19
日が暮れて、夜の帳が降りてきた。
町人風に変装をした亜沙子は、蓬莱山の麓で催される千年天満神社例大祭に、これから繰り出すところだ。
「姫様、お気をつけていってらっしゃいまし」
玄関まで見送ってくれる灯里に、亜沙子はほほみかけた。
「お土産は何がいいですか?」
「お気遣いなく、楽しんできてくださいまし」
そういいながら、帯を直してくれる。
今日の亜沙子は天女の衣装ではなく、町娘に扮している。
桜刺繍の単衣に、くちなし色の帯を合わせ、木綿の草履をはいている。肩から斜め掛けにしている金紗縮緬のがま口の鞄は、灯里のお手製である。
「一世の傍を離れてはいけませんよ。貴方はそそっかしいのだから」
紫蓮の言葉に、はい、と亜沙子は素直に頷いた。
「私がついてるのだから、心配あるまい」
質素な藍染の着物に、長い袋包みを肩にかけた一世が、玄関先に姿を見せた。
「わぁ、一世さん、書生みたい! 素敵」
通力で耳や尾を隠し、青銀の髪は黒く見せている。いつもとは違った雰囲気だ。だが、この世のものとは思えぬ端正な顔立ちは相変わらずである。
「ふふ、変装だよ。似合う?」
「よくお似合いですよ」
「ありがとう。亜沙子は今日もかわいい。世界で一番かわいいよ、私のお姫様」
「ッ」
そういって、頭のてっぺんに羽のようなキスを落とす。甘い仕草に亜沙子は視線を泳がせた。
「駕籠の準備が整っていますよ」
紫蓮が呼びにきて、亜沙子はようやく顔を上げることができた。これほど亜沙子の心を掻き乱した一世は、楽しそうに紫蓮と言葉を交わしている。
今日は仰々しい輿や飛車ではなく、庶民の乗り物、人力の駕籠を門の前に呼んである。といっても、担ぐのは人間に扮した天狼である。
「では、いってくる」
二人乗り用の駕籠に、亜沙子が先に乗り、次に一世も乗りこんだ。
「いってらっしゃいませ」
使用人達に見守れて、駕籠は動き始めた。
窓から外を覗くと、月明りに照らされ、夜那川は銀斑に煌いていた。
いい夜だ。
薄靄の漂う万世橋を越えて、妖の通る九十九折りの山道を下っていく。足場の悪い隘路でも、天狼には問題ない。
お山のどこを見ても、荘厳で崇高な雰囲気に満ちていた。
鬱蒼と茂る樹齢千年を超える桜の大樹。蓬莱山に八百万の神々が住むというのも頷ける。
蓬莱山の麓に出ると、間もなく苔むす石灯篭に照らされた石畳の参道が見えてきた。
ぴぃ、ひゃら、ひゃっ、ドドン……
遠くから祭囃子の音頭が聴こえてくる。
千年天満は、人間に妖、一世のように徳の高い神仙も寄りつく、賑いを見せる街だ。
往来の盛んな通りには、所狭しと大小の露店が並び、声を張り上げて道ゆく人々を呼びこんでいる。
初めて見る街なのに、遠い記憶を呼び起こすような、不思議な懐かしさを覚えた。猥雑とした喧騒は、渋谷界隈に通ずるものがある。だが、廃棄ガスやアスファルトの匂いは微塵もしない。
異国の香華に、滴るような新緑の香り。
燈幻郷にはない、濃密な夏の匂いがする。
無数に灯る朱金の提灯。ノスタルジックな夏の風情。妖と人が共存する、猥雑で活気に満ち溢れた不思議な街だ。
「亜沙子」
一世は、佩珠の擦れ合う涼しい音をさせて亜沙子を振り向くと、亜沙子の手を覆った。
「物珍しいものがあっても、駆けてはいけないよ」
「はい」
「迷子にならないよう、私の傍を離れてはいけないよ。もちろん、知らない人間にも妖にもついていったら駄目だからね?」
子供にいい聞かせるような口調に、亜沙子は小さく噴き出した。
「そこまで子供じゃありませんよ。いくら何でも過保護です」
「口煩くてごめんね。でも心配なんだ。亜沙子が邸で暮らしていることは、耳聡い者ならもう知っているからね。よからぬ輩が亜沙子に近づくかもしれない」
一世の真剣な表情を見て、亜沙子も笑いを引っ込めた。
「判りました。よく気をつけます」
実際、彼の忠告がもっともであることは、往来を数歩もいかぬうちに証明された。
「寄ってらっしゃい、見てらっしゃい! 世にも不思議な一つ目男、火を噴く火炎男、これぞ千年天満名物、怖い怖い見世物小屋はこっちだよ!!」
「いらっしゃ~い! 冷えた氷菓子、氷飴、果実水はいかがですかー?」
と、このように商売人の呼びこみが半端ないのだ。
世間知らずな亜沙子が一人で歩いていたら、身ぐるみ剥され、悲惨な目に合う可能性は高い。
「……よく判りました。十分に気をつけます」
「そうして。亜沙子は世間知らずなのだから、よく警戒しないといけないよ」
「肝に命じておきます。私は気が弱いし、この街をよく知らないから、あんな風に強引に営業されたら、逃げられないかもしれない……」
物見遊山で訪れている観光客に、臆せず営業を仕掛け、手を突き出して金をせびる姿は非常にたくましい。商売人とは皆ああなのだろうか?
難しい顔をする亜沙子の頭を、一世は大きな手で撫でた。
「安心おし。私が傍にいるからね」
「はい! 助かります」
なんとも頼もしい言葉に、亜沙子は心から礼をいった。
夏祭りを心置きなく楽しめるのは、一世が傍にいてくれるおかげだ。彼は先ほどから、この世のものとは思えぬ美貌、隠しきれぬ覇気で、一言も発せずに周囲を威圧していた。
「さぁ、楽しもう。何でも好きなものを買ってあげるよ」
気風のいい申し出に、亜沙子は笑顔になった。
「あの出店の、林檎飴を買ってくださいな」
「よし」
一世は、邸への土産も考慮して多めに買った。亜沙子が幸せそうに飴を頬張ると、他には? と目を輝かせて問うた。
「今のところは……店を覗くだけで、楽しいですから」
心からの言葉だが、一世は不満そうな顔をした。
「飴だけ? 亜沙子は欲がない。もっとねだってくれないとつまらぬ」
「十分、贅沢をさせていただいていますから」
「子供が遠慮するものではないよ」
子供でもありませんし、と亜沙子は笑った。
「美味しそうなものがたくさん。目移りしてしまいますね」
「例えば?」
あれ、と亜沙子は店の一つを指さした。
冷えた麦酒に、夏野菜の盛り合わせを振る舞っている店だ。軒につるされた風鈴が、涼しげな音色を響かせている。
「寄っていく?」
「はいっ」
葦簀張りの縁台に座ると、店の畑で収穫した夏野菜、胡瓜、トマト、茄子に西瓜を盛った笊を出してくれた。砕いた氷で冷えていて、味噌をつけて食べるととても美味しい。
食べ終えたあと、幾らも歩かぬうちに亜沙子は千疋屋を指さして、一世の袖を引っ張った。
「一世さん、餡蜜ですって! 入りましょうよ」
目を輝かせる亜沙子を見て、一世は笑った。
「よく食べるね、亜沙子は」
「花より団子ですよ」
「私も甘いものは大好きだよ」
店は繁盛していた。
渦巻き状の蚊取り線香の焚かれた入り口を、頻繁に人が出入りしている。
暖簾をくぐると、ちりん、と清らかな鈴が鳴った。すぐに勝気そうな看板娘がやってきて、一世を見るなり綻ぶような笑みを閃かせた。
「まぁ、宗主様! いらっしゃいまし。どうぞ、お上がりくださいな」
「久しぶりだね、萩乃。元気にしていた?」
「はい、おかげさまで! ようきてくださいました」
溌剌とした美少女は、うっとりとした表情で一世を見上げた。その様子を傍で観察している亜沙子に気づくと、不思議そうに首を傾けた。
「我が主、こちらの方は?」
「亜沙子という。私の大切な客人なんだ」
一世は亜沙子の背中に腕を回して、軽く抱き寄せた。親密な仕草に亜沙子の胸は弾む。その様子を見て、萩乃は瞳を和ませた。
「聞いていた通り、かわいらしいお嬢様ですね。萩乃と申します。どうぞよしなに」
「ご丁寧に、ありがとうございます。亜沙子と申します。こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします」
亜沙子が頭を下げると、萩乃は驚いたように瞳を丸くした。
「まぁ、お行儀のよいお嬢様ですねぇ」
頭を撫でられて、亜沙子は苦笑いを浮かべた。よもや、自分よりも年下であろう少女に撫でられるとは。
席につくと、間もなく美味しそうな餡蜜が運ばれてきた。至福を味わいながら、亜沙子はてきぱきと働く萩乃を観察した。
「萩乃をじっと見て、どうかした?」
「彼女は天狼ですよね?」
「そうだよ。町人に扮して、諜報をしているんだ」
「そうなんですか? ああしていると、本当に人のように見えますね。すごい美少女だけれど」
ふと、灯里の恋人も千年天満にいることを思い出した。
「そういえば、灯里さんの恋人も、ここで悉皆屋をされているんですよね」
「灯里に訊いたの?」
「はい。お店の場所は知らないのですけれど」
「すぐそこだよ。いってみる?」
「はいっ」
亜沙子が破顔すると、一世は目を細めてほほえんだ。




