三十話、手紙に込められた想い。
人間、ドレスで走るとどうなるかを身を持って知ったあたしは、靴と靴下を脱ぎ捨て、躓く原因である長い裾を膝上まで持ち上げて城の廊下を駆け抜けた。
後ろからセリカさんが何か言いながら追って来るが、裸足となったあたしの脚力の敵ではなかった。
獣王様の手紙を早く花姫に……!
あたしは飛び込んだ花姫の私室から寝室へと真っ直ぐに向かい、寝台へと跳躍した。
そして布団へと重力に従い落下したあたしは、枕の下に腕を突っ込み、薄い封筒を取り出すと、ほっと息をついて胸へと抱えた。
なくなってなくて良かった……。
これで少しでも花姫を勇気付けられれば……。
「――――芽生さん!」
セリカさんの声が追い付いて来たので、あたしは咄嗟に手紙をドレスの胸元へと捩じ込んだ。
寝室へと駆け込んで来たセリカさんは息切れが凄まじく、ドア枠に片手を掛けて、苦悶の表情で激しく上下する胸を押さえている。
叱りたいのに息が整わないようで、眼差しだけ先行してあたしを咎めてきた。
そんな辛そうな顔するぐらいなら、ゆっくりついて来れば良かったのに。
「……はぁ、廊下、を……はぁ、走っ……てはっ」
無理しないで!見てるこっちまで呼吸がおかしくなる!
一旦落ち着いて。甘んじて叱責されるから。
あたしはセリカさんの背中を押して寝室から連れ出し、花姫のソファへと肩を押さえつけて座らせた。
暴れ狂う彼の心臓の音が触れた手から伝わって、医者を呼ぶべきか本気で悩んだ。
あたしもだけど、いきなり全力で走ったから、明日は揃って筋肉痛を覚悟した方がいいかもしれない。
セリカさんの背中を擦り、ようやく呼吸が安定した頃合いに、前言通り、お叱りを受けた。
「何故貴女はあちこちへ飛んで行ってしまわれるのですか!」
飛んでって、微妙に綿のことを引き摺ってない?
そう思いつつも、ぺこりと頭を下げた。
「すみません……」
「廊下を走ってはいけません。姫様のように転んで怪我でもしたらどうするのですか。玄人の姫様とは違うのですよ」
転びのプロとか、嫌な称号だなぁ……。
それに、あたしはあそこまで間抜けじゃないし。
「肌に傷が残ったらどうするのです」
あたし結構古傷だらけなんだけど……。
蝶よ花よと育てられたお嬢様ならまだしも、野山で猪と戯れたあたしは多少の傷なんて気にしない。
運動してたら頻繁に怪我をするはずだよ。
もしかして、この世界には……スポーツがない?
何てことだ。ここは一つ、あたしが何か広めるべきか……。
「難しいお顔で、何をお考えですか。反省をなさい」
難しい顔をしてるなら、反省してるんだなと思ってくれてもいいのに。
あたしがちらっと見遣ると、セリカさんは真面目な雰囲気をほどき、赤くなった頬を隠すようにそっぽを向くと、恨みがましい声音でぽつりと呟いた。
「可愛らしく拗ねても、絆されませんから……」
あたしがいつ可愛らしく拗ねた!?
目が悪いの!?それとも幻覚が見えてるの!?
医者の必要性について真剣に考え始めたあたしだが、今はそれどころではなかったと気付き、慌てて夜会へと戻ろうとした。
だがその瞬間、あたしが行かずとも郵便配達先が自らこの胸へと飛び込んで来た。
「――――芽生っ!」
「うっ……!」
予想外の衝撃で、あたしは花姫ごとソファに雪崩れ込んだ。
隕石が真横からぶち当たってきたかと思った。
誰がこんな良いタックルを教えたんだ!
あたしを下敷きにした花姫はさめざめと涙を流したが、セリカさんの手によって引き剥がされていった。
泣きながらソファへと座り直した花姫にの前に、セリカさんが膝を突いて、目線を合わせて問い掛けた。
「姫様。夜会はどうなさったのですか?」
「夜会なんて、知りません……!」
花姫は、ぎゅいんと勢いをつけて、セリカさんから顔を背けた。
つまり、逃げ出して来たらしい。
あの孤立無援な状況で耐えろという方が無理だろう。
嫌いな相手との婚約を大々的に発表されてしまったのだ。
退路を塞がれた花姫は、例え明日の夜会を上手く欠席したとしても、その先は父上殿が許さないだろうし、髭が大人しく引くはずもない。
「退席の理由を告げずに来たのですか?」
「しょうがないじゃないですかぁぁぁ……!」
わぁーっ、と激しく泣きじゃくり始めた花姫の背を、宥めるようにとんとんと叩くと、再び強い力で押し倒された。
「わたくしは何も言えぬまま、身も心も汚されてしまうのですか……!わたくしに泣き暮らせと仰るのですかぁぁぁ……!」
お願いだから!醜悪な黒い雨だけは、あたしの上に降り注がせないで!
花姫があたしの胸に顔を押し付け、大粒の涙を染み込ませる。
花姫のドレスだから、文句はないけど……。
セリカさんに引っ張られる花姫が、嫌嫌とあたしの胸に頬を擦り付けてごねた時、ドレスの内側からくしゃりと手紙が音を立てた。
花姫も気付いたのか、涙を流したままきょとんとしている。
獣王様の手紙が花姫を呼んでいるのか、あたしの懐で存在を主張しているそれを、彼女はドレス越しに凝視した。
そしてそれが何であるか察すると、花姫はあたしのドレスの胸元に腕を突っ込むという暴挙に出た。
ちょっ、ドレス伸びる!卯月か!?……く、くすぐったい!今ビリッていった!もう!今手紙出すから、止めてーー!!
あたしが花姫に無体を強いられている様子を、セリカさんは真っ赤になりながら傍観している。
その間に花姫は目的の手紙を無事取り上げて、宛名を確認すると、何も告げずに寝室へと走り去ってしまった。
ばたんっとドアが叩きつけられ、茫然としたあたしとセリカさんだけが取り残された。
女同士とは言え、胸をまさぐられたあたしは色々と大切な物を失った気がして、柔らかなソファへと深く沈んだ。
そんなあたしに、セリカさんが上着を脱いで、肩からそっと掛けてくれた。
その優しさは、もう少し前の段階で頂きたかった……。
「芽生さん。着替えをなさった方がよろしいかと……」
歯切れの悪いセリカさんは、伸びきったドレスから目を逸らしている。
このドレスはもう使い物にならないだろう。
肩から両脇の下まで続く縫い目が、糸が切れたことによってほつれ、さらに花姫に引っ張られた布地がだるだるに伸びて、胸元が開いてしまっている。
着替えたいのは山々なんだけど、あたしは替えを持ってないし、いつも借りている服は現在立て籠もり中の花姫がいる寝室のクローゼットにしまってあって手出し不可だ。
「今は……セリカさんの上着があるから、平気」
袖を通して全ての釦を止め、何とかこの場を凌だ直後、寝室から花姫が転がり出てきた。
「――――芽生っ!!」
叫びと共に絨毯の縁で足を引っ掛け、バナナの皮のようにぐにゃりと倒れた花姫の手には、開封された封筒と便箋が一枚。
ばっと泣き顔を上げた彼女は、それらをあたしに向かって突き付けながら言った。
「これは、どういう意味なのですか!?」
あ、あたしに解読しろと?そんな難解な文章なの?
獣族の文字があたしに読めるかわからないけど……。
期待に応えられるかわからないので、あたしは躊躇いがちに立ち上がると、伸ばされた花姫の手から便箋を受け取り、目を落とした。
そこにはたった一言、流麗な筆跡で、こう記されていた。
『我が元へと、参られよ』
それは紛れもなく、獣王様からの――――駆け落ちの誘いだった。




