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燈幻郷奇譚  作者: 月宮永遠
3章:人と天狼の轍
30/42

28

 天狼は美しい。

 烈迦を見て、改めてそう思った。

 琥珀の瞳は、闇夜でも爛と光り、千里を見透すように彼方を見据えている。風になびく艶やかな黒髪。背に広がる黒い双翼は、蒼白あおじろの月光を浴びてきらきらと煌いている。

 亜沙子は、烈迦の逞しい腕に横抱きにされて、闇夜を飛んでいた。彼の住処へ運ばれている途中である。

 遠くで、梟が啼いている。

 梢の揺れる音、夜那川のせせらぎ。夜に息づく鳥獣の声……腹はくくったつもりだが、幻燈郷から離れていくほどに、なんともいえぬ哀愁が胸にこみ上げた。

 もう、一世に会えないかもしれない……

 静かに涙する亜沙子を見て、烈迦は複雑そうな表情を浮かべた。

「……着いたぞ」

 涙を拭うと、亜沙子は顔を上げた。

 前方に、黒い塊が見える。否、夜闇に聳え立つ断崖絶壁だ。黒一色で塗りこめたような絶壁は、点々と篝火かがりびが焚かれており、そこだけ明るく輝いて見えた。

 壁に開いた小さな穴は、近づくにつれて大きくなっていく。

 どうやら、岩場の洞窟が彼の住処のようだ。

 烈迦は亜沙子を抱えたまま、吸いこまれるように洞窟の中へ入った。

 岩場に足がつくと、腕の中の亜沙子を丁寧に下ろす。身体の強張りが解けず、よろめく亜沙子の身体を烈迦は何もいわずに支えた。

「すみません」

「……いや。案内しよう」

 驚くことに、洞窟の中は、外観の威容に反して非常に洗練されていた。

 丸みを帯びた天井には、色彩豊かな絵が描かれており、円環の照明が鎖で吊るされている。てっきり薄暗いのだろうと思っていたが、金色の柔らかな光に照らされて、とても明るい。

 壁に連子窓もあり、外の様子を覗ける造りになっている。瀟洒しょうしゃ屏風びょうぶに青磁の壺、品の良い調度が置かれて、香まで焚かれている。

「すごい……」

 思わず感嘆の声を漏らす亜沙子を見て、烈迦は気をよくしたように尾を揺らした。

「そこに座れ」

 広い居間に入り、烈迦は絨緞を指した。亜沙子が腰を下ろすと、烈迦もあぐらをかいて座った。頬杖をついて、じっと亜沙子を見つめる。

「……あの、黙って出てきてしまったけど、一世さんが心配しているかもしれません。ここにいることを、伝えていただけませんか?」

 烈迦は呆れたような目で亜沙子を見た。

「そんなことをしたら、すぐに連れ戻しにくるぞ。あとで笹良には伝えてやる。彩国へいくのだろう?」

「そうですけど……烈迦さんは、一世さんが怖くないんですか?」

「亜沙子を連れ出したと知れば、あいつは怒るだろうが、怖くはない。最近、力比べをしていなかったから、ちょうどいいな」

 烈迦は鷹揚おうように笑うと、隅に立てかけてあった月胡を手にとり、気落ちしている亜沙子に手渡した。

「何か弾いてくれ」

「……あんまり上手に弾けないのですけれど、それでもよければ」

 恐縮する亜沙子を見て、烈迦はほほえんだ。

「謙虚だな。いい音だったぞ。この俺が、思わず音を探してしまうほどに」

「……ありがとうございます」

 勇気づけられた亜沙子は、心胆を整えると、そっと弦をつま弾いた。毎日のように弾いている曲だが、人に聴かせると思うと緊張する。

 夜の静寂しじまに、月胡が響き渡る。

 弦を押さえているうちに、緊張は自然と解けていった。音を愉しみながら弾けば、烈迦も心地よさそうに瞳を閉じた。

 最後の音を紡ぎ、亜沙子が余韻に浸っていると、ぱん、と手が鳴った。

「いい腕をしている。音が跳ねているようで、聞いていると気持ちが明るくなる」

 まじりけのない賞賛の言葉に、亜沙子は照れて視線を伏せた。

「ありがとうございます」

 俯けた視界に手が映ったと思ったら、肩に流れる髪を一房、柔らかく摘まれた。

「夜那川から流れてきたと聞いたが、本当か?」

「……はい、本当です。川というか、白い霧に浚われたような感じでしたけど」

 髪を梳く指に気を取られながら、亜沙子は答えた。

稀有けうなことだ。天狼の郷はどうだ?」

「はい、とても良くしていただいています。空気も食事も美味しいし、天狼はかわいいし、最高ですよ」

「そうか」

 烈迦はさして興味もなさそうに頷いた。

「あの……烈迦さんは、どうして郷で暮らさないのですか?」

「群れるのは苦手でな。独りの方が気楽なんだ」

「寂しくありませんか?」

「いや。独りといっても、同胞の住む蓬莱山にはいるしな」

「そうですか……郷は毎日、賑やかですよ」

「知っている。お前は、一世を好いてるのか?」

 返事に詰まる亜沙子を、烈迦は目を細めて見つめた。

「やめておけ。ここにいても傷つくだけだぞ。同族同士、人間の集落で暮らした方がいい」

「……」

「あいつは、歴代の天狼主あめのおおかみぬしの中でも格別だ。傍に侍りたがる天狼も天女も大勢いる。今は寵姫でいられても、すぐに飽きられるぞ」

 亜沙子は茫然となった。眼の前にいる烈迦が陽炎かげろうのように揺らめいて、慌てて目をしばたく。

「一世が笹良にたてついたことは、他の神の知るところでな。少々、顰蹙ひんしゅくを買っている」

「え?」

 我に返って亜沙子が訊き返すと、烈迦は憂鬱そうな顔で腕を組んだ。

「どうやら、お前を彩国へ預けて、郷心がつくことをおそれているらしい」

「私はそんなこと――」

 やれやれ、と烈迦はため息をついた。

「一世は、どうしてそこまでお前に惹かれたのだろうな。確かに、月胡の音色は美しいが」

 唐突に腕を引かれて、亜沙子は烈迦の腕の中に転がりこんだ。

「あ、あのっ?」

 身体を離そうと試みるが、烈迦は離そうとしない。

「……小さいな。こんな手足で、まともに走れるのか?」

 烈迦は亜沙子の手をまじまじと見つめて、感心したように呟いた。

 居心地は悪いが、いやらしさは全くない。子供を見るような眼差しだからだろう……そう思っていたが、こめかみに唇を押し当てられて、背筋がふるえた。

「ひぃっ」

「色気のない声だな」

「ちょっと」

「暴れるな」

「え、ちょっと」

「前から不思議に思っていた。一世は、どうしてお前のようないとけない娘に溺れたのか」

 胸のふくらみを手の甲で擦られて、亜沙子は声にならない悲鳴を上げた。腕を振って暴れても、いともあっさり封じられる。襟の内側に指が入り、前をくつろげられた。鎖骨まで肌が露になると、亜沙子はいよいよ涙目になった。

「すみません、やめてください。本当に!」

 烈迦は亜沙子を見下ろすと、端正な顔を下げて、涙の滲んだ眼淵まぶちを舌で舐めた。

「ッ!」

「……泣いていると、そそられないこともない。濡れた瞳に、心を動かされたのかな」

「ぅ……離して」

 烈迦は首を傾げると、亜沙子の首すじに顔を埋めた。柔らかく肌を吸われて、亜沙子は悲鳴をあげた。

「ッ!? 嘘、やだっ!」

 涙声で訴えるても、烈迦は止まらない。膝で足の合間を割られた。身の危険に恐怖していると、突然、窓の外が昼間のように発光した。

 鉤裂かぎざき状の稲妻が空に走り、耳をろうする雷鳴が辺りに響いた。

 地響きのような雷鳴に、亜沙子は思わず両耳を塞いだ。烈迦も身体を起こすと、窓の外に鋭い視線を投げた。

「……驚いたな。本当に人間の娘を取り返しにくるとは」

 亜沙子は着崩れた服を手で押さえ、ずりずりと尻で後じさった。烈迦は亜沙子に目もくれず、注意深く耳をそばだてている。

 天から、ぽつと雫が垂れた。

 雨の連なりはたちまち牙を剥き、礫のような雨粒に変わった。

 烈しく窓硝子が揺れて、亜沙子は小さな悲鳴を上げた。窓の外は土砂降りの豪雨だ。

「……お前も災難だな」

「え?」

「空が荒れている。天狼主の寵姫である限り、この先も、天帝や彩国の人間に目をつけられるぞ」

 戸惑う亜沙子を振り返り、烈迦は少し気の毒そうな顔をした。

「いとけない姫よ。夜那川に流されるとは、ついていなかったな」

「そんなことありません」

 亜沙子はきっぱりと即答したが、烈迦は、変わらずに憐憫の眼差しを向けてくる。

永久とこしえの暮らしも、そのうち飽きがくる。惚れた腫れたも、百年繰り返せば醒めるぞ。その時にはもう、人間世界に馴染めないだろう」

「……郷の暮らしに、飽きることなんてありません」

「悪いことはいわない。山を下りて、人間の郷で暮らせ」

「……」

「一世が何といおうと、天帝の命に背くのは得策じゃない。あいつを想うのなら、何もいわずに彩国へいってくれないか?」

「……始めから、そのつもりです」

 烈迦は意外そうな顔をした。真意を探るように、じっと見つめてくる。

「私のせいで一世さんが困ったことになるのは、不本意です」

「戻ってこれないかもしれないぞ」

「笹良さんは、三日でいいとおっしゃっていました」

「どうだかな」

「……その時は、どうにかして郷に帰ります。どっちにしたって、明日には迎えがくるんですから、いくしかないじゃないですか」

 少し苛立ちながら亜沙子がいうと、そうだな、と烈迦は失言を詫びた。

「俺にいえた台詞ではないな」

「いえ、こちらこそ……迷惑をかけてばかりですみません」

 土砂降りの雨音だけが聴こえる部屋で、束の間、見つめ合った。


「――出てこい! 烈迦ッ!」


 感傷を帯びた沈黙は、怒りの咆哮に破られた。

 烈迦は窓の外に目を向けると、好戦的な笑みを浮かべた。戸口に向かって走ると、外へ飛び出すと同時に天狼の姿になった。

 オォッ! 裂帛れっぱくの気合いで、一世に飛びかかってゆく。

 亜沙子は戸口に座り込み、祈るように空に仰いだ。

 暗闇に、蒼い閃光が走る。

 天狼の衝突は凄まじかった。

 目がおいつかず、その俊敏な動きは、彗星が尾を引いているように見える。

 激闘は、しばらく続いた。

 風も空も山も、神罰が下ったかのように荒れていたが、やがて雨は上がった。

 ものすごい速さで雲は流れていき、重たく圧し掛かかっていた雨雲は、四方へ霧散した。

 雲の切れ目から、満点の星空が覗く。

 洞窟に戻ってくる二頭の天狼を見て、亜沙子は安堵に胸を撫でおろした。

 どんな大惨事になるかと畏れていたが、烈迦も一世も無事だ。ただ、烈迦の方は肩を負傷しているようだ。

 一世は人の姿に変わると、戸口にへたり込む亜沙子の傍に膝をついた。

「亜沙子」

 亜沙子は緊張のあまり、小刻みに震えていた。青い冷気を和らげると、一世は悩ましげなため息をついた。

「……そう怯えるな」

 雨に濡れた冷たい手で、一世は亜沙子の頬を撫でた。その手に、亜沙子が自分の手を重ねると、表情を和らげた。

「きゃっ」

 目を閉じていたら、急に抱き上げられ、亜沙子は慌てて首に腕を回した。

 一世は、壁にもたれかかる烈迦に目もくれず、亜沙子の額、瞼、頬……順に唇を落とす。亜沙子の方は、烈迦の視線が気になって仕方がなかった。

「い、一世さん! 烈迦さんも、怪我はありませんか?」

 亜沙子を抱いたまま、一世は冷たい視線を烈迦に投げかけた。

「暴れたいなら、いつでも相手になってやる。だが、私の元から亜沙子を奪うことだけは許さぬ――次はないぞ」

 声の調子を落とすと、一世はきつく烈迦を睨んだ。烈迦は血の滲む肩を押さえているが、強い視線で応じた。

「一世、本当に天帝に背く気か? 大人しく、姫を彩国へ渡せ」

「ならぬ」

「全く、人間嫌いはどうした? いいから、彩国にいかせてやれ。同族同士で番わせてやるべきだ」

「ふざけるなッ」

 びりびりと空気が震えた。

 亜沙子は、放たれた言葉に頭を鈍器で殴られたかのような衝撃を受けた。郷の全員に受け入れられるとは思っていない。判っていた。それでも、一世の前でそんなことをいってほしくなかった。

「全くお前らしくない。天帝に背くな。たかが三日くらい我慢しろ……離れている間に、内面をかんがみたらどうだ?」

「……何だと?」

 凍てつく針のような視線に臆すことなく、烈迦はひょいと肩をすくめてみせた。

「よく考えろ」

「考えるまでもない。亜沙子は渡さない。何があっても」

 きっぱりと告げると、一世は亜沙子を抱いたまま、踵を返して洞窟を出ていこうとした。

「亜沙子」

 烈迦に声をかけられて、亜沙子はびくりと肩を震わせた。

「いい音色だった。達者に暮らせ」

 烈迦は優しい微笑を浮かべた。亜沙子は言葉が出てこなかった。束の間、一世の肩越しに見つめ合う。

「……帰るよ」

 静寂を小さく破り、一世は今度こそ洞窟の外に出た。





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