三十二話、霧中の対峙。
花姫がなかなか帰って来ないので、あたしは眠気の限界の合図として、ふわりと一つあくびをした。
なので花姫が座っているソファの反対側で、しばし仮眠をとることを決めてた。
セリカさんから借りた上着を脱いで、横になってから肩に羽織り、掛け布団として利用する。
うつらうつらし始めたところで、セリカさんのやけに焦った声がしたけど、あたしの意識は底無し沼のように絡み取られて、落ちていった――――。
◇
「……うん?」
この宵の匂いは……。
あたしは、全く寝た気のしないだるい瞼を抉じ開けた。
もはや通例となりつつある森への転移なので、あたしの心中は穏やかだ。
しかし今夜はうっすらと霧が立ち込め、普段よりも少し肌寒い。何か一枚羽織る物が欲しいくらいの気温だった。
霧なのは珍しいなぁ……。そこまで深くないから、自分のいる場所がわからないってほどじゃないけど。
たぶん、獣王様がいつもいらっしゃる大木の根元辺りかな。
あたしは体を起こして、冷えてしまった腕や足を擦った。
森に暖を取れる何かがあればいいのに。
そう、温かな……何かが――――。
「……卯月、いたりする?」
駄目元で呼んでみると、茂みからもふもふうさぎがばっと勢いよく顔を出した。
いた……、けど。……何か警戒してる?
あの後獣王様にこっぴどく叱られたのか、卯月は近付いて良いものかと、顔だけ晒して茂みに潜みつつ、迷っている様子だった。
結局茂みからはおずおずとしながら出て来たものの、今度はその場でうろうろとし始めた。
いいのかな、駄目なのかな、とあたしの方を控え目にちらちらと窺っている。
う、卯月が消極的なうさぎに矯正されてる!?
煩悩って、取ったら人見知りになるものなの?
卯月は、ちょんと後ろ足で立ち上がり、片耳を両前足でごしごし毛繕いをしながら、横目であたしを盗み見ている。
興味ありませんって素振りをしているのに、気にしてこっちにばかり視線を向けている。
あの可愛い卯月なら大丈夫だ。あたしは頬を緩ませ、大きく腕を広げた。
「おいでー」
すると卯月はぱっと耳から前足を離し、つぶらな瞳を爛々と輝かせて駆けて来た。
トップスピードに乗ってきたところで、地面を蹴って高々と跳ね上がる。そして空中で華麗に一回転捻り。最後は狙いを定めて一直線に、あたしの伸びたドレスの胸元へと、頭からずぽっと突っ込んだ。
なっ、全然大人しくなってないじゃん!
前よりジャンプのキレが増してるし!
抑圧されてたものが一気に噴き出してるから!
ぴったりと逆さまに嵌まった卯月は、さすがにきつくて息が出来ないのか、後ろ足をばたつかせて、もふっと愛らしいしっぽをふりふりしている。
「待って、今助けるから」
大根よろしく体を引っこ抜くと、助かったという安堵と、もう少し堪能したかったという未練がない交ぜとなった表情で卯月は息をついた。
無茶ばかりすると寿命が縮むんだからね?
繁殖期の動物って命懸けなところもあるし、気を付けないと。
全身で疲労感を表す卯月を膝に乗せたあたしは、変なことをして来ない内に素早く撫でて懐柔し、骨抜きにしたところでカイロ変わりに暖を頂いた。
腹這いででろんとだれ切った卯月があたし専用の天然膝掛けとなったお陰で、程よく体が温まってきた。
とりあえず、卯月のしっぽでも弄りながら、霧が晴れるのを待つか。
卯月の弱点はしっぽだったのか、ちょんと突くと「くふん」と鳴いた。
指で柔く摘むと、蕩けたように胴が伸びていく。
面白いので指の腹でつっと撫でると、今度は後ろ足がぴーんと伸びた。
可愛い……。もうずっとうさぎのままでいてくれたら良いのに。
どれくらいそうしていた頃だろうか。こんにゃく状態だった卯月が急に顔を上げて、警戒するようにぴしりと耳を立てた。
左右の耳は音を拾う方向を微細な角度で調節していき、ある一点で何かを捉えたのか、膝から飛び下りるとあたしを庇うように前へ飛び出て身構えた。
う、卯月!無理しないでいいから!草食動物なんだから、肉食動物には勝てないよ!
ぶわっと毛に空気を含ませた卯月が前方を険しい目で見据え、何かの到来を、息を詰めて待つ。
相手が猪……いや、野犬ぐらいならあたしが闘おう!
だけど熊は無理だ!目を逸らすとやられる。眼光鋭く睨み付けながら、卯月を小脇に抱えて後退り……これだ!
二通りの可能性を想定したあたしは、霧に陰影を落とす何者かを、臨戦体勢で待ち構えた。
漂っていた霧が次第にほどけていき、現れたのは――――草色の毛髪だった。
「――――芽生さん!?……っ、その獣から、早くお離れ下さいッ!」
虚を突かれたあたしは、自分の耳目を疑った。
霧の帳を抜けて眼前に立つのは、こんな時間に森へと訪れるはずのないセリカさんだった。
「セ、セリカさん……?」
霧の名残を纏わせたセリカさんは、もふもふ卯月と睨み合って対峙している。
だけどセリカさんともふもふ卯月の対決に、危険な匂いは一切しない。
どちらも闘い慣れしていないせいで、睨む以外に攻撃の仕方がわからずにいる。
あなたたち、可愛さを競う気なのか?
このまま放っておいたら日が昇って、また沈む。
「……とりあえず、落ち着こう?」
あたしが介入すると、卯月は俊敏な動きで足に飛び付き、抱っこをおねだりしてきた。
驚愕するセリカさんをちらっと意地の悪い顔で見遣ってから、あたしには潤んだ瞳を向けて、お願いお願いと、前足でたすたすしてくる。
「オレンジ色の……うさぎ?……まさか綿の!?」
綿はいつまで引き摺るの!?
「芽生さん!そのオレンジ色の毛玉を蹴散らして下さい!」
いやいや。毛玉はまだしも、蹴散らすって……。動物虐待だからね?
呆れたあたしが卯月に目を落とすと、蹴らないよね?ね?と憐れっぽく訴えかけてきた。
蹴らない蹴らない!セクハラされてもそんな非情な仕打ちはしないから、安心して。
勿体ない気もするけど、そのうさぎ姿を止めれば、蹴散らせなんて酷いこと言われないと思うよ?
あたしに教えられるまでもなく卯月もそのことに気が付いたのか、瞬く間に人の形へと変化を遂げた。
「こんなに愛らしいうさぎを蹴るとか、鬼だな」
尤もなコメントをした卯月は、あたしの足元にしゃがみ込んでセリカさんを見上げる。
え?何であたしが従えてるみたいな感じなの?
獣姿を解いた卯月を見たセリカさんは、以外にも冷静さを取り戻した。
獣じゃなければ、恐くはないらしい。
ただ、身からにじみ出ている嫌悪感は確実に増している。
「彼女を返して下さい」
セリカさんの中では何か厄介な物語が構成されているようで、あたしは卯月に囚われていることになっていた。
だから綿が再び登場したのかもしれない。
卯月はそんなセリカさんを検分するようにまじまじ眺め終えてから口を開いた。
「お前、花族か?」
「……そうですが?」
怪訝な顔をしたセリカさんを見たまま、卯月は何かを考えるように顎へと指を当ててわずかに首を捻った。
あの煩悩しかなかった卯月が、真面目に打開策を練ってる!
獣王様のお叱りは、きちんと卯月の心に響いていたのだ。
もしかしたら、獣族は花族を敵視していないと、いかにして伝えようかと言葉を選んでいるのかもしれない。
あたしはごくりと生唾を飲み込み、心を入れ替えた卯月の、第一声を待った――――。
「お前、女兄弟はいないのか?」
あたしは大木の根元へと崩れ落ちた。
ちっとも性格変わってないじゃん!卯月は卯月だったよ!
セリカさんの身内から責めてくつもりなの!?
節操ないな!
「いませんが……?」
セリカさんは純粋なので、質問の含まれる下心にはまるで気付いていない。
セリカさんに女兄弟がいなくて良かった。
いたら卯月に狙われてたかも……。
「ならばこの女は返せないな」
あたしはいつ卯月に人質に取られていたのか……。
悪役みたいな台詞言ってるけど、さっきまであたし専用の可愛い膝掛けだったよね?
「返して下さい!」
「断る!」
不毛な会話過ぎる。
呆れ果てるあたしを尻目に、セリカさんと卯月は無駄な会話の応酬をひたすら繰り返していた。




