことを想っている風で、自分のことしか考えていない人だった」

 一世は、黙って耳を傾けている。人に家族の話を聞かせるのは抵抗があったのに、不思議と一世に対しては、するりと言葉が出てきた。

「母は、父と離婚する前から不倫をしていて、相手にも家庭があったんです。すごく嫌だった。結局、判り合えないまま、私が家を飛び出して、それっきり……」

 襟をきつく握りしめる亜沙子の手を、一世は優しく撫でた。

「ずっと忘れていたのに。どうして今頃、こんなことを思い出すんだろう……」

 熱にあえぐ亜沙子の顔を、一世は優しく撫でた。

「会いたい?」

「……どうでしょう」

 母にまつわる感情は複雑で、単純に会いたいかと訊かれても、素直に頷けなかった。母との記憶は、愛しくもあり憎くもある。

「亜沙子の母君が、息災であるように祈っておこう」

 重く錯綜さくそうする想いを、一世は全て見知っているかのようにほほえんだ。

「……ありがとうございます」

 暖かい一世の腕の中で、亜沙子は静かに泣いた。

 微熱は続き、うつらうつら夢とうつつを彷徨った。怖い夢を見て跳ね起きることもあったけれど、傍にはいつも優しい一世がいた。


 少しずつ、少しずつ、良くなっていった。

 体力が戻ってくると、桜の樹皮で煎れた薬草茶を飲むようになった。これが苦くてたまらない。

「苦い~」

 涙目で文句をいう亜沙子の唇を、一世は優しく撫でた。ご褒美とばかりに、氷砂糖を口に放りこむ。

「よく我慢したね。えらいね、亜沙子」

「……」

 優しく頭を撫でられ、亜沙子は閉口した。

 何日も寝こんでしまったせいで、一世を始めとする天狼達は、亜沙子をすっかり小さな子供だと思いこみ、際限なく甘やかそうとしてくるのだ。

「美味しかった。ごちそうさまです」

 亜沙子が礼をいうと、一世は優しい三日月のように瞳を細めた。

「もうお休み」

 神秘的な青と金の光彩が、夕映えの中で瞬いている。

 空は東雲しののめ色に染まり、窓から差しこむ斜陽が、一世の輪郭を神秘的な金色に縁取っていた。

「どうしたの?」

「……いいえ、なんでも」

 見惚れていたことを誤魔化すように、亜沙子は瞬きをした。

 なんて綺麗なひとなのだろう。胸の中で、もう何度目か判らぬため息をついて、亜沙子は寝台に横になった。

 更に日が経ち、固形物を口にできるようになると、天狼達は大いに喜んだ。

 特に一世は、頻繁に亜沙子の部屋を訪ねては、手ずから食べ物を与えたがった。

 今も、水蜜桃の入った器を受け取ろうと手を伸ばしたら、さっと器を遠ざけられた。

「ほら、口をあけてごらん」

「自分で食べれますから」

「遠慮はいらないよ」

「そういうわけじゃなくて……」

 匙に手を伸ばすと、さっと避けられてしまう。一世は瞳を輝かせて亜沙子を見ている。期待に背けず、おずおずと口を開くと、甘い蜜の味が舌に乗った。

 もう大分復調しているのだが、過保護な天狼は亜沙子が寝台から降りることを許さなかった。

 その間、退屈を持て余す亜沙子に、灯里は天狼の歴史をダイジェストで教えてくれた。


 遥か昔――


 天狼の祖先は、神々の住む蓬莱山の高所に住んでいた。

 天帝の藩屏はんぺいとして、山の秩序と不老不死の霊薬、澄花酒を護り、平和に暮らしていたという。

 しかし、ふもとに人間が住むようになると、澄花酒を盗もうとする人間との戦いに傷つき、或いは狼信仰の魔除けの為に狩りつくされ、絶滅してしまう。

 哀れに思った天帝は、狼の御霊みたまをすくいあげ、上位次元への転生を赦した。

 彼らは狼と人の二つの姿を持ち、地上に生きる人間に狩られることのない、背に羽を持つ天狼として悠々と空を翔けることができた。

 天帝は、人間に蓬莱山の立ち入りを禁じた。

 互いの住処を夜那川で分かち、蓬莱山に連なる桜の大樹に結界を敷いた。麓におやしろ建立こんりゅうし、天狼をまつるよう人間に命じた。

 秩序を守れば、褒美に澄花酒を与える――天帝の言葉を、人間は受け入れた。

 そうとは知らず、あの日、亜沙子が飲んだビールに紛れていた澄花酒は、本来は蓬莱山の麓に栄える大国、彩国の大王へ届けられるはずだったという。

 天狼は狼の輪廻転生といわれているが、中でも前世の記憶を持つ徳の高い天狼は、群れを良く率いるらしい。

 前世を持つ天狼の中で、最も力ある天狼を天狼主あめのおおかみぬしと呼び、一世の名を受け継ぐ。亜沙子を拾ってくれた天狼主は、四百十七代目の一世である。

 輪廻を記憶している天狼は人間を忌避する。特に絶滅に追いやられた彩国の人間のことは蛇蝎だかつの如く嫌っていた。

 一世は、彩国へ澄花酒を渡さずに済んだことを喜んでいた。異郷からきたとはいえ、人間である亜沙子を気に入った背景には、そうした事情もあったのだろう。

 尚、灯里も前世を覚えているという。

 外見年齢は亜沙子より年下だが、妙に老成した雰囲気を醸しているのは、そういう事情があるようだ。

 亜沙子の常識からかけ離れた異世界事情を、すぐに理解することは難しいが、彼等の思想や生活を知るにつれて、少しずつ理解できるようにはなってきている。

 結婚はしていないのか訊ねると、うふふ、と灯里は少女のようにほほえんだ。

つがいならおりますよ。千年天満ちとせてんまで評判の悉皆屋しっかいやをしています。もし、お着物でお困りのことがあれば、いつでもご相談くださいな。あの人に見てもらいますから」

 と、頬を染めて話す姿は愛らしかった。

 千年天満は、蓬莱山の麓にある里で、天狼をまつるお社がある。そこでは人とあやかしが共存して暮らしており、大きな祭祀には神仙も降りてくるらしい。

「姫様は、意中の殿方はいらっしゃるのですか?」

「え?」

「もしや、我が主でございますか?」

「えぇっ?」

 目を輝かせる灯里を見て、亜沙子は狼狽えた。

「違います。そんな人、私にいませんよ」

 灯里は口を上品に手で覆いながら、そうですか、と頷いた。それ以上は言及しようとしなかったが、面白がっているのだろう。琥珀の瞳をきらきらと輝かせて、尾は忙しなく揺れていた。





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