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燈幻郷奇譚  作者: 月宮永遠
4章:天狼と見る夢
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33

 二日目も、暁暉は亜沙子を街に連れだした。

 昨夜の様子が嘘のように、顔色は明るく、溌剌はつらつとしている。心配する亜沙子に、平気ですよ、の一点張りだ。

 根負けして繰りだしたが、のみの市は賑やかで、ありとあらゆるものが通りに並び、亜沙子の目を楽しませてくれた。見ているだけでも心が浮き立つ。

 かわいらいし小物入れを、二、三買ったりもした。暁暉が支払おうとするのを、必死に止めねばならなかった。自分のものはともかく、知人への土産は、自分の所持金で購入したかった。それも紫蓮にもたされたものだが、暁暉に支払わせるよりずっと良い。

 日中は気丈に振る舞っていた暁暉だが、夜になると顔色が悪くなり、亜沙子に詫びながら晩餐の席を外した。


 三日目は、ついに神事に臨んだ。

 午前中は月胡の奉納で、菩提樹の葉陰の下、絨毯で寛ぎながら、亜沙子は清らかな演奏に耳を傾けた。

 午後になると、滝壺に連れていかれた。白装束に着替えた暁暉が浅瀬に入っていく様子を、亜沙子は輿こしに座したまま眺めていた。

 滝に全身を打たれながら、暁暉は手を合わせて瞑想をしている。

 寒い日に、冷たい飛沫に全身を叩かれて、さぞ辛かろう。亜沙子は同情せずにはいられなかった。

 みそぎを終えると、暁暉は濡れた身体のまま亜沙子の前にやってきた。水もしたたる……とはこのことか。目のやり場に困りながら、亜沙子は輿を下りた。

「姫様、大王様の心臓に触れてくださいませ」

 進行役の巫女は平坦な顔でのたまう。お早く――視線で促され、亜沙子はおずおずと暁暉に触れた。

 水に濡れた肌は、ひんやりしていた。彼も緊張しているのだろう。上下する胸に置いた掌から、強い鼓動が伝わってくる。命の躍動、力強い脈を掌に感じながら、亜沙子は瞳を閉じた。

(よくなりますように。悪い病気が治りますように)

 強く祈る。

 彩国を見聞し、彼の人柄に触れた今、お役目というだけでなく、亜沙子個人としても彼を救いたいと思っていた。

(どうか、どうか、よくなりますように……)

 一心に祈るうちに、不思議は起きた。

 五感はどんどん研ぎ澄まされていき、瞳を閉じていても、清水のせせらぎ、風に揺れる梢、囀る小鳥を、あたかも見ているかのように捕らえることができた。

 気の流れが身体を廻り、掌に集まっていく。

 胸の奥……心臓の辺りに、瘴気のようにわだかまる黒いかたまりが見える。

(病魔め、あっちへいけ! 治れ、治れ、治れ……)

 呪文のように心の内で唱えていると、周囲から感嘆の声が漏れた。

 不思議に思って、そろりと目を開けると、大王は驚いたような顔で亜沙子を見つめていた。

「不思議だ……何やら、身体が軽くなったように感じます」

「えっ、本当ですか?」

「はい。清らかな光が、姫の掌から溢れ出て……すっと私の身体に入ったのです」

「えっ」

 亜沙子は思わず掌に視線を落とした。めつすがめつ眺めて、問いかけるように暁暉を仰ぐ。

「この瞳で確かに、通力の顕現けんげんを見ました。手先まで精気が漲るようだ……姫様、ありがとうございました」

 暁暉は、武人らしく手を合わせて頭を下げた。亜沙子は言葉に詰まって、ぎこちない笑みを浮かべた。

 触れただけで、病を治せるはずがない――亜沙子の常識が囁くが、掌はまだ気の流れをうっすら捕らえていて、未知の感覚が残っている。

「良くなりますように」

 亜沙子は心を込めて手を合わせた。理屈はどうでもいい。病は気からというし、これを機に本当に良くなるといい。心の安寧の尊さは、亜沙子も身に沁みて知っている。


 車に乗る頃には、陽は大分傾いていた。

 大役を終えて気が緩んだせいか、異国の黄昏たそがれが、格別にきらきらと輝いて見える。

 白い雲も、整然と並んだ街並みも、美しい落陽によって茜色に染めあげられていた。

「美しい夕陽だ」

「本当ですね」

「心が軽くなったおかげか、いつもよりずっと夕陽が美しく見えます」

 大王はそっとほほえんだ。亜沙子を見て、眼を細める。

「本当ですね。良いお天気で助かりました」

 熱を持った空気を散らすように、無邪気を装って亜沙子はいったが、大王は亜沙子だけを見つめていた。

「こうしていられるのは、全て姫のおかげです」

「いえいえ、そんな……」

 はにかむ素振りで、亜沙子はそっと視線を伏せた。

 大王の瞳の奥に、これまでには感じられなかった、深い信仰心以外の何かが灯っている気がした。

 逢魔が時。

 遠くで大鴉おおがらすが啼いている。

 山道を折り返し、西陽が御簾みすを赤く照らす中、暁暉は胡坐を掻いて頬杖をついている。逆光で、亜沙子の位置から表情はうかがえない。それなのに、強い視線を感じて、亜沙子は顔を上げることができなかった。

 桜の降る蓬莱山に、今すぐ飛んで帰りたい。無性に、一世に会いたくなった。

 悠陽邸ゆうひていに到着して、亜沙子が部屋に下がろうとすると、暁暉もついてきた。

 部屋に招き入れるのは躊躇われたが、亜沙子が断る間もなく、部屋つきの侍女は暁暉を招き入れてしまった。

「姫」

 大王は一歩を詰める。床が軋んで、亜沙子はぎくりとした。広い部屋なのに、彼がそこにいるだけで、妙に圧迫感が増す。

「今日は本当にありがとうございました」

「いえ、そんな」

「信じられないほど身体が軽くなりました。姫のおかげでです。この胸に巣食っていた病魔が失せたのです」

 暁暉は熱のこもった瞳で亜沙子を見つめた。彼の中で、何かが変わってしまった気がする。その変化が、亜沙子には恐ろしかった。

「……なら、良かったです」

「もう一度、御手で触れていただけないだろうか?」

 請われて、亜沙子は躊躇したが、暁暉の真剣な表情に気おされて了承した。服の上から、心臓の上に手を当てる。

「このように華奢な手に、なぜこうも癒されるのか……」

「あ、あの」

 手を引こうとしたら、逆に腰を引き寄せられた。顎に手がかかる。胸を押し返そうとすると、余計に腰を引き寄せられた。

「……このまま別れたくない。貴方を妃に迎えたい」

「っ!?」

「このように心安らぐのは、初めてです……どうか、私の妃としてこの国に留まってはいただけないだろうか?」

「そんな、無理です。私は、明日には郷に帰りますし」

「無理は承知しております。姫が天狼主あめのおおかみぬしのご寵姫ということも。それでも、私は貴方が欲しい」

「申し訳ありませんが、それは――」

「この国にはまだ、前王の圧政が残っています。命のかがやきを取り戻した今なら戦える。時代の黎明を姫と見たい」

 亜沙子が首を横に振ると、大王は傷ついた表情を見せたが、すぐに冴えた目元に変えた。

「――ならば、力づくで奪うまで」

 大王は強い光を瞳に灯して亜沙子を見下ろした。射抜くような眼差しに、身体の自由を奪われる。

 連子窓から入り込む、薄青い月明かりに照らされた暁暉は、恐ろしくもあり、神秘的ですらあった。

「……な、何もしないで」

 震える声で訴えると、大王は眼をすがめた。あ、と思た瞬間には唇が重なっていた。

「や、め……んぅッ」

 もがく亜沙子を抱きしめて、何度も軽い口づけで唇を奪う。

 暁暉は顔を少し離すと、赤く染まった耳に唇を寄せて、殆ど聞き取れないほど小さな声で囁いた。帰したくない、貴方が欲しい……誘惑の言葉に、亜沙子は必死にかぶりを振った。

「離して……ッ」

 肩を押し返そうともがき、潤んだ瞳で訴える亜沙子の姿に、暁暉の劣情は烈しく刺激されて銀色の瞳が燃えあがった。

 うなじに手がまわされ、頭の後ろをしっかりと固定して、口づけは深まる。亜沙子にはなすすべもなかった。拒絶を口にしようとしても、舌をからめ捕られて声にならない。

 貪るような、荒々しい口づけがいつまでも続く。

 永い口づけがようやく終わった時、二人共息があがっていた。暁暉はぐったりともたれる亜沙子を腕で支えて、慈しむように頬を撫でた。赤く腫れて、濡れそぼった唇を親指でぬぐう。

「……今夜はこれで我慢しましょう。明日、天から迎えがきたら、戦いを挑む。私が勝った暁には、貴方の全ては私のものだ」

 絶句する亜沙子を数秒ほど眺めてから、大王は静かに部屋を出た。亜沙子は我に返ると、すぐに扉に駆け寄った。

「え……」

 鍵をかけられていた。慌てて室内を見渡すが、他に出ていけるような扉はない。

(閉じこめられた?)

 ぞくっ、と身体に震えが走る。心臓が煩いほど音を立てて鳴っている。

「誰か、いませんか?」

 扉を叩いても、辺りはしんとしている。もう少し声を張り上げてみたが、返事はなかった。

 明日になれば、笹良が迎えにくるはずだ。暁暉は本当に戦いを挑むつもりなのだろうか?

 眼裏まなうらに、銃器を持つ兵士の姿が蘇る。いくら天狼といえども、銃に勝てるとは思えない。

「どうしよう……知らせないと……」

 解決の糸口を探して、部屋の中をうろついたが、手掛かりは見つけられなかった。この世界には、便利なインターネットがないのだ。

 どう伝えればいいか頭を悩ませているうちに、空は刻一刻と黄昏れて、夜のとばりが地平線まで降りてきた。空の移ろい眺めていると、はっと閃いた。

「そうだ! これ……」

 胸に忍ばせていた香を取り出し、亜沙子は空を仰いだ。部屋には火を灯された行灯あんどんもある。

「一世さん、気づいてくれるかな」

 やってみるしかない。一縷の望みを託して、亜沙子は火を点けた香を窓辺に置いた。





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