五話、花姫の淡い恋物語。
あたしと二人きりになった花姫が、ある場所で全てを包み隠さず話すと言うので、早々にセリカさんとの約束を破った。
『かわたれの森』。今は、『たそがれの森』。
その入り口にあたしたちは立っているらしい。
らしい、というのは、あたしたちがいるのも、森の中だからだ。
この森とかわたれの森とは違う。それはあたしにもわかった。
肌で感じる空気、と言えばいいのかな。
かわたれの森は、守り神でもいそうな静謐さがあった。
ここは城の裏手にある小さな森の、静かな湖畔。
……何か、歌みたい。
真っ直ぐに伸びた木々の間を、涼やかな風が時折涼やかに流れてくる。
あたしたちが見つめる先には、一本の大木がそびえ立っていた。
異様な存在感を放つその木の根本には、例の洞。
あたしの身長なら、軽く通れてしまう高さがある。
黒く深い闇が、ぱっくりと口を開けているようで、その恐ろしさに震える。
あたしはてっきり、国と国の間に森が横たわってると思っていた。
だけど、実際は地続きではなく、空間で繋がっているらしい。
花族の住む異空間と獣族の住む異空間を、森が結びつけている。
この洞、じゃなくて花門は、かわたれの森に通じるゲート。転移術……が掛けられてるんだっけ?
あたしは隣にいる花姫をうかがったが、すでにそこには彼女はおらず、湖に目を落として感傷に浸っていた。
完全にあたしのこと、忘れてませんか?
危うく、悲劇のヒロインを湖に突き落とすところだったよ。
あたしは何とか冷静になり、思い留まった。
花姫の隣に並び、透明度の高い水面を覗いてみる。
赤が見えた。次は黄色、そしてピンク、青、緑……。水中には、何種類もの花々が咲きほころんでいた。
あまりの美しいさに、あたしは花姫のことを忘れて見蕩れてしまった。
スノードームみたいに、鮮やかな花びらが浮かんでは揺蕩い、沈んでいく。それをまた、繰り返す。何度も何度も、何度も……。
ごめんね、花姫。これなら、いつまででも眺めていられる。
あたしは感嘆のこもった息をつき、疲れた心を保養した。
♢
「――――あの日は、いつものようにセリカに叱られて、この場所で泣いていたのです」
花姫がしゃがんで、湖の水を手で掬った。
指の隙間からさらさらと零れる水は、涙のようだった。
いつも叱られてるならいい加減慣れようよ。
そう口に出来る雰囲気ではないので、あたしは黙って花姫の隣に腰を下ろした。
「……少しだけ皆を困らせようと、かわたれの森へ家出を」
あたしは花姫に胡乱な目を向けた。
子供か?家出で家族困らせるとか。
「わたくしは忘れていたのです。時が、たそがれの森へと移り変わることを」
自由を満喫して、時間を忘れて遊び回っちゃった、と。うん。
子供か!小学生か!
夕飯よ、と親が呼びに来てくれるとでも思っていたのか。
セリカさん、焦っただろうなぁ。
城を、いや、国を挙げて花姫捜索に掛かったのかも。
今度からは、書き置きぐらいして行きなさい。
「空に、夕闇が迫って来ました。わたくしは慌てて花門のある場所まで駆け、――――転倒してしまったのです」
目に浮かぶ。見てきたかのように思い描ける。
転んで、涙を溜めながら、足首を押さえる花姫が、あたしの網膜に忠実に再現されて映し出された。
真っ赤な顔をして、必死に涙を堪えてたと思う。
何て可愛、可哀想。
「辺りは闇に包まれようとしていました。その時です、あの方に声を掛けられたのは」
ついに、王子様の登場ですか。
期待して拝聴させて頂きます。
花姫は頬を淡く染めて、恥じらいを誤魔化すかのように、手で掬った水を前へと飛ばした。
キラキラと光を反射した滴が、湖面へと舞い戻り、いくつもの波紋を作る。
というか、微妙に掛かったんだけど。
やっぱりクリーニング代は請求しよう。
「花族の者でないことは、すぐにわかりました。わたくしは捕らわれてしまうのかと、恐怖に震えました。しかしあの御方は、こう仰ったのです。『其処にいる花族の麗しき乙女、急ぎ彼の国へと帰られよ』、と」
花姫が無理に低い声を出そうとするせいで、あたし……吹き出しそう。
腹筋が、苦しっ……。
余計な小細工とか必要ないから。やめてよ。
それに、どこの部分に惚れる要素があったの?
あたしだって、うさぎ様に同じようなこと言われたし。
……あれ?嘘。まさか……、うさぎ様じゃないよね?
「それって体長三、四メートルくらいの、巨大うさぎ?」
両腕を最大限に広げたあたしを、「何をおかしなことを仰っているのかしら?」みたいな目で花姫が見つめてくる。
植物の精だって、しゃべる巨大うさぎとさほど変わらないんだからね!
あたしのうさぎ様を、異な物扱いしないでよ!
花姫はきょとんと首を傾げてから、再び話し始めた。
「足を挫いたわたくしを、あの御方は軽々と持ち上げると花門まで運んで下さり……」
あたしがうさぎ様に恋情を抱かなかった理由がここで判明した。
頭突きでシュートされたからだ、絶対。
尊厳はしてますよ、うさぎ様。
崇め奉るぐらいには。
「それからは叱られる度、森へ」
花姫は束の間の逢瀬に勤しみ、その度に城内はパニックか……。
セリカさん、苦労してるんだね。
後で覚えてたら労いの言葉でも掛けて来よっと。
「しかし、わたくしの婚約が決まり、かわたれの森へは出入りを禁じられてしまったのです」
「えっ、何で急に?」
「父が決めた婚約者が、告げ口したのです。わたくしが獣族と通じていると」
うん。実際、通じてますよね。かなり親密な感じに。
花姫は可愛らしく憤慨し、湖を睨み付けている。
「……それで、使い魔を喚んだの?」
はっとした花姫が、こくんとうなづき、申し訳なさそうに俯いた。
蜂ならば、万が一でも毒針で攻撃出来ると踏んだわけね。
「蜂には何をさせるつもりで?」
「……文を、あの御方に届けて貰おうと思っていました。……申し訳ありません。芽生を元の世界へと戻すことは出来るのですが、本来の青蜂を喚ぶことが、もう……」
花姫は悲痛な面持ちで言葉を濁した。
きっと、時間的に間に合わないんだ。
召喚術の準備をしている間に、結婚式を迎えてしまうのだろう。
ていうか待って。あたし、すぐに帰れるみたいよ?焦って損した。
だけど、花姫が遠回しにあたしへ期待寄せている。
言葉でだめならと、潤んだ瞳であたしを籠絡に掛かる。
あたしの両手が、花姫の繊細な手のひらに包まれた。
止めてー、そんな目で見ないでー。
ほだされちゃうでしょ。手を貸してあげたくなるでしょ。
「…………恋文を、届けるだけでいいのね?」
渋々了承したあたしに、花姫は花が咲くように顔をほころばせた。
次の瞬間、あたしたちの周囲ににょきにょきと草が生え始めた。双葉を開き、茎を伸ばし、蕾を膨らませ――――。
えぇ!?何か、辺り一体に花が咲き始めたんだけど!咲き乱れてますけど!
湖畔は、瞬く間に花畑を織り成した。
ハルジオンの花たちが、花姫の笑顔に恋したかのように、花弁を淡く染めていく。
それはもう、圧巻だった。
花族の姫らしさを、ようやくあたしは実感した。
「あの御方に、伝えたいのです。もう、会うことは叶わないかもしれませんが、……お慕いしておりますと」
花姫の健気さに、あたしの涙腺が緩みかけた。
その人のことを、本気で好きなんだって伝わってくる。愛してるんだよね、きっと。
この世界に神様とかいるのかな。
いるのなら、少しだけハッピーエンドに天秤を傾けてよ。
後は運命に任せるから。蜂じゃなくて、あたしを召喚した偶然に。
「その人の名前は?」
配達ミスがないようにしないと。
花姫が恥じらい、かすかな響きでその名を告げた。
「――――ロウゲツ様です」
芽生は青蜂に毒針があると思ってます。