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”シャ・ド・ショコラ”は異世界に移転します

作者: 黒崎

 「シャ・ド・ショコラ」は名前のとおり、ショコラ専門店だ。

 ショーウィンドウには常時四十種類前後のショコラが並んでいる。テイクアウトはもちろん、店内で食べていってもらうことも可能だ。

 その際には俺が丹精込めて淹れたコーヒー、もしくは紅茶と一緒に食べることをオススメしている。ショコラの種類ごとに勧めるコーヒー、紅茶は違う。最高の組み合わせを考え抜いて選んでいるから、できれば俺のオススメと一緒に食べて欲しい。


 ちなみに、ショコラティエは一人だけ。この店の店主でもある。

 ショコラティエとは言ったが女性だ。寡黙で男前な性格をしていて、本人もあまり女性らしいことには興味がないようだ。ショコラティエールは言いにくいからショコラティエで良いと、そう言ったのは他でもないあねさん本人だった。


 姐さんは若いながら将来有望なショコラティエとしてこの「シャ・ド・ショコラ」を切り盛りしている。並んだショコラはそのほとんどが彼女により考えだされたものだ。

 ほとんどって言ったのは、中には俺が考えたものだったり、あと姐さんの妹ちゃんが考案したものがあるから。っつっても、本当に一握りくらいのもんだけど。


 店内に席は十二だけ。カウンターが四席、二人掛けのテーブル席が四セット計八席、合計十二席。

 四人以上のお客様は、本当に申し訳ないが分かれて座ってもらうかテイクアウトでお願いします。女性が三人以上固まると煩いっていう姐さんの言い分を反映しての配置だが、これはお客様には内緒だ。


 そんな「シャ・ド・ショコラ」は連日満員御礼の大繁盛。三時以降は予約のみとなってるけど、誠に申し訳ない、予約は半年先までいっぱいだ。

 どうしてもって方は、三時までに来て欲しい。並んでもらうことになるけど、運が良ければ席に案内出来る。運が悪かったときは、どうかテイクアウトでご勘弁願いたい。


 女性だけでなく年配の紳士淑女にも人気の訳は、週に二日、土日だけ閉店時間を延ばしてワインを提供しているところにあると思う。

 もちろんディナーなんかじゃなく、ワインのお供は姐さんの作ったショコラだ。これがまた赤ワインに合うんだよなぁ。口いっぱいに広がる甘さをちょいと辛めのワインと一緒に楽しむのも良いが、ビターなショコラを甘いデザートワインと共に頂くのもなかなか乙なもんだ。

 あ、ソムリエはもちろん俺。昼間同様、研究に研究を重ね、お客様の選んだショコラに一番相応しい相手をお選び致します。


 さてさて、そんな「シャ・ド・ショコラ」の繁忙期は上半期に二回ある。ひとつはもちろんバレンタインデー。

 そしてもうひとつは本日、ホワイトデーだ。

 この日には、いつもは数種類しかないホワイトショコラの種類を増やす。姐さんは毎年違うデザインのショコラを用意してお客様を待っている。

 ホワイトデーのお返しといえばクッキーやキャンディなんかが定番みたいだが、最近はショコラで返す人も増えてきた。客足は年々増加しているように思う。ま、この店は今年でまだ三年目だけどな。


 バレンタインデーよりかは幾分か平和とはいえ、書き入れ時であることには変わりない。姐さんは一週間ほど店に泊まり込むし、俺も付き合わされて徹夜をする日が何度もある。

 でもあんま苦にはならない。本番の十三日、いつもとは違う客層――つまりは男性がちょっとそわそわした様子で入ってきては、ショーウィンドウの向こうに広がる宝石みたいなショコラを前にして年甲斐もなく目を輝かせるのは、見ていて本当に面白いからな。

 大事なパートナーへの贈り物を熱心に選ぶ姿は男女問わず良いもんだ。ついでに自分用にともうワンセット買っていくお客様もいる。女性よりかは少ないが、それでも案外いるもんだから驚きだ。


 今年も幸せそうな人たちを見ることが出来るかと思えば楽しみで、俺はいつもの出勤時間よりも二時間も早く店に着いていた。全日泊まり込んでいた姐さんは既に制服を来てショーウィンドウを拭いていた。

 開店準備は着々と進み、姐さんも今年は一番の自信作だと言って(ちなみに毎年同じことを言ってる)ショーウィンドウを宝石で埋めていった。

 さーて開店時間まであと三十分、いっちょ気合を入れますか。


 なんてことを言っていたのが今は昔のように感じられる。

 なんでこんなことになっちまったのか。店内は相変わらずの静けさで、いつもどおりの様相をしていた。


 だというのに、外から聞こえてくる音はなんだ。

 遠くでギャーギャーと怪鳥の鳴き声かと思われる騒音が耳に届いて、俺は抱えていた頭を更に深く抱き込んだ。

 直後に、強く風が吹いたのか木々が盛大に騒ぎ出す。ざわざわざわと揺れる葉の音は、波の音のようにも聞こえて不思議な感じだ。


 いつも外から聞こえてくる喧騒とはまるで違う。そもそもうちは大通りから少し離れた路地に面した店だから、いつもはすごく静かでのんびりしたところなんだ。決してこんなジャングルの奥地めいた音が聞こえてくるような場所には店は構えていない。


 あぁ、なんだってこんなことになったんだ。誰も答えてくれないだろうが本日二回目の愚痴を心の中にそっと落とす。


「ふーむ、そろそろ開店の時間なわけだがどうしたもんか……」


 頭を抱えてカウンターに突っ伏す俺の頭に、姐さんの脳天気な言葉が降って落ちた。今この状況に置いて開店時間がどうこう言ってる場合か。

 この、わけの分からん場所に突如として店ごと瞬間移動したって謎の状況に置いて!


 そこまで考えて俺はばっと顔を上げて姐さんに告げる。


「開店すんの!? 開店して誰が来るんだよこんな森の中で! それよか帰る方法探すほうが先でしょ!!」


 怪訝そうな顔をした姐さんと目が合った。三白眼気味ながら、切れ長の目にはクールビューティーなんて言葉が似合いそうだ。そんなキツめの顔が小さく歪む。これはあれだ、煩いと思ってる時の顔だ。


「誰も来ないかもしれないが、誰か来るかもしれないだろう。訪れた客にショコラを提供するのが私の仕事だ、帰る方法は閉店後に考えれば良い」


 しれっと言ってのけた姐さんに思わず天を仰ぐ。

 姐さんは昔からこうだ。肝が座っているというか、座りすぎているというか。店に強盗が入ったときも、妹ちゃんにつきまとってたストーカーと出くわしたときも、姐さんは至って冷静に淡々と無慈悲に事の対処に望んだ。すなわち相手はボコボコにされたというわけだ。

 ナイフを向けられようが男の汚ねぇ裸を見せられようが、コンロから火が上がろうが女性から告白されようが、姐さんの整った顔がぴくりとでも動くことはない。

 それはこの、謎の状況に際してでも変わりないようだ。姐さんはただ黙々とショーウィンドウを磨きあげている。お客様が大事な我が子を少しでも鮮明に見られるよう、運命の相手と出会えるよう、そう思っての行動だ。


 てんで帰る方法を探すつもりのない姐さんを前に、俺はまたカウンターに突っ伏す。


「そんな脳天気な……」

「こんな超常現象に巻き込まれたんだ、焦っても仕方ないだろう。心を穏やかにすれば自然と解決策は見えてくるもんだ」

「また適当なことを……つか、超常現象に巻き込まれてるって認識はあったんすね……全然気にしてないのかと思ってた……」

「失礼なことを言うな。まるで私が常識のない人間のようじゃないか。私だって、店ごとこんなわけの分からない場所に飛ばされて迷惑してるんだ」

「困惑とかじゃなくて迷惑ってあたりが……さすがと言うか……」


 あまり気にしてなさそうな姐さんの言葉に、盛大なため息をついて店内の時計を確認する。開店時間ちょうどだ、さてどうしたもんか。


「店を開けるぞ」

「開けても誰も来ないっすよ、こんな森の中」

「だからそれは分からないと言っただろ、とにかく開店準備だ」

「へーへー」


 適当な相槌を打って、それでも俺は姐さんに言われたとおりに開店準備に取り掛かる。

 っつっても、おおかた準備は整っていたからあとはドアに引っ掛けてた「CLOSED」の札を「OPEN」にひっくり返すだけだ。あ、あと本日のオススメショコラを書いたボードも出しとかないとな。

 さっさと作業を終えて、開店準備は一分で完了。あとはお客様が来店されるのを待つのみ。


 そして一時間後、店内に姐さんの盛大なため息が響くことになる。


「だーから言ったじゃん、誰も来ないってこんな場所で!」

「じゃあ宣伝するか、新規開店には宣伝がつきものだ。またビラ配りでもするとしよう」

「ちょ、ちょっと待って新規開店って! まさかここにずっと居るつもりかよ!?」

「冗談だ、そんなに騒ぐなうるさい。だけどまぁ、とりあえず外に出てみるか。人が居るようならちょっと話を聞いてみよう」


 ここでようやくまともな意見が出て、俺はほっと胸を撫で下ろした。

 俺も外に出て人を探すのには賛成だ。だから早々にドアをくぐった姐さんの後ろをついて店をあとにする。


 店の外には、ここに飛ばされた直後に外に飛び出して確認したときと同じ風景が広がっていた。つまり、鬱蒼と生い茂る立派な木々と、それから色とりどりの果実的ななにかと、あとあんま見慣れない小動物と。リスかなあれ、ネズミにも見えるけど。

 ともかくまぁ、あいにくと人間の姿はひとつもなかった。


 姐さんは軽くあたりを見回して、それからなにか見つけたのか一目散に足を運び始める。なにごとかと黙ってついていけば、彼女はひとつの木の前で立ち止まった。視線の先にはぶどうみたいな果実がぶら下がっている。


「カカオだ」

「は?」


 尊敬する相手に、思わず不躾な声を上げてしまった。でも許して欲しい。ぶどうを見ながらカカオだとのたまう相手に、これ以外にどんな反応をすれば良い。そうですねと答えるのが常識だってんなら、俺はそんな常識は本日限りで捨てようと思う。


「だから、これはカカオだ」

「いやいやどう見てもぶどうですけど」

「いいやカカオだ」

「ちょっと姐さん……実は結構パニクってたりする?」

「失礼なやつだな、これは絶対にカカオだ。見てろ」


 そう言って姐さんはぶどうに手を伸ばし、一粒もぎ取ってそれに爪を立てた。どうやらぶどうとは違って皮が固いらしい。パキリ、というよりはバキリという音を立ててそれは崩れた。

 中からは茶色っぽい種のようなものが出てくる。姐さんはそれを数回嗅いで、それから躊躇うことなく齧って咀嚼し始めた。


「うわっ! あ、姐さんやばいって、吐き出しなよ!」


 数回の咀嚼ののちに喉が動く。飲み込んだらしい、なんて強者だ。こんな得体のしれないぶどうもどきを食べるなんて。

 思っていると、姐さんは平気な顔をして俺に告げた。曰く「やっぱりカカオだ」とのことだ。まっさかぁ。


「良いからお前も食べてみろ」

「えー……俺は良いよ……」

「良いからさっさと食べな。それとも私が食べさせようか」


 嫌な予感しかしない提言に慌てて首を振り、俺は大人しくぶどうもどきの種を歯で挟む。それから意を決してそれを噛みちぎった。奥歯で数回噛む。噛む。噛む。

 口の中に広がる、ほんのりした酸味とナッツというよりはベリーといった感じの味。美味いかまずいかで言えばまぁ美味い。そしてなによりこの味は――。


「カカオだこれ!!」


 叫んだ俺の言葉に、姐さんが満足そうに頷く。


「な」

「なんで分かったんだよ姐さん!」

「匂いがした」

「それだけ!?」


 なんかすげー理由だがまぁ良い、姐さんにはあまりツッコミは入れないほうが良い。怒られるとかそういうんじゃない、ただ単にキリがないってだけだ。


「ところで」

「……うん」

「実は牛乳の匂いもしている」

「マジか……」

「マジだ、さっそく見に行くぞ」

「ねぇちょっと、ちょっと姐さん」

「なんだ」

「なんで見に行くのかな? 別に見に行かなくても良くない?」

「良いわけあるか。冷蔵庫にある牛乳の量、忘れたのか。お前が入荷処理を忘れたせいでギリギリだろう」

「そうだけどさ、それはそうだけどさ」

「だったら牛乳の調達に行くしか方法はないだろ」

「いやさぁ、それってもう完全にここに住み着く感じの発想じゃん……帰る方法探して元の場所に戻ったら、牛乳とかそのあと買いに行こうよ! 帰ったら速攻コンビニ行って買ってくるから。俺が自腹きるから!」


 俺の必死の提言虚しく、姐さんはスタスタとどこかに一直線に向かっている。天上天下唯我独尊、姐さんは誰にも振り回されない。自分の意思だけで生きている。


「こっちだ」

「俺の話もたまには聞いて!」

「聞いてる聞いてる」

「それ聞いてない人の常套句! 酔ってない酔ってないくらい信用ならないからね!?」


 叫びながらも俺は姐さんの後ろをついて歩く。姐さんもそれが当たり前と言うように、後ろを振り返ることもせずに歩き続けていた。五分ほど歩いただろうか、ようやく姐さんの目的地についたようだ。


 開けた場所に、数匹のなにかが居た。……なんだあれ、イノシシ……いや、豚? いやイノシシかな、毛が生えてるし。紫っぽい色してるけど。

 とりあえずおおよそ牛には見えない。姐さんはそのイノシシもどきを腕を組んで眺めている。


「牛みたいなのは居ないっすけど」

「うーむ、多分あれだなぁ」

「あれって……イノシシじゃない?」

「そうか? 私は豚かと思ったが」

「……どっちにしても牛じゃないじゃん……」

「豚も牛も似たようなもんだ」

「似ても似つかないよ!」


 俺の心からの叫びを背に、姐さんはやはり躊躇なく足を進める。イノシシもどきに向かって。


「ちょっと近寄らないほうが良いって、やめなよ!」

「大丈夫だ、なんとでもなる」


 制止の声なんかなんの意味もなく。

 姐さんはやがてイノシシもどきの前で立ち止まり、視線を合わせるように膝をついた。それから見つめ合うこと数十秒。おもむろに姐さんが立ち上がる。


「お前、乳が出るな。それを少しわけて欲しい」

「……」

「嫌なら力づくになるが、どうする」

「……」


 まさか返事を期待しているわけでもないだろうが、姐さんはイノシシもどきにそう問うた。無論、向こうはじっと姐さんを見つめるだけで微動だにしない。

 しかし先に動いたのは姐さんではなくイノシシもどきのほうだった。唐突に立派な牙を突き立てるようにして頭を振る。姐さんの体が揺れる。そんな攻撃、見きれない姐さんじゃあない。


「残念だ、ちょっと痛いかもしれないが恨むなよ」


 いや、なにを言ってんだと自分でも思うが、事実なのだ。だって現に姐さんは華麗にその攻撃をかわして間合いを取っている。臨戦態勢、腰を落として攻撃のタイミングを見ている。

 うんうん、やっぱりなに言ってんだと思われるだろう。ただ一つだけ事実を述べるなら、姐さんは笑えるくらいに喧嘩が強い。

 中学高校では男をブチのめして番長はってたくらいだ。本人がそう望んだわけじゃないけど、あまりに強いもんで周りが勝手にひれ伏してその地位に祭りあげてた感じだ。


 まぁ言わずもがな、俺自身も姐さんに喧嘩を売って完膚なきまでに叩き伏せられたくちだ。いやぁあのときの恐怖ったらなかった。俺はそれまで「自分は誰より強くてなんだって出来る存在なんだ」、なんて恥ずかしいこと考えてたけど、その瞬間に「あ、俺って普通の人間だわ」って思い知らされた。

 それ以来、今日こんにちまで姐さんを姐さんと呼んで後ろをついて回るようになったわけだ。


「――黙って乳をよこせば良いもんを」


 俺がひと通りの回想を終わらせた頃、謎の決め言葉を残して決着がついた。相手の突進をかわした姐さんが、バックステップを取って間合いを開ける。それから軽く助走をつけての飛び蹴り。側頭に全体重を掛けた一撃を食らって、向こうも耐え切れなかったらしい。

 ニ、三度よろけて結局その場に倒れ込んだ。バタンとでかい音がしてイノシシもどきが地に沈むのを、姐さんは腕を組んで見届けた。わぁ姐さんっょぃ。


 それからその傍らに膝をつき、イノシシもどきの乳に手を伸ばす。あ、確かに牛みたいな乳をしてるな。ぎゅっと握られたそこからは白っぽい液体がこぼれた。見た目は確かに牛乳だ。


「おい、なにか容器を持ってこい」

「え、あぁ、はいはい」


 言いつけ通り一旦店まで走って戻り、それから大きめのタッパーを三つほど抱えて姐さんのところまで帰る。

 渡したタッパーを受け皿に、少しやりにくそうにしながらも姐さんは器用に気絶した相手から牛乳(?)を拝借していた。


 三つのタッパーが満たされたところで、姐さんがようやく立ち上がる。ふぅ、と小さく息をついて、額に張り付いた黒い髪を手の甲で拭った。


「結構出たな」

「これだけあれば今日明日くらいは余裕だね」

「あぁ。じゃあ店に戻って、明日の仕込みでもするか」

「……え、人が居ないか探すんじゃ」

「待ってればそのうち誰か来るだろ」


 あ、これは面倒臭くなった感じだ。

 姐さんは基本的にショコラのことにしか興味が無い。居るか居ないかも分からん誰かを探して歩くより、さっさと店に戻って楽しいショコラ作りに精を出したいんだろう。

 あと多分、手に入れたばかりのカカオもどきと牛乳もどきでどんなショコラが作れるのか気になるんだ。世界一のショコラを作る。それが姐さんの夢だから。


「……しゃーねぇ、確かに下手に歩き回るのもなんだし、とりあえず店に戻りますか……」

「あぁ、そうしよう――――っと」


 三つタッパーを抱えた姐さんから、二つ取り上げて踵を返す。直後に、姐さんの短い声が上がった。どうしたのかと振り返れば、イノシシもどきが頭を振って起き上がるところだった。これはまずい。


「やべ、姐さん逃げよう!」

「……いや待て、大丈夫だ」


 足を踏み込んだ俺を制止する声は至って冷静だ。大丈夫ってなにが、と思って振り返ると、姐さんの足元に伏せたイノシシもどきが目に入った。なにこれ、服従の証的な?


「暴力ふるって悪かったな、痛かっただろう。乳が欲しいって勝手な理由で酷いことをした、許してくれ」


 イノシシもどきがゆるゆると頭を振る。なんだこいつ、人間の言葉が分かるのか?


「許してくれるのか、お前は良いやつだ。……なんだ、もしかしてついて来たいのか?」


 懐くように姐さんの腰辺りに頭を擦り付けていたイノシシもどきが、そわそわと彼女の周りを歩き始める。なにか察したのか姐さんが声をかけると、やはり言葉が分かるのかイノシシもどきはコクコクと数回頷いた。

 それに姐さんもひとつ頷いて答える。


「いいぞ、ついてこい。と言っても、お前にくれてやれるようなものはないが。ショコラでも食べてみるか?」


 歩き出した姐さんの後ろをイノシシもどきがついていく。ショコラの言葉には首を捻っていた。イノシシってショコラ食っても大丈夫なんかなぁ……。



 ◆◇◆◇◆



 店に戻った姐さんと俺とイノシシもどきは、あれから三時間ほど店の中で過ごしていた。狭い店内ではあるが、カウンターの隅っこで犬みたいに寝そべっているイノシシもどきはそれほど邪魔にもならない。ちなみにショコラは食わなかった。

 カップやらサイフォンやらを磨く俺の隣で、姐さんは一心不乱にショコラを作っている。あのカカオもどきはどうやら発酵した状態のものだったらしく、炒って挽くとあらびっくり、めちゃくちゃカカオの匂いがした。

 そこにココアバターやら砂糖やらの材料を加え、あと絞ったばかりの牛乳もどきを少量投入。そうそうこの牛乳もどきはめっちゃくちゃ美味かった。濃厚なその味は、昔姐さんに無理やり連れて行かれた北海道で飲んだ新鮮な牛乳のそれとよく似ていた。もしかしたらあれより濃厚で美味かったかもしれない。


 テンパリングと成形を終えたショコラは、さっき冷蔵庫から取り出されたばかりだ。姐さんはそこに色粉を入れたカラフルなチョコレートで綺麗な模様を描いている。

 そうして最後の一つが波打つ模様で彩られたとき、とうとうドアのベルが鳴らされた。誰かが訪問してきたのだ。


「い、いらっしゃいませ!」


 慌てて顔を上げて入り口のほうを見る。

 そこに居たのは、お人形さんみたいな少女二人と、母親らしき清楚な雰囲気の女性だった。

 髪の色は金やら銀やら。眼の色は青やら緑やら。どう見たって見慣れたアジア人のそれじゃあない。どこだここ、アメリカか?


「あの、ここは……?」

「え、あ、えっと、えーと、ここはショコラの専門店ですよ。……って、日本語喋ってる!?」

「……? ショコラとはなんです?」


 母親らしき女性が長い髪を揺らして首を傾げる。俺の叫びはスルーされた。にしても向こうも日本語が分かるのか。じゃあここ何処だよ!


「ショコラを知らないのか?」

「はい……初めて聞く言葉です。このお店も、数日前まではなかったように思うのですが……」

「あぁ、今日移転してきた」

「移転!? 移転てなに、もう完全にここに住み着く気じゃん!!」

「うるさい、お客の前だぞ」


 しれっと言ってのける姐さんに反論することが出来なかった。ぐぬぬと黙っていると、女性が恐る恐るといった様子で店内に入ってくる。一人の少女も興味津々にショーウィンドウの前まで進み出た。

 そうして、ガラスの向こうに広がる光景に感嘆の声をもらしたのだった。


「すごーい! 宝石がいっぱい!」

「まぁ綺麗、これがショコラですか?」


 片方の少女が目を輝かせ、女性もまた嬉しそうな顔をしてショーウィンドウを覗き込みながら訊ねてくる。肯定の言葉を返せば、女性は再びショコラへと目を落として端から端まで並んだショコラを見て回った。

 もう片方の少女は無表情でそんな二人を眺めている。大人しい子だな。


「良ければ、食べてみるか? 移転後初めてのお客だ、私からご馳走させてもらおう」

「食べる……これを、ですか? 食べ物なのですか? 宝石ではなく? こんな美しいものが?」


 疑問符を頭の上に並んでいる幻覚が見えるくらい、女性は立て続けに問うてきた。姐さんはそれにひとつ頷いて、それからショーウィンドウからホワイトショコラを三つ取り出す。

 それぞれの手に可愛らしいショコラを乗せて、それから食べるように促した。

 躊躇いがちに口に放り込まれたショコラは、彼女たちにどんな感動を与えたのか。それは彼女たちの顔を見れば明らかだった。


 ぱっと輝いた女性の顔。信じられないって顔で目をくるりと丸める少女。もう一人の子はやっぱり無表情だったけれど、特に嫌がることもなく口の中の宝石をきちんと咀嚼して飲み込んだ。


「まぁなんて甘い! こんな美味しいもの、初めて食べました!」

「すごーいすごーい、宝石なのに美味しい! この宝石、お姉さんが作ったの?」

「そうだよ、私が作った」

「すごーい! 食べられる宝石を作るなんて、魔法使いみたい!」


 無邪気な少女を前に、いつもは無表情の姐さんも思わずにこり。ショコラ以外にこんな優しげな微笑みを向ける姐さんを見られるのは珍しい。

 とは言っても、これで姐さんは意外と子供と猫が好きだから、その二つを相手にはわりかしこういう顔もしてみせるんだけど。


 くるくると回って喜びを表現する少女を窘めながら、女性が姐さんに頭を下げる。


「とても素晴らしいものをありがとうございました。ところで、こちらはお店なのでしょうか?」

「あぁ、そうだな」

「では頂いたのは売り物ですね。おいくらほどでしょう、あまり手持ちがないのですが……」

「いや、さっきご馳走すると言っただろう。今日のところは良い」

「まぁそんな……いえ、ご好意ありがたく頂戴致します。本当に美味しかったです、ありがとう」

「ありがとうお姉さん!」


 女性に続いてお礼を言う少女に、姐さんがまた笑う。そんな姐さんに、女性はひとつ提案をしてみせた。


「ですがやはりこんな素晴らしいものを頂いてそのまま、というのも気が引けます。なにかご協力出来ることはないかしら。移転してこられたということですし、なにか配るものでもあれば私が街で配って来ますわ」

「うーん、チラシはあいにくと用意していないな。……あぁそうだ、少し教えて欲しいことがある」

「まぁ、なんなりとお訊ねください」

「ここは何処だ?」


 単刀直入な姐さんの言葉に、女性が固まる。そりゃそうだ。何処かも分からないところに移転してきたなんてのたまう相手に、それ以上の態度が取れてたまるか。


「えぇと……ここ、は……”グランフェスト”から少し外れた場所にある”ネーミルの森”ですわ。あの、貴方はいったいどちらから?」

「私たちは日本から来た。グランフェスト……ネーミル……うーむ、聞いたことがないな。人並みには地理の知識はあると思っていたが」

「に、にほん……? わたくしも、聞いたことがありませんね……」


 俺も女性の口から出た単語には聞き覚えがなかった。でもさ、俺は薄々分かってたんだよ。このわけの分からん森と、謎の果実と謎の生物。あと彼女たちの格好。「中世ヨーロッパかな?」って感じのこれ、明らかに地球上の国じゃない。だからこれってあれだよあれ、異世界召喚ってやつ。間違いないわ。俺、小説で読んだもん。


 困惑した様子の女性を前に、姐さんは腕を組んでしばしなにかを考えていたようだが、ややあって女性に声を掛けた。


「まぁ良い、悪いがあとでそのグランフェストとやらに案内してくれないか。そこは街かなにかだろう?」

「えぇ、確かに街の名ですが……分かりました、では一緒に参りましょう。よろしければ、我が家にご招待致しますわ」

「ありがとう。ところで少し時間をもらえるか?」

「はい、大丈夫ですが……あぁ、支度をなさるのですね?」

「いや、支度は良いんだが。お礼の前払いに、もう少しご馳走させて欲しい」


 姐さんはショコラが好きだ。そしてそのショコラを人に食べてもらうことはそれ以上に大好きだ。

 というわけで、本日初めてのお客に実は上機嫌らしい。俺に目で合図して、接客をするようにと伝えてきた。それにひとつ頷いて、俺は彼女たちをカウンター席に案内する。


 途中、女性がカウンター席の隅っこで寝ているイノシシもどきを見て「きゃっ」と小さく悲鳴を上げた。


「ス、ストーク!? 何故こんなところに、いえそれより逃げませんと!」

「大丈夫だ、それは私に懐いている。どうしたそんなに慌てて」

「な、懐くだなんて……そんな、貴方はストークをご存じないのですか?」

「あぁ、あいにくと知らんな」

「ストークは獰猛な種で、人を見れば襲ってくるような獣ですのよ。それが懐くだなんて……」


 信じられないといった顔で、警戒を解かずイノシシもどき――ストークとやらを見ている女性を前に、姐さんはひとつ頷いてカウンターから出る。

 それからストークの頭を撫でて声を掛けた。


「お前、確かに獰猛だったが、この人たちに危害を加えたりはしないな?」


 のっそりと瞼を押し上げ姐さんを見ていたストークは、こくりとひとつ頷いて女性たちには興味なさそうにまた頭を前足の上に置いた。うーん、やっぱり犬みたいだ。


「すごいですわね……と、とりあえず、大丈夫だということは分かりました。騒がしくしてごめんなさいね」

「いや良いんだ、私も店内に動物を連れ込んでいて申し訳なかった。嫌なら外に出しておくが」

「いえ、構いませんわ。お気遣いありがとうございます」


 首を振った女性を、なるべくストークから離れた席に案内する。それから椅子を引いてエスコート。


 そんなこんなで、席についた女性たちに少し待つように告げ、姐さんは真っ白の皿へ当店自慢のガトー・オ・ショコラを主役に周りに色とりどりのショコラを添えていく。オランジェットを最後に乗せて、それらを彼女たちの前に置いた。


 俺からはコーヒーと紅茶、どちらが好きかと問えば、コーヒーの単語には首を傾げ、紅茶でお願いしたいと言ってきた。要望通り、姐さんが選んだショコラに合う茶葉を取り出して紅茶を淹れる。

 それも彼女たちの前に置いて、どうぞ召し上がれと声を掛けた。


 ただ俺としてはあのガトー・オ・ショコラには是非ともコーヒーを合わせて頂きたいところだ。無論、苦手な人に強制するつもりはないが、どうやら彼女たちはコーヒーの存在を知らないようだし、ここはひとつ新規開拓ってことで。

 そう思って、俺はデミタスカップにコーヒーを注ぐ。初めてでエスプレッソは驚くだろうから、比較的苦味のないボリビア・アモレディオスを使ったカフェラテに。ちなみにカフェラテなんかを出すときにはラテ・アートを施している。まぁ簡単なリーフとかだけど、ないよりあったほうが楽しめるだろう。


 ガトー・オ・ショコラを頬張って幸せそうな顔をしている女性たちの前に、カップを置いていく。


「これがコーヒーです。おまけなんで、良ければ飲んでみて」

「まぁありがとうございます。あら可愛らしい、絵が描かれているわ」

「ほんとだ、すごーい! 葉っぱだぁ!」


 俺のラテ・アートもちゃんと分かるくらいには上達しているようだ。初めは酷いもんだった。姐さんには「なんか気持ち悪いから描かないほうがマシ」なんて言われようだったしな。


「まぁ美味しい、甘いケーキにぴったりですわ」

「ちょっと苦いけど美味しい! ありがとうお兄さん!」

「いえいえ、喜んで頂けてなによりです」


 終始笑顔でショコラを平らげた彼女たちを、姐さんはずっと嬉しそうな顔で見ていた。舐めたんじゃないかってくらい上手に綺麗に皿を空にした女性が、少女の口を拭いながら言う。


「本当にありがとうございます。食事をしてこんなにも幸せな気持ちになったのは初めてです。あぁ本当に美味しかった……」

「こちらこそありがとう。お客にそう言ってもらうことがショコラティエにとっては一番の褒美だよ」

「私も美味しかったです! お姉さんありがとう! 私、お姉さんみたいな魔法使いになりたいなー」

「なれるよ、ショコラが好きならね」


 ぽすぽすと少女の金色の髪を撫で、姐さんが優しく笑った。そうして彼女はとんでもないことを口走る。


「ここが何処だか知らんが、この国の人間もショコラの美味しさは分かるらしい。おまけにどうやらショコラを知らないときた。おい、私は決めたぞ」

「な、なにを……」

「シャ・ド・ショコラは今日からここに移転する。きっと私はこの国の人にショコラの素晴らしさを広めるため、ここに呼ばれたんだ」

「な、なに勝手に使命感感じてんの……!? 誰もそんなこと言ってないよ! 嫌だ! 俺は帰りたい! 帰ってゲームしたい!」

「うるさい店長の意向に従えないならクビにするぞ」

「横暴! 姐さんの鬼! 悪魔!」

「いまさらだ」


 姐さんの言葉に俺は奇声を上げて頭を抱えた。女性たちは俺を心配そうに見ていたが、お客様の前だろうともうなりふり構っていられなかった。


 姐さんはそんな俺を気にかける素振りも見せず、さっき作ったばかりのショコラを口に放り込んで満足そうに頷いている。なんてこった、あのカカオもどきと牛乳もどきで作ったショコラは姐さんを満足させられる出来だったらしい。


「うん、あのカカオと牛乳も問題ない。移転にはなんの支障もないな」


 言い切った姐さんを前に、俺はただただその場に崩れ落ちるのみだ。


 あぁ、そんなわけで「シャ・ド・ショコラ」は今日から異世界に移転します。紳士も淑女も、大人も子供も、皆さん美味しいショコラをご賞味あれ。

 そして出来ることなら、俺に日本へ帰る術を教えて下さい。いつでもお待ちしています。

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