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燈幻郷奇譚  作者: 月宮永遠
2章:桜降る蓬莱山
17/42

15

 ここのところ、蓬莱山は雨模様が続いている。

 今朝も、起きたら雨が降っていた。

 亜沙子の部屋の天井には硝子板がはめこまれていて、間断なく降りしきる雨の滴を見ることができる。

 外へ出歩くのは憚れるが、雨の日にも特別の情緒がある。

 今日は部屋の中でじっとしていようと思い、爪の手入れをすることに決めた。

 人にやってもらうのも好きだが、自分でやるのも好きで、ここへくる前の日常では、ネイル道具をあれこれと集めていた。

 こちらでも、灯里に頼んで一通りの道具を揃えてもらってある。

 桐の小箱を取り出して、道具を卓の上に並べていく。爪を整える鋏ややすり、筆や粉、保湿用の香油などなど。

 しとしと降る優しい雨音を聴きながら、爪を整えていく。下準備を終えたら、筆をいて爪を塗る。

 両手を終えて、足の爪にとりかかろうとしていると、灯里が顔を覗かせた。

「姫様、我が主がお見えになりました」

 灯里はおとないを告げながら、亜沙子の状況を見て少し困ったような顔をした。

「お仕度の途中のようですね。少し、お待ちいただきますか?」

「平気ですよ。お通ししてください」

「かしこまりました」

 灯里は礼儀正しくお辞儀をすると、間もなく一世を連れて戻ってきた。

「こんにちは、亜沙子」

「こんな格好ですみません。爪の手入れをしておりました」

 素足の亜沙子を見て、一世は瞳に悪戯っぽい光を灯した。

「私にやらせて」

「え?」

「案ずるな、手先は器用だから」

 そういって、一世は返事も待たずに、亜沙子の足元に跪いた。卓に置かれた小瓶を手に取ると、筆に薄紅の粉をつけて、爪に筆を刷いていく。

「……お上手ですね」

 亜沙子が感心したようにいうと、一世はふんわり尾を揺らした。

「だろう?」

 手慣れていることに疑問を覚えつつ、亜沙子はおとなしく一世に任せた。

 塗り終えたあと、一世は自然に乾くのを暫く待っていたが、ふと思い出したように通力で風を起こした。

「便利ですねぇ」

 そよ風が爪を乾かしていく様を眺めて、亜沙子は感嘆の声を上げた。

「ふふ」

 乾いたあとも一世は跪いたままで、亜沙子の爪先を形の良い指でいらう。

「一世さん?」

 不思議に思って声をかけると、一世はほほえんだ。

「小さな爪だと思って。花びらのようだね」

「そう?」

 照れくさくなって爪先を隠そうとすると、追いかけてきた手に足首をやんわりと掴まれた。

 一世はじっと爪を見つめていたが、何を思ったのか、おもむろに顔を伏せると、親指を口に含んだ。

「一世さん!?」

 足を動かそうとしても、引き留める力に敵わない。一世は飴をしゃぶるみたいに、指の一本一本を口に含んで、丹念に舌でねぶる。

「ッ……」

 昼の明るい中、あるまじき疼きが身体に走り、亜沙子は盛大に狼狽えた。

 唇をきつくかみ合わせ、耐えている亜沙子の窮状を見て、一世はようやく口を離した。

「……な、なんてことするんですかッ!」

 顔を真っ赤にして亜沙子が喚くと、一世はご機嫌をとるようにほほえんだ。

「つい、かわいい指だなと思って」

「っ!? 信じられないッ」

 返事になっていない。睨みつける亜沙子に怯まず、一世はいそいそと衣装棚を物色し始めた。

「ねぇ、亜沙子。これに着替えてみせて」

 一世が選んだのは、淡い紫陽花色をした七宝しっぽう柄の着物だ。袖や裾はひらひらした縫製で、涼しげな金魚のように見える。

「どうして着替えるんですか?」

「私が見たいから」

 笑顔できっぱりと告げられ、亜沙子は返事に詰まった。しかし、断るほどの理由もないので、大人しく着替えることにする。

 衣装を変えた亜沙子を見て、一世は満面の笑みを浮かべた。

「思った通り、よく似合うよ。こっちへおいで、髪を結ってあげる」

 一世は、化粧机の前に亜沙子を座らせると、後ろでまとめた髪を解いて、鼻歌交じりにくしけずり始めた。

 優しい櫛遣いにうっとりしていると、頭のてっぺんに唇が落ちた。

「……一世さん?」

「かわいいね、亜沙子」

 青と金の瞳が優しく細められる。照れくさくなり、亜沙子は視線を前に向けた。

 まるで人形遊びのように、衣装を変えて、髪を結う。何度か繰り返し、そのうち亜沙子は疲れて一世にもたれかかった。

「……瞳を閉じていていいよ。少し休もう」

 優しい手が髪に触れる。丁寧に梳られるうちに、うとうと眠気に誘われていった。

 しとしと、優しい雨の音が聴こえる。

 こんな一日もいいかもしれない――眠る間際、亜沙子はぼんやり思った。





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