三十六話、押しきる守り役。
元気のない卯月は、ほぼぬいぐるみだった。
あたしの腕に抱えられて、手も足も、耳さえも覇気なくだらんとしている。
黄緑色のかぴかぴの鼻に傷心し、現実逃避中なのだ。
怪我の痛みよりも、帰れないかもしれないことよりも、見た目を重視するところが卯月らしくもある。
あたしとセリカさんは、明かりを避けて花姫の部屋まで足音一つ立てずに向かっていた。
夜会はとっくにお開きになったのか、城の外は静かだった。……外は。
中に入った途端、父上殿の怒声が廊下を吹き抜け、あたしの肌をびりびりと突き刺した。
それが近付くにつれて、聞き取れる言葉になっていく。
「――――ジエラッ!!聞いておるのか!!」
まだ気絶してるのか……。
「今は、行かない方がいいよね……?」
「……そうですね」
父上殿が退室するまでは、花姫の部屋から距離が近いあたしの部屋で待機することにした。
卯月を膝掛けにしてソファへと座ったあたしに、セリカさんは眉を顰めて言った。
「服を持って参りますので、芽生さんは着替えをなさって下さい。しっぽの匂いが染み付いていて……少々不快です」
あたしはそんなに臭いのかと、乙女心が地味に傷付いた。
卯月の背中に鼻を埋めて匂いを嗅いでみるけど、暖かな日だまりみたいな匂いしかしない。
これを抱き枕にしたら、良く眠れるだろうなぁ……。
「私の目の前で……、そんな……」
ついつい卯月の被毛に頬をすり寄せてしまったあたしを、妻の度重なる不貞に憔悴しきった夫の表情でセリカさんが見下ろしてきた。
しょうがないなぁ、もう。
あたしは、セリカさんに頭を下げてと手招きして要求する。
素直な彼は訝しみつつも、あたしの指示に従いお辞儀をするように腰を折った。
あたしは卯月にしたように、腕を回して彼の頭を抱え、柔らかい髪に頬を寄せた。
「め、な、何を――」
「セリカさんは……綺麗な水辺の匂いがする」
びくんと体を跳ねさせたセリカさんが、慌ててあたしの腕から身を引こうともがく。
「あ、貴女はいつもっ……!私を翻弄して……!」
あたしの腕が緩んだ隙に、セリカさんは朱に染まった顔を振り上げた。
あたしたちは図らずも、お互いの顔を間近で覗き込む体勢になった。
突然距離が詰められたせいで、真ん丸な目で視線を交わらせたまま、揃って固まった。
今動けばたぶん、鼻か額がぶつかってしまう。
「えぇと……ごめんなさい……?」
腕をおずおず下ろしたあたしは、目を見たままで肩を竦めて謝るが、何故かセリカさんは顔を引こうとしない。
むしろ徐々に迫ってくる。理性を失っていない真剣な眼差しが、真っ直ぐにあたしを捉えながら。
セリカさんの指が、あたしの頬を滑り、咄嗟にきゅっと目を瞑った。
セリカさんのため息が唇を掠めて、全身に甘く痺れが走り、思わず背筋をぴんと伸ばした。
緊張して強張るあたしの頭は、思考がぐるぐると駆け巡る。
そしてあたしの唇に、何かが触れた。
「……こんなところにまで、ついているではないですか」
は、はい……?
そっと瞼を押し開くと、セリカさんはぶつぶつと小言をもらしながら、あたしの唇についた卯月の毛を取っていた。
顔の至るところにくっついているのか、セリカさんは手際良く抜け毛を回収していく。
うわっ、恥ずかしい……!
何を勘違いしてたんだ、あたし!
真っ赤になったあたしに、ふと気が付いたセリカさんは目を瞬いた。
「芽生さん?」
「は、はい!」
挙動不審に目を泳がせながら顔を背けると、セリカさんがぱっと手を離した。
あたしがまだ怒っていると思ったようで、無断で触れたことに反省した様子し、その場へと正座して項垂れた。
「すみません。つい」
「あ、いや、別に……触られても嫌では、ないし……」
「では……、お許し頂けるのですか?」
そんな子犬みたいな潤んだ瞳で見上げられたら、嫌って言えないよ。
あたしの怒りって、本当に続かない……。
「……うん」
頷くと、セリカさんは嬉しさのあまりに涙を流し、それを拭いもせずに両手であたしの左手をそっと掬い取った。
「婚儀は、いつに致しましょうか?」
……うん?誰の?花姫の?
あたしがぽかんとしているからか、セリカさんは語気を落として、上目遣いで尋ねてきた。
「違いましたか……?」
違いますね。あたしはいつ、結婚の承諾をしたのかわからなさすぎて頭が真っ白なんですが?
「…………そちらですか」
そ、そちらって何!?何でむすっとしてるの!?
「……ですが、帰られるその日までは、私以外と心を通わせないと誓って下さい」
ああ!例の二択の!
「貴女は誰にでもお優しいので、相手が好意を持たれていると勘違いしてしまいます」
そんなに単純なのは、どこの世界を探しても、セリカさんだけなんじゃ……。
「しっぽにも、節度ある接し方を心掛けて下さい」
卯月に節度なしで近付いたら、すぐに子うさぎだらけになっちゃうから!
それでも、もふもふ時はそこまで危険性はないし、今はぬいぐるみだから無害。
思う存分もふもふを堪能出来るチャンスだったのに……。
「貴女はそうやって目移りばかりなさる」
「で、でも」
「でもではありません。はいと言えばいいのです」
やっぱり押しが強くなって……。
「返事!」
「は、はい!」
お、押しきられてしまった……。
これはもしかして、正式に付き合うってこと……?
「お心ごと傍にいてくだされば、それで……」
だけどあたしの懸念はいつも帰る時のことだ。
どうしたって辛くなる。
今でも手遅れだとわかっているのに、帰りたくなくなったらどうすればいいの?
「……離れたくなくなったら……」
隠してきたことを、ぽろりと口にしてしまったあたしは慌てて前言を撤回しようとしたが、時すでに遅し。
セリカさんは眩しいくらいに屈託のない笑みをじわじわと浮かべて言った。
「私も離れ難いです!」
そ、そんな曇りのない笑顔をあたしに向けないで……!
自分の心の穢れに、泣きたくなってくるから……。
「貴女が永遠に傍にいて下さるよう、今以上に努力を重ね、離れられないように心より尽くします」
やめてやめて!変な努力をしないで!
あたしはお家に帰るのぉぉ……!
うさぎ様何とかしてー!
あたしの助けにうさぎ様は応えてくれず、いつの間にか眠っていた卯月の耳がぴくぴくと動いただけだった。
うさぎ様……。銀箔落とすのに忙しいのかな……。
セリカさんはそう言ったは良いが、一気に羞恥心が襲ってきたようで、あたしの手を離すと赤くなった自分の頬を両手で隠し、さっと視線を逸らした。
そ、そんな可愛い行動を……。
はっ!もしかしてもう、離れ難く作戦が開始されてる!?
あたしは流されかけてるの!?
困惑するあたしをよそに、セリカさんは新婚ほやほやの新妻みたいにはにかみ、立ち上がった。
「それでは、着替えをお持ちしますのでしばらくお待ち下さい。しっぽの餌も、確保しなくてはいけませんね」
ペットの餌も奮発しちゃおうかなっ、というような弾んだ声に聞こえたあたしは、ふるふると頭を振った。
最近、あたしの幻覚幻聴は酷い。
ああ、ほら。セリカさんと入れ違いでリリアちゃんが入室してきた。
幻覚にしては、精巧な造りで……。
「芽生。その膝の物体は何だ?」
えっ!?リリアちゃん!?
怪訝そうに卯月を見つめるのは、紛れもなくリリアちゃん本人であった。




