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燈幻郷奇譚  作者: 月宮永遠
3章:人と天狼の轍
23/42

21

 穏やかながらに、気ぜわしく日々は過ぎ――


 幻燈郷へきて早一年。

 花鳥風月の長閑のどかな郷で、亜沙子は、天狼達に囲まれて穏やかな暮らしを送っている。

 かつて身を置いていた都会の喧騒は、もはや遠い世界の出来事だ。今は、蓬莱山と天狼に護られながら、満ちたりた毎日を送っている。

 ある穏やかな日和ひよりに、亜沙子は凛夜達と川遊びに出かけた。

 夜那川の上流は川幅が狭くて浅く、遊ぶのにちょうど良いのだ。

 子供たちは天狼の姿になると、喜々として水に入り、盛大に飛沫をあげ始めた。亜沙子は水がかからぬよう避難して、木陰で寛いでいる。

 夜那川は、眺めているだけでも気持ちが良い。

 柔らかな木漏れ日、清水のせせらぎ、岸辺に咲いた菜の花や春紫苑ハルシオン。水面を照り返す無数の光の瞬きが風に揺れて、星のように煌いている。

 離れていても、木陰で休む亜沙子のところまで、時々、飛沫が飛んでくる。

 日除けの傘を傾けたり、蚊遣かやりをいたり、細やかに亜沙子の世話をしていた和葉は、遠慮構わず水を跳ねさせる凛夜に向かって唸り声をあげた。

「凛夜! もう少し離れておくれよ。姫様が濡れてしまう」

 そういった傍から、凛夜は嬉しそうに亜沙子の傍まで飛沫を跳ねさせながら駆けてきた。

「凛夜ッ!」

 和葉は鋭い声を放った。

「えっ? あ、ごめん!」

 ぺたんと耳を伏せる凛夜の頭を、亜沙子は優しく撫でた。

「いいよ。ここで見ているから、気にせず遊んできて。和葉も、いっておいでよ」

「でも……」

 和葉は迷ったように亜沙子と凛夜を見比べたが、もう一度いっておいで、と亜沙子がいうと、はにかみながら頷いた。落ち着いた雰囲気の知的な少年だが、まだまだ水遊びが楽しい年頃なのだ。

 一人でのんびりしていると、上流の茂みが揺れて、黒毛の天狼が姿を見せた。立派な体躯の、この辺りでは見かけない天狼だ。

「……ん?」

 傍へ寄ってみると、前脚に血が滲んでいることに気がついた。

「怪我しているの?」

 少し離れた処から訊ねると、天狼は尾をゆるく揺らした。

「ちょっと待ってね」

 亜沙子は川に駆け寄ると、手拭を水に濡らして硬く絞った。黒狼の元へ戻り、両手を広げてみせる。

「おいで」

 黒狼は逡巡してから、亜沙子の傍へやってきた。透き通った銀色の瞳をしている。

「血を拭くからね?」

 断ってから、患部にそっと手巾を押し当てた。

 天狼は逃げなかった。身体を伏せて、心地よさそうに目を閉じている。亜沙子は優しく血を拭いてやった。

「……良かった、そんなに深くないみたい。喧嘩でもしたの?」

 頭を撫でると、天狼は甘えるように頭を亜沙子に擦りつけた。

「あら……」

 さらさらとした毛並みに指を滑らせ、頭から首、胸元の柔らかな黒毛を優しく撫でる。

 天狼は気持ち良さそうに喉を逸らした。亜沙子は喉の下を撫でながら、ねぇ、と呼びかけた。

「どこからきたの?」

 天狼は亜沙子の手をぺろっと舐めると、おもむろに立ち上った。

「いくの?」

 名残惜しく思いながら訊ねると、黒狼はゆっくり振り向いた。神秘的な銀色の瞳で、じっと亜沙子を見つめる。

「……人の娘、お前はどこからきた?」

 低く落ち着いた声で、黒狼は訊ねた。

 亜沙子は返答につまり、思慮深い瞳を見返した。黒狼も、じっと亜沙子を見つめている。

「姫様――ッ」

 威勢の良い声に振り向くと、川遊びをしている凛夜達が、一斉に駆けてくるところだった。

 再び視線を戻した時には、黒狼はどこかへ消えてしまった。

 呆然としているうちに、凛夜はすぐ傍までやってきた。

 子供といえど立派な体躯で、亜沙子を頭からまるかじりできそうなほど、口も大きい。

 昔は、駆け寄ってこられると本能的な恐怖を感じたものだが、もう慣れてしまった。

「はいはい、ゆっくり動いてね」

「大丈夫!?」

「平気だよ。ねぇ、今ここにいた天狼、誰か知ってる?」

烈迦れっか様だよ。郷の外で暮らしていて、あんまり姿を見せないんじゃ」

「へぇ。怪我していたみたいだけど、どうしたのかな」

縄張しま哨戒しょうかいだと思う。烈迦様は人間嫌いで、麓の境界にも目を光らせているから」

「そうなんだ……」

 声の調子を落とす亜沙子を見て、凛夜はしまったという顔をした。

「姫様のことは、群れの皆が受け入れている。烈迦様だってそうじゃ」

「……ん、ありがとう」

「ただ、烈迦様にはあまり近づかん方がええよ」

「そう?」

 短い邂逅ではあったが、嫌われているとは思わなかった。呼べば歩みより、傷に触れさせ、大人しく亜沙子に治療させた。ただ、物憂げな瞳をしていたことが気になる。

「姫様?」

「どうしたの?」

 黙考していると、天狼の子供達に取り囲まれた。心配そうに亜沙子を見ている。

「大丈夫よ」

 腰を下ろすと、天狼も亜沙子の傍で丸くなった。尾を左右に揺らしながら、甘えるように鼻を鳴らす。

「ふふ」

 思わず笑顔になる亜沙子の頬を、天狼達は代わる代わる舐めた。不思議と獣臭くない。彼等は、いつでも爽やかな新緑と木犀の匂いがする。

 暖かな陽射しに、眠気を誘われる。天狼の群れに囲まれて、亜沙子は幸せな心地で目を閉じた。

 凛夜と和葉も、亜沙子を挟んで伏せると、前脚に頭を乗せて目を閉じた。ふわふわとした毛並みに癒されながら、亜沙子は微睡んだ。


 水の跳ねる音が聴こえる。

 目を開けると、白く輝く水面の煌きと、飛び跳ね、飛びかかってじゃれ合う天狼達の姿が見えた。

 少し眠っていたようだ。

 凛夜は元気に跳ねているが、和葉は天狼の姿のまま、亜沙子の傍にいる。ぼんやりしている亜沙子の頬を、ぺろりと舐めた。

「……あふ、寝ちゃった」

 生欠伸をこさえると、持ってきた月胡を構えた。

 眠気覚ましに弾き始めると、川で遊んでいた天狼達は再び亜沙子の周りに集まってきた。

「何? この曲は何?」

 聞き慣れない音楽に、子供達は興味津々だ。

「私の育った国で、流行っていた曲よ」

 なんとなく、ビートにのったポップスを弾いてみる。肩を揺らし、リズムをとってみせると、天狼も亜沙子を真似て、四つ足でリズムを取り始めた。

「ふふっ、かわいい」

 首を上下に動かして、前脚でリズムをとる姿がとてもキュートだ。

 和葉だけは、リズムをとる他の子供達を冷静に見ていたが、次第に首を前後させ、一緒になってリズムを取り始めた。あまりのかわいらしさに、亜沙子は身悶えそうになった。

 曲のしめくくりに和音をかき鳴らすと、天狼は空に向かって一斉に遠吠えをした。和葉も一緒になって吠えている。

 へぇ、こんな一面があるんだと亜沙子がほほえましく思っていると、和葉は人の姿に戻り、誤魔化すように咳払いをした。

「……コホン。いい曲ですね」

 いつもは涼しげな目元を、朱く染めている。照れている。今の振る舞いは、彼にとって計算外だったようだ。

「かわいいなぁ、もう!」

 胸に沸き起こった衝動を堪えきれず、亜沙子は和葉の頭をぎゅっと抱えこんだ。すると、我も、我も! と他の天狼も頭を突き出してきた。

「皆かわいいなぁ~」

 デレッデレになりながら、亜沙子は天狼の頭を順番に撫でた。至福だ。彼等さえ良ければ、一日中だって、こうしていられる。

「姫様、今日は夜まで遊べるか?」

 凛夜の言葉に、亜沙子は笑顔で頷いた。

「いいわ。今日も一世さん、遅いと思うし」

「そうなのか?」

「うん。お山でいろいろ問題が起きているみたい。凛夜達は困ったことはない?」

 子供達はお互いの顔を見比べた。

「俺らは平気。ここのところ、彩国が物騒じゃから、大人衆は警戒しとる」

「豊かな国と聞いているけれど、そうでもないの?」

「彩国の王は戦上手で、まつりごとでも八面六臂はちめんろっぴに手腕を発揮するそうじゃが、他国よそと同じで問題がないわけじゃない」

「問題って?」

「二年の間に三度も川が氾濫したんじゃ。大王は病気じゃし、天帝も愛想を尽かして、治世をお見放しになったんじゃ」

「え、ご病気なの?」

 脳裏に、夏祭りで見た美丈夫の姿がよぎった。

「そういう噂じゃ。疫病や天災は、土地の加護がないと防げん。それで、国の舵取を憂いて、幕僚ばくりょうが内乱を起こそうとしているんだとか」

 もしかして、あの夜、彼は息災祈願の為に夏祭りにきていたのだろうか?

「……前にも、蓬莱山の結界が荒らされたと聞いたけれど、彩国の人がお山に入ろうとしているの?」

 亜沙子の問いに、それはない、と凛夜は即答した。

「麓をうろついている連中はいるが、お山の中には入れんよ。強力な結界がある。第一、宗主様や天帝がお赦しになるものか」

「……そうだよね」

 ぽつりとつぶやきながら、亜沙子はなんともいえに不安な気持ちをかきたてられた。

 この先どうなるのか――答えを探すように蒼い空を仰ぐと、パンッ、長閑のどかなお山に不釣り合いな、乾いた鉄砲の音が響き渡った。





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