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燈幻郷奇譚  作者: 月宮永遠
3章:人と天狼の轍
31/42

29

 邸に戻ると、一世は人の姿に戻り、引きずるようにして亜沙子の手を引いた。

「一世、その恰好で邸をうろつかないでください。二人とも薄汚れていますよ。湯を浴びてくるとよろしい」

 紫蓮が窘めると、一世は不機嫌そうに眉をしかめたものの、傍に灯里を呼んで、亜沙子の湯浴みを指示した。

「亜沙子、あとで部屋にきなさい」

 平坦な口調だが、有無をいわせぬ響きがあり、亜沙子はこくりと喉を鳴らした。

「……はい」

 返事を聞くなり、一世は背を向けて邸に入った。

「さ、姫様。こちらへ」

 灯里に優しく背を押されて、亜沙子は頭を下げた。

「ごめんなさい、迷惑をかけてしまって」

「ご無事でようございました。さ、湯浴みをして、綺麗にしましょう?」

「……はい」

 亜沙子は悄然しょうぜんと答えた。

 いつもより時間をかけて風呂に入ると、襦袢に着替えて丈の長い羽織をかけた。

 心胆しんたんを整えて部屋を出たものの、足取りは重い。一世の顔を見るのが怖かった。

 ついつい立ち止まり、廊下の連子窓から庭を眺めていると、対面から紫蓮がやってきた。

「こんなところで、どうしたんですか?」

「……」

「一世が呼んでいますよ」

「……判っています」

「泣きそうな顔をしていますね」

「……」

「そんな顔をするくらいなら、素直に郷に残るといいえばいいものを」

 唇を噛みしめる亜沙子を見て、呆れたように紫蓮はいった。

「もう判ったでしょう? 彩国へいくと強情を張っても、一世を怒らせるだけですよ。やめておきなさい」

「いいえ、もう決めたんです」

「全く、気が弱いのか強いのか、よく判らない子ですね。子供が我慢をするものではありませんよ」

「子供じゃありません」

「そういううちは、子供なのです」

 紫蓮は、薄紫の瞳でじっと亜沙子を見つめると、懐に手を入れて、厚みのある袱紗ふくさを取り出した。

「どうしてもいくのなら、これを持っておいきなさい。好きに使っていいから」

「これ……」

 中に詰まった紙幣を見て困惑する亜沙子に、今度は小さな香り袋を握らせた。

「さしあげます」

 桜の優しい香りが漂い、亜沙子は表情を綻ばせた。

「いい匂い」

「彩国にいっても、寂しくないように。郷に戻るまでのお守りです」

 袱紗と、片手におさまる香り袋を、亜沙子は両手で胸に抱き寄せた。郷に戻ってくることを、当たり前のように示唆されて嬉しかった。烈迦の言葉に傷ついていたので、尚更である。

「ありがとう、紫蓮さん。大切にします」


「一世と、よく話し合うように。明日の昼には、笹良がきますからね」

「……一世さんに、呆れられてしまったかな?」

 視線で先を促す紫蓮を見て、亜沙子はいい辛そうに口を開いた。

「勝手に抜け出して、烈迦さんも巻きこんで、迷惑かけて……結局、ここへ戻ってきたりして……私、何をしているんだろう」

「烈迦に何をいわれたのか知りませんが、傷つく必要はありませんよ」

「でも……私は人間です。皆、口にはしないけれど、私が郷にいることで、嫌な思いをしているのではないでしょうか?」

 紫蓮は呆れたように亜沙子を見た。ため息をつくと、琺瑯ほうろうのように白い手を伸ばし、亜沙子の頭を優しく撫でた。

「人間は嫌いですが、亜沙子は別です」

 きっぱりとした答えに、亜沙子は淡くほほえんだ。

「ありがとうございます。私も紫蓮さんのことが大好きです」

「誰も好きとはいっていませんよ」

 相変わらず、物言いはツンツンしているが、優しい天狼だ。亜沙子がほほえんでいると、紫蓮は眼を眇めた。

「私、さとに戻ってきてもいいですか?」

「当たり前でしょう。第一、自分がどれだけ脆弱か判っていますか? 貴方はそそっかしいのだから、私達が傍にいないと不要な怪我を負いますよ」

「酷い、紫蓮さん」

 亜沙子は非難がましくよろめいて見せたが、紫蓮には通用しなかった。

「一世の前では、間違っても戻らない、なんていってはいけませんよ」

「判っています」

「迷惑をかけるから、という言葉も禁止です。どうせ一世から逃げられやしないのだから、観念して傍にいなさい」

「……一緒にいても、いいのかな?」

「当たり前でしょう。堂々としていなさい」

「……」

「一世は貴方をとても大切に思っていますよ。それくらい、判るでしょう?」

「……でも」

「いっておきますが、亜沙子といると、一世の顔は緩みっぱなしですよ。抑えても抑えても、自然に零れてしまうような笑みを浮かべているのですから」

 不覚にも視界が潤み、亜沙子は慌ててうつむいた。紫蓮は腰を屈めて、亜沙子の顔を覗き込んだ。

「どうして泣くのです?」

「なんでもありません」

 顔を上向けて眼を瞑った。手の甲を瞼に押し当てて、涙が引くのをじっと待っていると、紫蓮は亜沙子の肩を抱き寄せた。

「私が泣かせたみたいではありませんか。泣きやみなさい」

 大きな掌に頭を撫でられて、亜沙子の胸はいっぱいになった。衝動的に背に腕を回して抱き着くと、紫蓮は亜沙子の背中をあやすように叩いた。

「――何をしている?」

 低めた声にぞくっとした。声のした方を向くと、鋭い瞳をした一世がいた。





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