届かぬもの、忘却の 8
物凄い勢いでアーリィを取り囲む人の波に、マヤは押し退けられてしまう。
「っ……アーリィ!」
マヤが手を伸ばすも、すぐにアーリィの姿は見えなくなってしまった。
「アリア様よ! 嘘でしよう?! あの絵のお姿のままだわ!」
「うそ…そんな、あの方はもう……でも、あの奇跡を起こす聖女さまなら……!」
「なんでもいい! なぁ聖女様、俺の願いを叶えてくれよ!」
「私が先よ! ねぇ、私の子供の病気を治してちょうだい! もう薬を買うお金がないの! あの子を助けてください!」
先程まで遠巻きにジェクトの死をただ傍観していた人々は、今は口々に『願いを叶えて』と、自分勝手なことを言ってアーリィを取り囲む。
アーリィの足元に落ちた白いレヴィナの花が、押し寄せる人々によって無惨に踏みにじられた。
「ちが……聖女、なんかじゃ……」
迫り来る人の波に、アーリィは虚ろな瞳のまま小さく首を振って否定した。しかしその声は願いや救済を訴える人々の声に、一瞬にして掻き消される。
自分のことしか考えない身勝手な人々の欲望を押し付けられ、アーリィの中でなにかが静かに崩壊した。
何も写していない紅の瞳が、意味無く見開かれる。その時、一人の女がアーリィの腕を掴んだ。
「ねぇ聖女様、あたしの願いを聞いてくれよ! 何でも願いを叶えてくださるんだろ!? あたしはずっとあんたを信仰してきたんだ! 願いを叶えてくれよ!」
アーリィの腕を強く掴みながら、女は興奮した声でまくし立てる。女の顔は突如として現れた幸運に喜々とし、そして決してチャンスを逃すまいと必死なものだった。しかし次の瞬間、突然女の顔は恐怖へと歪む。そして女は絶叫した。
「ぎゃああぁあぁあぁっ!」
アーリィを掴んでいた女の右手が突如として凍結し、それは徐々に女の身体を侵食し始めたのだ。
そして時が止まったかのように固まるアーリィの周囲に、膨大な量の凍てついたマナが暴風となり吹き荒れた。
「ダメ……っ!」
マナの異変を感じたマヤが蒼白な顔で叫ぶ。同時に辺りは様子が一変して、人々の悲鳴が飛び交った。
マナという形のない凶器が、正しい制御の無いままに無差別に人々を襲い出す。
「ぎゃああああぁぁぁあっ!」
「な、なんだよこれは……っ!」
「うわあぁぁあぁあぁぁっ!」
理由がわからないままに体中が凍りつき、パニックに陥った人々は恐怖と驚愕に叫びながら逃げ惑った。その中心に立つのは、いつも以上にうつろな目をしたアーリィの姿。
「……う、自分は……あ、アリアなんかじゃ……ない……」
一人別の世界に立ち尽くしているかのようなアーリィは、暗い瞳を逃げ惑う人々に向けたまま譫言のように拒絶を繰り返した。
「う、ちがう、ちがう……ちがう……違うっ!」
頭を抱えてアーリィは絶叫する。その叫びに呼応するかのように、ミスラのマナが一層荒れ狂いを見せる。制御されずに膨大な魔力だけを与えられたマナが、本格的な暴走を始めようとしていた。
混乱する人々に踏み付けられたレヴィナの花びらが、優しい香りを残しながら天高く舞い散る。
「”わたし”は……っ!」
「アーリィッ!」
悲鳴のようなアーリィの叫びを遮るように、マヤの強い声が暴走しかけるアーリィを制止させる。彼女の声に反応し、アーリィは我に返ったように彼女を見つめた。空ろだった真紅の瞳が、ただ一人の主人を映す。すると一瞬にしてマナの力は霧散し、何事もなかったかのように大気中へと散っていく。
「ぁ……」
「アーリィ、よく聞いて」
二人の周りでは今だ混乱に叫ぶ人々が走り回っていたが、マヤは気にする様子なくただ茫然と放心するアーリィだけを見つめて言った。
「忘れなさい、全て。ここでの出来事は一切忘れるの」
「……」
「いいわね。……命令よ」
有無を言わさぬ口調でマヤは言い放つ。すると"命令"という言葉にアーリィは一瞬目を見開いて反応し、そして「はい」と今にも消え入りそうな声で頷いた。それを確認し、マヤは疲れたように大きく息を吐き出した。
「……そう。なら、とりあえずあなたは先に宿へ戻ってて」
そう告げて、そしてマヤが諭すように小さく微笑むと、アーリィはもう一度頷いて「わかりました」と呟いた。
「……マスター」
「ん?」
アーリィが背を向ける直前、いつもの抑揚の無い声でマヤを呼ぶ。
マヤは「なに?」と、優しい声音で問い掛けた。俯き加減なため、アーリィの表情はあまり伺えない。
「ひとつだけ……マスターに、お願いがあります」
「え?」
消え入るような掠れた声に、マヤは顔を近づけて耳を傾ける。そしてアーリィはゆっくりと顔を上げ、乾いた唇を微かに動かして何事かをマヤへと伝えた。
アーリィの願いを聞いたマヤは一瞬大きく目を見開き、やがて今にも崩れ落ちそうなアーリィの体を優しく抱きしめた。
目を閉じて、彼女はやり切れない想いを溜息のように吐き出す。そしてアーリィを強く抱きしめたまま、マヤは静かに頷いた。
「わかったわ……必ず」
マヤの呟く声が吐息となり、アーリィの耳元を優しく撫でる。
それでも大切な何かを失った紅い瞳は反応を示さず、ただ空疎な現実を有るがままに映すだけだった。
相変わらず無表情で瞳は虚ろではあるが、先程までの異質な雰囲気は無くなったアーリィに安心し、マヤは一先ず胸を撫で下ろす。マヤはアーリィを開放すると、「さぁ」と言ってアーリィの背を押した。
まだ人々の混乱は続いていたが、それが逆に好都合となる。アーリィはおぼつかない足取りで、混乱の中をそっと抜けて、マヤに言われた通り宿へ向かって歩き出して行った。
「……」
「……マヤ」
心なし先程よりもいっそうの重みを両腕に感じながら、ローズはアーリィを見守るマヤへ声をかけた。
呼び掛けに一拍遅れてマヤが振り返る。弱く絶望しそうな心を隠すような、強い蒼の瞳がローズへと向けられた。
「……あぁ。ジェクト、ゆっくり眠らせてあげなきゃね……」
哀しい程の笑顔を彼女は浮かべる。涙は無い。
「……行こっか」
あるいはそれが彼女の泣き顔で、吐き出す言葉が涙なのかもしれない。
「あぁ……」
マヤの問い掛けに小さく頷きながら、ローズは無意識に腕に力を入れた。
その時ローズの頭上から、何かが日の光を反射させながらゆっくりと落ちて来た。
白い天使の羽根にも似たなにかが、音無くローズの腕の中へと吸い込まれていく。
それは、甘い香りを帯びたレヴィナの花びら。ローズの腕の中で眠るジェクトの髪に、白い花びらが優しく落下した。
◆◇◆◇◆◇
自分が一体どうやってここまで戻って来たのか自分でもわからないまま、アーリィはいつの間にか宿泊していた宿屋の前いた。
宿屋を見上げながら、彼はぼんやりと立ち尽くす。ぼんやりとしたまま、やがて彼は独り言のように呟いた。
「……そうだ、戻らなきゃ……命令、だから」
ふらふらと何かに操られるかのように、彼は宿屋の入口へと近づいてドアを開け放った。
「あぁー暇だ……一日二十四時間も寝てらんねぇよ、ったく」
宿屋の一室でユーリは、一人室内をうろうろ落ち着きなく歩き回りながら暇を持て余していた。
ブツブツと文句を垂れつつ、彼はひたすら無意味に室内を往復する。ずっと体を動かしていなかった反動からか、じっとしていられなくなっているようだった。やがて暇が限界に達したユーリは、頭を抱えて叫ぶという奇行にも走った。
「うがぁーっ! もう我慢出来ねぇ、俺は外に出るぜぇ!」
大人しくしているようにと注意されていたユーリだが、彼は決意したように鼻息荒く宣言する。「よし!」と自分に喝を入れ、彼は部屋のドアノブに手をかけた。
「……」
だがしかし、彼の動きはそこで一旦止まる。もしこのまま外に出て、ばったりローズかマヤと遭遇したらどうなるかと、そんな考えが彼の脳裏を過ぎったのだ。
(あぁ見えてローズ、体調管理やらなんやらは厳しいからなぁ……)
マヤはマヤで煩く小言を言うのが目に見える。それを考え、やっぱり止めようかと弱気になりかけたユーリだったが、「いや、やっぱり俺は行くぞ!」と無駄な一人芝居を繰り広げ、ついに勢いよくドアを開け放った。そしてドアを開けた瞬間、彼は驚愕に叫ぶ。
「うわぁっ!」
なぜ彼が突然驚いたかといえば、ドアを開けてすぐ目の前にアーリィが無表情に立っていたのだ。
ユーリはアーリィを見て、ローズやマヤでなくてよかったとほっと胸をなでおろした。そして安堵したまま、彼はアーリィへ声をかける。
「なんだよアーリィちゃん、いつ帰って来たんだ?」
「……」
冷めた瞳で自分を見上げるアーリィに、ユーリはなんとなく多少の違和感を感じながらも、彼はいつもの軽い口調で語りかけた。
「あ、もしかして俺に会いたくなっちゃって戻って来たとか?」
にへらっとだらしなく笑いながらユーリは、アーリィにぶん殴られるのを覚悟でそんな事を言う。
だが予想外なことに、アーリィは全くの無反応だった。




