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燈幻郷奇譚  作者: 月宮永遠
4章:天狼と見る夢
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38

 宵闇に丸い月が浮かぶ頃、緋桜邸ひおうていでは酒宴が開かれていた。

 ひと騒動の落着と亜沙子の無事、彩国に出向いた天狼達を労おうと、涅槃ねはんの神仙も降りてきて、その中には笹良の姿もある。

 神々の振るう衣や扇の、きららかなこと。

 月胡げっこや笛の音に合わせて、月明りに照らされた蒼白い花びらが、ひらり、宙を舞う。

 扇で桜の花びらを受け流しながら、天狼達が伝統的で優雅な舞踏を披露している。

 上座には、錚々(そうそう)たる顔ぶれが並び、煌びやかな大礼服の軍装に身を包む一世に紫蓮、烈迦もいて、幽玄的な光景を肴に泰然と寛いでいる。

 青年将校のように凛々しい彼等の左右には、笹良を始めとする美しい天女が侍り、典雅な所作で酌をしている。

 亜沙子も隣へいくよう、先ほどから灯里がしきりに促してくるのだが、上座に混じる勇気を持てず、部屋の隅でひっそりと杯を傾けていた。

「姫様ったら、我が主がお待ちですのに」

 末席でちびちびと酒を飲む亜沙子を、灯里は不服げに見つめた。

「勘弁してください。ここで十分ですから」

「何をおっしゃいますか。早う、こちらへ」

「邪魔しちゃ悪いですよ。ほら、一世さんも楽しそうにしているし」

「もう、姫様ったら。お連れするよういわれておりますのに、我が主に叱られてしまいます」

 困ったように灯里に懇願されて、うっ、と亜沙子は狼狽えた。とはいえ、上座の面々を見ると尻込みしてしまう。ここへくる前に抱いていた楽しみな気持ちは、とうに萎んでいた。

「最近、姫様に避けられている、と我が主は嘆いていらっしゃいましたよ」

「避けてなんか……」

「姫様、不安があるのなら、そのお気持ちを我が主におっしゃいませ」

 灯里は何もかも見知っているかのように、亜沙子の瞳を覗いてほほえんだ。

 情緒不安定な自覚はある。逃げているのは亜沙子の方で、一世は何も悪くないのに、美女を侍らせて泰然と寛ぐ姿を見ていると、苛々してくる。

 やっぱり今夜は顔を見るのはやめておこう、そう思って部屋を出ていこうとすると、

「亜沙子!」

 背中に声をかけられた。

 亜沙子が恐々と振り向くと、一世は誘うように手を差し伸べた。それを見て、灯里は喜々として亜沙子の手を取り、しずしずと上座へ導く。

 傍へ寄ると、美貌の天狼主あめのおおかみぬしは、魅力的で上品な笑みを浮かべた。

「待っていたよ、私の姫。今夜もかわいらしいね」

 彼の纏う壮絶な色気に眩暈がして、亜沙子の酒に酔った赤ら顔は、更に赤くなった。

「……元気そうだな」

 烈迦に声をかけられ、亜沙子は緊張気味に会釈を返した。

「こんばんは」

「そう怯えてくれるな。とって食いやしないさ」

 苦笑を浮かべる烈迦に、紫蓮は冷ややかな流し目を送った。

「貴方が脅かしたりするから、亜沙子も警戒しているのです。身から出た錆ですね」

「その節は悪かったな。怖い思いをさせた」

 ばつの悪い顔を浮かべる烈迦に、亜沙子は慌てて顔を振った。

「いえ、こちらこそお騒がせいたしました。凌雲宮りょううんきゅうまで助けにきてくださって、本当にありがとうございました」

「良い。無事に帰ってきてくれて、良かった」

 思いのほか、烈迦は優しくほほえんだ。

「おかげさまで……あの、烈迦さんは平気ですか? お怪我は?」

 あの夜、血にまみれていた烈迦を思い出して、亜沙子は神妙に訊ねた。

「この通りぴんぴんしておる。烈迦など、どうでもよいではないか」

 一世が面白くなさそうに横から口を挟んだ。どうでもよいとはなんだ、と烈迦が文句をいっている。

「俺が悪かった。たった三日だというのに、姫がいなくては一世が機能しないとよぅく判った」

 言葉はぶっきらぼうだが、烈迦の目元は優しくほほえんでいる。

 亜沙子はほっと肩から力を抜いた。洞窟で烈迦にいわれた言葉を繰り返し反芻し、悩み、怯えていたことが、急に無意味に思えた。少なくとも、今夜の烈迦に亜沙子への隔たりは感じられない。

 だが、和やかな気持ちは長続きしなかった。

 一世の隣でしなを作り、恥じらうような微笑を浮かべて酌をする天女を見ているうちに、再び暗澹あんたんとなった。

「どうしたの? 今夜は随分と大人しいね」

 顎の下を長い指でくすぐられて、亜沙子は顔を背けた。

「おや、機嫌が悪いようだ」

 ささめくような忍び笑いが勘にさわる。

 恋人の目の前で、他の女を侍らせるとはどういう了見だ。文句をいってやりたいと思う一方で、一世の言動に一喜一憂する自分を、酷く愚かしく感じた。

「亜沙子、どうかした?」

「……いいえ、なんでもありません」

 抑制の利いた笑みを浮かべる亜沙子を、一世は思案げに見つめている。

 一世は美しい。

 こうして傍で見ると、つくづく思う。筆舌に尽くし難い全身に纏う神々しさ。

 彼の傍に侍りたい天狼も天女も大勢いる――烈火のいう通りだ。

 精緻に整った美貌はもちろん、典雅な立ち居振る舞い、肩から零れる青銀の髪、それをかきあげる仕草……指先のひとつひとつまでに気品と詩情があり、見る者を虜にする。

 怖くて訊けないが、さぞ華やかな女性遍歴を送ってきたのだろう。一世にとって亜沙子は、果たしてどの程度の存在なのだろう?

「――かわいらしい姫ですこと。噂の天狼主のご寵姫ですね」

 気落ちしていると、天女達は目を輝かせて亜沙子を取り囲んだ。果物や菓子を傍に寄せて、食べる? と訊ねてくる。

「久しぶりだの、いとけない姫」

 絶世の美女、笹良に声をかけられ、亜沙子は笑顔を浮かべた。

「先日は、お世話になりました。おかげさまで、郷に無事帰ることができました」

「再会できてうれしいぞ。この間は、怖いを思いをさせてすまなかったな。危うく天狼の雷が落ちるところであった」

 一世は不機嫌そうに笹良を睨んだ。

「金輪際、亜沙子を他国へはいかせぬ。よく天帝に伝えておくれ」

「判っておる。亜沙子はよくやってくれた。しばらく、郷でのんびり過ごすが良い」

「しばらく? 次はないといったはずだが?」

 射抜くような一世の目を見て、笹良は何一つ慌てた様子もなく、優雅に羽根扇を煽いだ。

「そう怒るな、天狼主。詫びの印に、一曲奏でてやろう」

 笹良はおもむろに月胡を構えると、たおやかな繊手で弦をつま弾いた。

 天上の音色に、聴衆はうっとりと瞳を閉じた。

 機嫌の悪かった一世も、心地よさそうに耳をそばだてている。

 琺瑯ほうろうのように白く華奢な指が、複雑精緻に弦を押さえて、天衣無縫てんいむほうの調べを紡いでゆく。

 深みのある低音は、恵みの大地の雄大さ、叩きつけるような雨粒を連想させた。

 そうかと思えば、音は一瞬にして表情を変えて、光の奔流のようなきらめきへと転じる。

 真珠か水晶を転がしたかのような、繊細な高音の旋律。

 心地よく聴き入っていた一世は、自らも月胡を構えて、弦を鳴らした。

 見事な二重奏に、聴き入る聴衆は息を呑んだ。

 この感動は、とても言葉にできない。

 素晴らしい音の共演に、亜沙子は深く胸を打たれた。同時に、胸が切なく軋んだ。素晴らしい演奏で一世を魅了し、彼に月胡を弾かせた笹良が、胸を焦がすほど妬ましかった。

「――見事な演奏であった」

 一世は手を鳴らして賞賛した。見たくない。今すぐ、目に映る光景を意識の外に追いやってしまいたかった。

 深く、強く、思い知らされる。

 一世のことが好きだ。好きで、好きで、堪らない。

 とめどなく溢れる想いは、ときめきの幸せよりも、哀しみをもたらした。

 甘い酩酊に翻弄されながら、頭の片隅で、冷静な声が囁きかける。

(いつまで一緒にいられるの?)

 ずっと考えないようにしてきたのに、山彦やまびこのように耳朶の奥でこだましている。

「わたくしの寝所に呼んでやろうか?」

「怖い、怖い。真に受けて忍びこめば、どんな目に合うのやら……まぁ、飲みなさいよ」

 天女の戯言ざれごとを、一世は余裕の笑みで躱した。絡みつく白い腕をやんわり解いて、盃を持たせる。

「野暮な天狼じゃ。わたくしの寝所に侍りたい男は、数え切れぬほどおるというのに」

「私には畏れおおいことですよ」

 憎まれ口を叩き合いながら、二人は穏やかな空気に包まれていた。

 つき合いの長さが醸成する親密なやりとりを見て、亜沙子は自分でも説明しようのない気分に襲われた。身体中の力が萎えて、ただ座っていることすら億劫になった。

「……すみません、私はそろそろ部屋に戻りますね」

「もういくのかえ?」

 席を立つ亜沙子を仰いで、笹良は残念そうな口調で訊ねた。

「すみません、少し酔ってしまったみたい。美味しいお酒をありがとうございました」

 一世の瞳を見ることはできなかった。

 愉しげな笑いさざめく声を背に、そそくさと部屋を出ると、心配そうな顔で灯里がやってきた。俯く亜沙子を見て、何もいわずに背中を撫でてくれた。





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