六話、花姫の部屋にて一悶着。
ぽつり、とあたしの頬を水滴が伝った。
涙じゃなくて、雨だ。雨。
突然の俄か雨に、あたしたちは慌てて城へと駆け戻った。
とは言えそれなりに濡れてしまい、あたしも花姫も、頭がぺたんとしている。
ドライヤー……ないよね。無理言ってすみません。
あたしたちはセリカさんに見つかる前に、花姫の私室へと急いだ。
その途中、何故か花姫が見事なスライディングを披露してくれた。
廊下磨きすぎじゃない?
いや、その感想は後回しだ。
あたしは花姫の脱げた靴を拾って、数歩先にいる彼女の元まで向かった。道路に捨てられたレジ袋みたいな、花姫の傍へと。
それにしても花姫。かなり鈍くさいよね。
何で障害物のない、真っ直ぐ真っ平らな廊下で転べるかな。
あたしは床に突っ伏す花姫を起こして、一応服をはたいておいた。
廊下は掃除されてピカピカに見えても、ここは土足の世界。どこから何を靴底につけて来るかわかったものじゃない。
「すみません……ぐすっ」
花姫が、涙を堪えて俯いている。
うさぎ様的長い耳が、しょぼくれ垂れてる幻覚が見える。まずいな、あたし。
あまりにも可愛、可哀想なので、あたしは手を引いてゆっくりと歩くことにした。
だってセリカさんに見つからなければいいだけのことだし。走る必要ないよね。
どうせまた、花姫転ぶだろうし。
急がば回れ。それでいこう。
しかし、こうしてるとまるで――――、
「お姉様が出来たみたいで嬉しいです」
花姫が頬を染めて、あたしの手をきゅっと握り返して言った。
……ごめんね。あたしは保育園の先生になった気分だったよ。
意識の齟齬は仕方ない。文化の違いってことかな。
「ジエラは兄弟は?」
一人っ子っぽいなぁ、とか思いながら、あたしは尋ねた。
「妹がいます」
えぇ!?花姫長女ですか?あっても末っ子だと思ったのに。
そうなるとこれは、妹がしっかりとしてるパターンだな、きっと。
でも、花姫みたいな妹だったらどうしよう。
あたしには二人も扱いきれない……。
「ですが、あまり会ったことがないので……」
「え、……どうして?」
訊いてよいものかと迷ったが、気になったので躊躇いがちにだが口にした。
「妹とは異母姉妹なのです。父上には奥方が三人いらして」
ちょっと待てーい!
奥方が三人って何!?正妻と側室ってことじゃなくて?一夫多妻制ってことですか?
なんて贅沢な。……じゃなくて!
だけど花姫がこれでもお姫様だから、父は王様……。
だったら、さもありなんってとこ?
「もっと純情国家だと思ってた……。一夫多妻制だったなんて……」
「いっぷた……?」
きょとんと目を丸くする花姫に、あたしは軽く解説を入れた。
「一人の夫にたくさんの妻ってこと」
「芽生の仰ることとは、違います。この国では、妻も夫を多数持つことが出来ます」
何ですと!?
それは自由すぎるだろう。痴情が縺れに縺れて、刃傷沙汰で国家転覆しませんか?
「それは単なる制度であって、実際に多数の夫や妻を持つのは、一部の限られた方たちだけです」
あ、そうか。そうだよね。財力がなければ、夫でも妻でも食べさせていけないよね。
何を食べるのか、とかは今聞かない方がいいか。何か、流れ的に。
まぁ、後でセリカさんに質問すればいいかな。
そんな話をしている内に、金色のドアノブが光る、両開きのドアの前へと辿り着いた。
「――――着きました。ここがわたくしの部屋です」
そっと開かれたドアを潜ると、花姫は迷いない足取りで寝室の方へと入っていき、残されたあたしは手持ち無沙汰に室内を観察した。
花姫の部屋は広々としていて、割りとシンプルな内装だった。ロココ調とか似合いそうなのに、服装と同じく控えめ。
野の花だからかな。淡いピンクの壁紙が、花姫らしさを表している。
丸テーブルに掛けられた白いテーブルクロスは、角にだけさりげなく、ハルジオンらしき花が刺繍してあった。
……何か妙に雑なんだけど。自分でやりましたか、花姫。
不器用なくせに刺繍とかしちゃ駄目じゃん。
指が血だらけになるでしょ。
ほらぁ、血がついた痕、うっすら残ってるし。
テーブルクロスの染みを指で擦っていると、花姫が戻ってきた。
「――――芽生?」
「……うん。何でもない……」
あたしは落ちないそれから、そっと手を離した。
「わたくしの服で申し訳ないのですが、こちらに御召し替え下さい」
手渡されたのは、花姫仕様のワンピース。
ありがたく着替えさせて貰ったのだが、丈が中途半端だった。七分袖よりは長くて、足首も出る。
それにあたしが着ると、部屋着感が……。
違うな、むしろネグリジェだ。
花姫は本人自体が麗しいから、何着ても様になってたんだ。
あたしだとコットンの緩さが、そのままにじみ出てしまっている。
うわぁ、恥ずかしい。この格好、恥ずかしい!
あたしは堪らず顔を両手で覆い隠した。
「……丈もですが、……胸の辺りが苦しいようでしたら、後で……御直しさせます」
花姫がぽつりぽつりと、そっけない口調で言った。
今、拗ねた?花姫拗ねたよね?
華奢で小柄の花姫よりも、あたしの方が背が高い。
とはいえ、平均身長よりも若干高いぐらいかな。
大体、あちこち花姫とサイズが違うのは仕方ないことなんだから、変なところで拗ねないの。
「むぅ」
「――――姫様!」
花姫が唸ったところで、セリカさんの登場だ。
「どちらにいらしたのですか!」
すみません。外にいました。ごめんなさい。
セリカさんはあたしたちの髪が濡れていることを目聡く見つけて、恐ろしい剣幕で捲し立てた。
「また言い付けを守らず外へと出ていたのですね!?何度言えばわかるのですか!芽生様までお連れして、何かあったらどうするのですか!」
何かって何!?あたしの身に何が!?
萎れきった花姫が、小賢しいことにあたしを盾にしやがった。
セリカさんはさすがにあたしを怒鳴り付けたりはせず、こめかみを押さえて諦めのため息をつく。
「あたしが外を歩いたら、危険なんですかね……?」
「危険というほどではありませんが……。そこまではっきりと人形をとれる使い魔は珍しいので、興味本意で近付いてくる者がいないとも限りません」
珍妙な生物扱いは嫌だなぁ。
「そこまで美しくお姿をとられると、使い魔とはいえ我々と同等の扱いを受けるでしょうし……」
う、美し……って、ああ、あれか。容姿じゃなくて、人の形としてのことね。
あたしの平凡な容姿は、世界を跨げど平凡なままだった。
普通の使い魔はどうなんだろう。
青蜂だったら、蜂の姿だったのかな。
「セリカは、芽生が誰かに取られてしまうことを心配しているのです」
あたしの背中から、はきはきとした花姫の声がした。
いい加減、出てきなさい。話しにくいでしょ。
あたしは顔だけで振り返り、花姫を見下ろした。
「あたしはジエラの使い魔なのに、取られることがあるの?」
奪い合いとか、やめてよ。物理攻撃でしかあたし、対抗出来ないんだから。
「使い魔契約はわたくしとですが、婚姻契約ならば他者とすることも可能です」
……はい?こっちの世界で婚姻?
予想外の展開に、あたしは目を丸くしてセリカさんの方へと顔を戻した。
花姫の言葉を受けたセリカさんが、かぁっと赤く色付いていく。
「私は、そのようなことなどっ……!」
考えてなかったんだよね。うん。わかってるよ。無神経な花姫に、図らずも仕返しされただけだから、泣かないで。
あたしがセリカさんの透明な涙の粒を、そっと指で拭い取ると、彼は茫然とし、さらに赤みを濃くした。
「こっちの世界で婚姻なんてしないから安心してよ」
あたしが素直にそう言うと、セリカさんが突然、はらはらと大粒の涙を流し始めた。
あたしの指をひたひた濡らす涙は、もう拭うどころではない。
セリカさんの眉が切なげに寄せられ、綺麗な瞳があたしを鋭く見据えている。
え?何であたし睨まれてるの?
「さきほどの言葉は全て嘘ですか。私をからかったのですか」
忘れてたー!
しまったぁ。よくわからない告白したんだった。
あたしもしかして、セリカさん傷付くたの?
いやいや、待ってよ。傷付くのおかしいでしょ。
そもそもあなた、あたしのこと好きとかじゃないじゃん!
「それは、つまり……、現時点での話で」
「私は、貴女とのことを真剣に考えていました」
だからそれ、考えちゃだめなやつだって!
真っ赤で泣きながら、一途な顔であたしを見ないでー!
薄汚れたあたしの心が、苦痛に呻く。
胸を押さえるあたしに、花姫がぽつりと愛想なく呟いた。
「やはり、御直しが必要のようですね」
セリカさんが最高潮に赤くなって、終わったはずの花姫への説教が再開されたのは、言うまでもない。
芽生の身長は162cmです。